鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

若かりし頃の両親の写真を見て号泣(2004年9月頃・29歳)

皆さんこんばんはスキッパーです!今日も見に来て下さりありがとうございますm(_ _)m今日も皆さんに自分の話を読んで頂けるかと思うと嬉しい気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事も併せてどうぞ。では、前回の記事「記憶のサルベージ中の様々なストレス(2004年12月頃・29歳)」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事はマグマダイブの話と自分が記憶のサルベージをしている中での様々なストレスについて書かせて貰いました。さて、そんな感じで自分は風邪との戦いに時間とエネルギーを奪われながらも、記憶のサルベージを少しずつ進めて行きました。(記憶のサルベージの説明はこちら)懐かしいですねぇ。前述の通りサルベージにまつわるストレスは様々ありましたが、一方でこのサルベージという行為そのものに対する充実感もあった記憶です。そう、自分が心の底から本当にやりたいと思っているこのサルベージという行為、この行為を何にも邪魔されず思う存分やれているという嬉しさもありました。もはや自分は人間社会とは完全に断絶した生活を送っていましたから、サルベージの邪魔になるものは風邪以外無かったのです。ですから自分の生活がすごくシンプルで分かりやすかった。基本の生活パターンは、寝てるか、マグマダイブしてるか、サルベージしてるか、の3種類しかなかったですからね。ですから風邪が治ってサルベージ出来るような状態になると、「よっしゃ!サルベージの続きをするぞ!!」と喜び勇んでノートに向かった記憶もあります。まぁそうは言ってもサルベージで引き揚げられる記憶のほとんどはトラウマ級の悲しい記憶ばかりだった訳ですが。




さてさて、ここら辺で引きこもり中の生活の様子は一端横に置いておきまして、記憶のサルベージの話に戻りたいと思います。記憶のサルベージを始めてから自分は自分の過去にまつわる様々な発見をしていきました。ここでそれらを箇条書きにしてみます。



・自分の過去を振り返ろうとすると、視界0mの超濃霧状態で全く自分の過去を見えない。(過去を振り返ろうとするも視界0mの超濃霧状態で後ろが全く見えない(2004年4月頃・28歳))



・自分が高校以来食欲が全く無くなっている事に気付き、自分が長年鬱だった可能性に気付く。(高校時代以後食欲が一切無くなっていた事が異常だったと気付く(2004年9月頃・28歳))



・自分が長年鬱だった可能性が出てきた事で、「自分は本質的に極度に劣っている人間なのでは?」という思いが若干薄らぐ。(自分が長い間鬱であった可能性が出てきてホッとした(2004年9月頃・28歳))



・小学校3年生以前の記憶と、小学校3年生以後の記憶とでは、明らかに色合いが違う事に気付く。小3以前はフルカラーなのだが、小3以降は灰色一色。( 小3以前の記憶⇒フルカラー、小3以降の記憶⇒灰色(2004年9月頃・28歳))



・小学校3年生付近の記憶を引き揚げてみると、小学校3年生以降自分の家庭が戦争状態に突入した事を思い出す。(小3を起点とする記憶の色の違い=小3時の家庭環境の急激な悪化(2004年9月頃・28歳))




これらはサルベージの初期で印象的だった事柄なのですが、他にもサルベージの初期で印象に残っている事があります。あれは確かバイトを辞めて、引きこもり生活を始めた直後だと思うのですが、自分はとある写真を見てみようと思ったのです。以前の記事の中で、自分はこの記憶のサルベージにおいてまずは自分の脳内の記憶だけで過去の思い出を構築していく事にこだわっていたという話をさせて貰いました。そう、外部資料によって過去を思い出す作業はサルベージの最後の最後で良いと思っていたのです。しかし、何故かこの時だけはとある写真が見たくて仕方なくなってしまったのです。その写真は自分が大学2年生の時に母親の実家に行った際に祖母から貰ってきた写真でした。そう、母親の実家には若かりし頃の母親の写真がありましたので、それをいくつか自分は貰ってきていました。その中には両親の結婚式の写真なんかもありましてそれも印象に残っていたのですが、さらに印象に残っている写真があったんですね。それは若かりし頃の父親と母親が公園で2人揃って座っている写真です。2人とも年齢にして30歳くらい。当時2人は学生結婚をしまして、母親が父親の学生生活を支えていたのですが、たぶんその頃撮られた写真です。場所は東京都心のとある公園。子供はまだ産まれていません。たぶん自分(長男)が産まれる2〜3年前(1973年頃)。その写真はモノクロではなくフルカラーの写真でした。とは言っても撮られてから30年以上は経っていますから、色あせてはいました。




それでね〜、自分はその祖母から貰った写真がどうしても見たくなってしまいましたので、その写真を探してみたんですよ。自分的にそれは貴重なモノという認識でしたから、部屋の分かりやすい所に置いていまして、すぐに見つかりました。それで見てみましたら、そこには穏やかな顔をして座っている若かりし頃の両親の姿が写っていました。二人は仲良さげに寄り添って座っています。すると自分はその写真を見た途端、凄まじい衝撃を受け、涙が止まらなくなったのです。「うぅ〜〜〜」という嗚咽と共に止まらない涙。途中から鼻水も出てましたね。30分くらい泣いていた記憶です。どのように衝撃的だったのかと言いますと、まず自分は二人の表情が穏やかで、仲良さそうな様子だった事にびっくりしたのです。何故なら自分が幼い頃から記憶している両親の表情って、怒っているか、悲しんでいるか、辛そうにしているか、すごくネガティブ表情しか無かったんですよ。笑ったり喜んだり穏やかだったりしている2人の表情はほぼほぼ記憶にありません。ですからこのような両親の穏やかな表情を見て自分はまずびっくりしてしまいました。加えて、2人が体を寄せ合いいわゆるカップルのような仲良さそうな姿で写真に写っているのも衝撃的でした。何故なら自分の記憶にある両親の姿は常に喧嘩をしているモノばかりだったからです。うちの両親は自分が10歳の頃から父親方の祖母と叔父の扱いを巡って10年以上不毛な喧嘩を続けていました。それ以外にも医院の経営や家の購入など喧嘩の種は無数にありました。ですから例え喧嘩をしていない時でも2人の間には常に一触即発な緊張感と怒りと悲しみと諦めの空気が、充満していたのです。故に子供の自分がそこに穏やかさや仲の良さを感じた事は一瞬たりともありませんでした。ですから自分は自分が産まれる前の2人の穏やかで仲良さげな様子に衝撃を受けたのです。それは自分の全く知らない両親の姿でした。そして最後に「えっ??なんでこんな穏やで仲良さそうな2人から産まれた自分の人生がこんなに無残な人生な訳??」、と自分のこれまで人生を思い出し、悲しくて仕方なくなってしまったのです。




そう、二人が穏やかな表情で仲良さそうに写っているその写真からは「暖かさ」を感じる事が出来たのですが、反面その二人から産まれた自分の人生はただひたすらに「冷たい」ものでした。自分は引きこもり当初、自分の人生をこう表現していました。「北極の氷山を軽装で何の装備もなく登ろうとしていた人生。周りに応援してくれる人は全くいない。そして、素手で氷山を登ろうとするも氷で手がツルツル滑って全く上に登れない。しかし、それでも登ろうとあがいているうちに、身体はどんどん冷たくなっていき、疲労感もどんどん溜まっていった。ただただ徒労感のみが溜まっていった不毛な人生。」自分の28年間をまとめるとこのような人生だったのです。ですから、自分の身体がどんどん冷たくなっていった結果「マイナス100度」くらいにまで冷えてしまった印象でした。実際当時の自分は病的な冷え性でした。一方、その両親の仲良さそうな写真からは暖かさを感じる事が出来ました。イメージにすると「25度」くらいの暖かさ。ですから「マイナス100度」と「25度」では凄まじい温度差があり、そのあまりの温度差にも自分は衝撃を受けてしまったのです。




今回その両親の写真をブログにアップしようと部屋を探したのですが、現在の自分の部屋は商売用のアレコレが色々積まれている状況でもあり、探し出す事が出来ませんでした。無念。




うちの両親の不毛な喧嘩の歴史はこちらの記事にまとまっています。よろしければご覧下さい。


我が家のゴタゴタの歴史①

我が家のゴタゴタの歴史②

我が家のゴタゴタの歴史③

我が家のゴタゴタの歴史④





今日はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!m(_ _)m






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