皆さんこんばんはスキッパーです!今日も見に来て下さりありがとうございますm(_ _)m今日も皆さんに自分の話を読んで頂けるかと思うと嬉しい気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「トラウマを思い出すと身体にフラッシュバックが起こる(2021年5月・44歳)」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、現在の自分がゲップをしまくっていたら、ブログを書いた時の重苦しさが解消された、という話でした。いきなり汚い話ですみません。自分はこれから先もブログを書いていて重苦しい気持ちになる事が多々あるでしょうが、その気持ちはゲップで解消される事が今回分かりましたので、安心しました。これまでもこういう事を繰り返して、自分の鬱は回復してきたのでしょうし、これからもこんな感じで回復していくのでしょう。さて、話を東○荘事件以降(2006年)に戻したいと思います。自分が自殺を担保にして妹とコンタクトを取った所まで書かせて貰いました。そういえば、現在の自分(2021年)がブログにここら辺の話を書いていた時におへその周りが急激に重苦しくなったのです。当時の自分の苦しさが、現在の自分にそのまま反映したって感じでしたね。そう、当時の自分は首吊りの準備をして、妹とのコンタクトに臨みましたから、それはそれは追い込まれた心理状態だったのです。そして、その状態を詳細に思い出し、言語化すると言う事は、当時の追い込まれた心理状況を思い出すという事であり、その反応として現在の自分のおへそ周りが急激に重苦しくなった、と。その重苦しさはブログを書いていない時間にも影響を及ぼす程大きいものでしたが、途中からゲップが出てきて、ゲップをしているうちにその重苦しさは消えていってしまいました。
また話が2021年に飛んでしまいました。すみません。改めて話を2006年に戻したいと思います。自分は東○荘事件の後自殺を担保に妹とコンタクトをとりました。それはたぶん東○荘事件の2週間後くらいだったのではないかと思います。東○荘事件が2006年の3月ですから、妹とコンタクトを取ったのは2006年4月くらいですかね。自分は凄まじいストレスの嵐の中で妹とコンタクトをとり、なんとか引っ越しの情報を手に入れたのでした。ここら辺の東○荘事件以降の記憶ってホント曖昧でボンヤリしてるんですよ。記憶の色が漆黒中の漆黒で自分が日々どういう生活を送っていたのか、全く覚えていません。対して東○荘事件以前の自分の日々の記憶はすごくはっきりしています。そう、朝7時に起きてパチンコ屋に行き、夜8時頃までパチンコを打ち続けて帰る、という規則正しい生活でしたし、「いつ頃どこら辺のパチンコ屋で稼いでいたのか」や「あの日どこら辺でご飯を食べたのか」まではっきり覚えていますからね。東○荘事件が起こった頃は横浜のとある繁華街で打っていました。そして、東○荘事件以降、自分はパチンコを打つ気力を完全に失いましたから、自分のパチンコⅣ期の記憶も横浜のとある繁華街でぷっつり終わってしまっています。そして、それ以降自分が日々どういう生活をしていたのか全く覚えていないのです。これまで書いていますように、東○荘事件以降の自分はさらに寝付きが悪くなり、眠りの質も激烈に悪化しましたから、起きている時間も猛烈な疲労感と眠気に襲われ続け、常に意識朦朧としていました。まず肉体的にぶっ壊れまくっていたのです。そして精神的にも果てしない不安感と孤独感と絶望感と憎しみと理不尽感と虚無感とでぶっ壊れまくっていました。あれはもはや生きている事自体が滅茶苦茶な拷問状態でした。そんな状況では「自殺願望」が「自殺企図」に変わりますし、脳だってそんな状況は記憶したく無いでしょう。ですから、自分の記憶の中でここら辺の記憶は曖昧なんでしょうね。自分は大学空手部時代に「離人感」に苦しんでいましたが、それと同様な現象が起きていたとしてもおかしくありません。( 〜離人感と冷え性〜大学時代の鬱の諸症状②)
今日はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!m(_ _)m
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