鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

何故母親に対して「殺したい」程の憎悪を持つに至ったのか〜尿管結石事件③ (2007年12月・31歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「尿管結石後の自己矛盾(2007年12月・31歳)」の続きを書かせて頂きます。





前回の記事は、引き続き尿管結石事件について書かせて貰いました。この事件は自分が27歳の時に起こった事件です。自分が尿管結石の痛みを発症した際、父親から信じられない暴言を食らいまして、それにより父親に対する憎しみが「殺したい」程のモノになっていました。(詳しくはこちら→〜痛みに悶える自分に父親が言い放った破壊的暴言〜尿管結石にのたうち回った1日②)しかし、その後自分は自我が壊れる程の尿管結石の痛みに襲われ、そんな父親に看病を頼らざるを得なかったのです。これは後から考えると「屈辱」なんて言葉では到底足りないくらいの「汚辱」でした。さらに自分は痛みが収まった後に、そんな父親と痛みが収まった事の安堵感を共有してしまったのです。この時の自分は非常に両価的でした。心の一方では父親に対する「殺したい」程の憎しみが甦っているにも関わらず、一方では父親と安堵感を共有している訳ですからね。そう、尿管結石の痛みは余りにも酷かったですから、逆にそれが収まった時の安堵感も半端なく、自分はつい父親とその事を喋り合ってしまったのでした。この時の自分はホント激しい自己矛盾を起こしていました。あの時の心が真っ二つに引き裂かれた感覚は今でも覚えています。




さらに自己矛盾は続きます。病院に運ばれてから2〜3時間後に痛みは収まっていきまして、先程書きました通り自分はその安堵感を父親と共有してしまったのでした。その後の話なんですが、実は母親も病室には駆けつけていたんですね。しかし、当時の自分は母親に対しても「殺したい」程の憎しみを抱いていまして、母親と激しく対立している状況でした。(自分が何故このような感情を持つに至ったのかについては、この記事の後半で書かせて貰っています。)そして、この時の自分は父親に対しても「殺したい」程の憎しみを感じていたのですが、より母親の方を憎んでいた記憶です。そう、母親に対する憎しみは積年の恨みのようなものでしたから、自分の中に根深く染み付いていたのです。母親に対する憎しみは5年以上に渡って積み重なった憎しみでしたから、父親に対する憎しみとは歴史の深さが違いました。父親に対する憎しみは、2〜3時間前の信じられない暴言によって発生したばかりですが、母親に対する恨みは5年以上です。ですから自分が尿管結石の痛みのピークにおいて、母親ではなく父親の方を頼った理由はそこにあったと記憶しています。そう、自分にとっては2人とも「殺したい」程憎い相手でしたが、憎しみの歴史が浅い分父親の方が頼り易かった、という感じです。とは言ってもその父親を頼る事も自分にとっては「屈辱」という言葉では言い表せない程の「汚辱」だった訳ですが。




さて、そんな感じで父親と母親両方とも病室にいる状況で自分は痛みの余り父親の方を頼りました。その後痛みは引いていき、さらにその安堵感を父親と共有する事になったのでした。その後の話なんですが、もうなんというかここまでの尿管結石の一連の出来事によって自分のメンタルがズタボロになっている感覚があったんですね。なにより肉体的な痛みが凄まじかったですし、そして、痛みの発生時には父親の暴言による凄まじい精神的ダメージもありました。さらにそんな父親を頼ってしまった事による「汚辱感」もありました。これらによって自分の心身は衰弱し切っていた記憶です。こうなってしまうと、自分の中で「ここまで来たら母親と喋るのもやむを得ないのではないか」という気持ちが生まれてきたんですよ。そう、本来なら自分にとって母親は「殺したい」程憎い人間であり、喋るという選択はあり得ない選択です。(←この文章最近このブログでよく出て来ますw)実際自分はここ1〜2年間母親とまともな会話をしていませんでしたし、たまに喋ったとしても母親の事を強く責めていた記憶です。この頃の自分は2つ目の大学の3年目くらいです。そう、うちの母親は自分が幼い頃からずっと「(父親と)離婚したい、離婚したい」と泣いていまして、幼い頃から自分はその姿を見続けていました。ですから当時の自分はたまに母親と喋ると「昔から『離婚離婚』言ってたけど、なんでさっさと離婚しなかったんだ???」的な責め方をしていた記憶です。




何故自分がこのような責め方をしていたのか、歴史を遡ってみたいと思います。そもそも当時の自分は母親が父親の事を10年以上に渡って責め続けている事にムカつきまくっていたのです。(自分が小学校3年生の頃から10年以上です。)そう、うちの父親は社会に対して全くもって無知で無力で、対人関係にアホみたいに疎い人間です。ですから、父親は事あるごとに我が家に厄介な問題をもたらし続けたのです。そして母親はその問題への対処に常に振り回され続け、どんどんストレスを溜め込んでいきました。故にその事で父親を常に激しく責め続けていたのです。その姿勢は10年経っても全く変わりませんでした。それは時が経つにつれ悪化していってた印象すらあります。一方尿管結石が発症した頃の自分は、2つ目の大学に入り直したにも関わらず、相変わらず周りと全くコミュニケーションが取れず、さらに孤独感を蓄積している状態でした。これは高校時代に発症した鬱が3倍に悪化している状態です。心身ともにボロボロで、鬱の廃人のような状態で2つ目の大学の大学生活を送っていたのです。当時の鬱の諸症状がこちら↓になります。



「大学空手部時代の鬱の諸症状」


・大学空手部のとある練習メニューが自分には厳し過ぎて、その恐怖感で夜眠る事が出来ない。(空手部時代の話②)
・慢性的な食欲消失(大学時代の鬱の諸症状)
離人感(〜離人感と冷え性〜)
・酷い冷え性(〜離人感と冷え性〜)
・高校時代と比べて3倍に悪化した慢性的な疲労感と眠気(〜慢性的な疲労感と眠気〜)
・限定的な難聴(〜慢性的な疲労感と眠気〜)
・自殺願望(〜自殺願望と救い〜)
・常に訳もなくず〜っと悲しい。
・慢性的な口内炎
・空手部のとある練習メニューの恐怖を克服しようと、自主練を繰り返すも、翌日の体調が滅茶苦茶に崩れるだけで一向に体力が増える実感を得られない。そのうちに自分の中には「脱力感」「無力感」「虚無感」がどんどん増えていき、これが自殺願望へと繋がっていった。



引用終わり



そう、この時の自分は空手部を過ごした大学を4年目で退学し、2つ目の大学で大学生活をやり直していたのですが、ここでも全く周りとコミュニケーションを取る事が出来ません。孤独感はさらに蓄積していき、上記の鬱の諸症状はさらに悪化していきました。そのような状況下で自分の中にはこのような思いが滅茶苦茶強くなっていたのです。



「せめて家の中くらいは自分にとって平穏な居場所であって欲しい!!!」、と。



そう、自分は高校・大学・バイト・習い事あらゆる場所で居場所を作れず、心身はどんどん病んでいきました。それ故、家くらいは自分の安らげる居場所であって欲しいとの願いがどんどん強くなっていったのです。しかし、家に帰れば小学校3年生の頃から始まった両親間の戦争が未だに続いています。しかもその戦争は年々酷くなっているような状態でもありました。ですから自分は2つ目の大学の1年生の頃、実際にこの戦争に介入し、なんとか両親の間を取り持とうとした事もあったんですよ。自分はかなりのエネルギーを使って両親の話を聞き、なんとか戦争を終わらせようと努力しました。しかし、自分の介入にも関わらず母親は父親の事を責める姿勢を辞めません。自分は母親のそんな姿を見て、かなりの虚無感と無力感に襲われた記憶があります。当時の自分はただでさえ鬱の廃人のような状態で、そこからなんとかエネルギーを振り絞って仲介に努めたのですが、それが全く功を奏さなかったのです。自分はここから母親に対して猛烈にムカつき始めたのを覚えています。そう、仲介に失敗した際に感じたかなりの虚無感と無力感、これが裏返り、憎しみに変化した感じです。その後、その猛烈なムカつきが「そんなに親父の事を責め続けるくらい嫌ならさっさと離婚すれば良かったじゃないか!!!」的な責め方に繋がっていったのでした。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!





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