鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

同期「A」の優しさと暖かさ(過去編・1997年10月・21歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「後輩達への恐怖感が減っていった理由(過去編・1997年10月・21歳)」の続きを書かせて頂きます。




前回の記事は、空手部の後輩達が優しかった、という話でした。そう、自分は大学3年生に進級し、空手部の副主将という肩書きになってしまったのですが、全く副主将らしく振る舞う事が出来ません。後輩達と何を喋って良いのか全く分からないのです。何故なら自分はそれまでの空手部の2年間において、経験やノウハウを何も積み重ねていませんでした。それ故に自分は空手部の後輩達と何を喋れば良いのか全く分からなかったのです。ですから、当時の自分は恐れていました。自分の副部長らしくないその振る舞い、それが後輩達に不審がられ、のちのち彼らが自分の事を糾弾してくるのではないか、と。そう、自分の化けの皮が剥がされ、後輩達から無視されたりいじめられたりするような展開も全然あるように、当時の自分は感じていたのです。そして、その可能性をとても恐れてもいました。



しかし、自分が副主将に就任してから半年経っても恐れているような事態は起こりませんでした。自分は半年経っても相変わらず副主将らしく振る舞う事が全く出来ていません。それにも関わらず、後輩達は自分に対して優しく接してくれていたのです。前回の記事に書きました通り、その理由としましては、とりあえず以下の2つが考えられます。


・後輩達6人が優しかった。


・部活の人数が8人だけで、アットホームな雰囲気があった。(部員構成は、3年生2人、2年生2人、1年生4人)


さらに、もう一つの理由が考えられるのですが、たぶんこれが最も大きな理由です。それは自分の同期「A」の存在です。自分が3年生に進級した際に空手部の副主将になってしまった、と言う話はこれまで書かせて貰っています。この時に主将に就いたのが「A」なんですね。自分達の同期は1年生の時に5人いたのですが、その後減っていき、大学3年生の4月頃には自分と「A」の2人しかいなくなっていました。そして、この「A」という男がめちゃくちゃ暖かくて面倒見が良い男だったのです。コミュニケーション能力がかなり高く、自分と違って先輩達ともいつも楽しそうに会話をし、先輩達からもとても可愛がられていました。彼は自分と違って空手部の2年間の経験やノウハウをしっかり蓄積させていましたから、主将という役職にピッタリな男でした。実際主将になってからも、しっかり後輩達に色々なアドバイスをしていましたし、後輩達も彼を慕っていました。彼はまさに主将として空手部を引っ張っていましたね。そして、彼は暖かい男でしたから、同期の自分にもとても暖かい対応をしてくれたのです。懐かしいですねぇ。そう、空手部時代の自分は「鬱の廃人」状態に陥っており、コミュニケーションすらままならない状態だったのですが、彼はそんな自分にも常に優しく対応してくれていました。当時の自分の「鬱の廃人」状態は以下の通りになります。いつものコピペになります。



「大学空手部時代の11個の鬱の諸症状」


①大学空手部のとある練習メニューが自分には厳し過ぎて、その恐怖感で夜眠る事が出来ない。(空手部時代の話②)
②食欲の完全消失(大学時代の鬱の諸症状)
離人感(〜離人感と冷え性〜)
④酷い冷え性(〜離人感と冷え性〜)
⑤高校時代と比べて3倍酷くなった慢性的な疲労感と眠気。背中の疲労感は余りにも酷く、それは「疲労感」というより「激痛」という方が妥当。例えるなら「背中をドライバーで思い切り刺され続けている感じ」。(〜慢性的な疲労感と眠気〜)
⑥限定的な難聴(〜慢性的な疲労感と眠気〜)
⑦自殺願望(〜自殺願望と救い〜)
⑧何が理由かは全く分からないのだけれど、大学にいる時の自分が、身体がいつも疲れ切っていて眠くて仕方なく、いつも泣きそうなくらい悲しい事
⑨慢性的な口内炎
10空手部の稽古中の喘息
11空手部のとある練習メニューの恐怖を乗り越えようと、自主練を繰り返すも、翌日の体調が滅茶苦茶に崩れるだけで一向に体力が増える実感を得られない。そのうちに自分の中には「脱力感」「無力感」「虚無感」がどんどん増えていき、これが自殺願望へと繋がっていった。
(大学空手部時代の虚し過ぎる自主練)



おまけ①:空手部の稽古中の様子

『空手部の稽古中の自分は、喘息は苦しいわ、めまいは酷いわ、背中の慢性的な疲労感は酷いわ、眠気は酷いわ、酷い冷え性で鼻水ズルズルだわ、滅茶苦茶でした。自分の意識はこれらの症状に攻撃され続け、その肉体的苦痛で頭が狂いそうでした。その苦痛量は心の許容量をオーバーしていましたから、稽古中にも「離人感」を発症していたのです』
(大学空手部時代の虚し過ぎる自主練)


おまけ②:大学空手部を辞めれなかった理由についてはこちら)



コピペ終わり



そうそう、自分と「A」は住んでいる場所が近く、帰り道が一緒でしたので、空手部の稽古の後は常に一緒に帰っていました。帰りの電車が1時間くらい一緒だったのです。そして、ゲームという共通の趣味もありましたので、空手部の稽古の後は必ず2人でゲームセンターに寄り、30分くらい格闘ゲームをしていました。懐かしいですね〜。その関係は入部当初から引退までの3年間ずっと続きました。傍から見たら自分と彼との関係は「仲の良い友達」だったと思います。しかし、今から考えると、あれは「介護される人」と「介護してくれた人」だったと思うんですよ。そう、当時の自分は、コミュニケーション能力がゼロで、健康状態も上記の通りの「鬱の廃人」状態ですからね。しかし、「A」はそんな自分に対して常に気を遣ってくれ、優しく接してくれました。先程も書きました通り、我々が空手部に入部した際、一緒に入部した同期は5人いたのですが、それはどんどん減っていったんですね。そして、最終的には自分と彼だけになってしまいました。ですから彼の中でこれ以上同期を減らしたく無いという気持ちも強かったのだとは思います。まぁそうであっても今から考えると彼の優しさは有り難かったですね。ただし、当時の自分はそんな彼の優しさには全く気付いていません。「鬱の廃人」状態の自分に、他人の優しさに気付く余裕など全くありませんでした。




そして、自分と「A」は空手部の最上級生になり、自分が副主将で彼が主将となりました。しかし、自分は全く副主将らしく振る舞えません。後輩と何を喋れば良いのか全く分からないのです。加えて、「A」のサポートをするような事も無く、副主将として全く機能していませんでした。しかし、彼は自分のそんな姿を見ても全く自分を責めませんでした。むしろ、「無理すんなよ」的に気遣ってくれてましたね。




もしかしたら当時の自分は「A」に「副主将らしく振る舞えなくて辛い」という気持ちを伝えていたかもしれません。自分はカウンセリングの先生にはこの辛さを喋っていましたから、彼にも喋れたはずです。そして、彼は自分のそういう状態を理解してくれ、色々と気遣ってくれました。もしかしたら、彼の自分に対するそういう気遣いが後輩に伝わり、後輩も自分に優しく接してくれたのかもしれません。もしかしたら、彼から後輩の方に自分の扱いについての直接指導があったりしたのかもしれません。「あいつは色々大変な奴だから優しくしてやってくれよ」、的な。





今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!





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