鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

鬱の諸症状の認識と「土下座事件」(過去編・2000年3月・24歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 祖母が父親の見舞いに来た話(過去編・2000年3月・24歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、自分が2つ目の大学を休学した頃、うちの父親が胃潰瘍で入院した、という話でした。そして、そのお見舞いで母親方の祖母が九州から神奈川まで出て来てくれてのでした。さて、そのような感じでうちの父親は入院したのですが、幸い命には別状がなく、1〜2週間で退院する事が出来ました。そして、すぐに仕事に復帰した記憶です。ここら辺の時期は2000年の5月頃ですね。



この頃の自分はといえば父親の入院には少し心配しましたが、退院後にはそれも一段落し、その後は精神的にはけっこう楽な気持ちで日々を過ごしていた記憶です。もうこの頃には2つ目の大学を休学していました。自分は2つ目の大学においても全く人間関係を作れず、被害妄想と鬱の諸症状に苦しみまくっていましたから、そこに行かなくて良いというのは、ホントに嬉しい事でした。しかも週に1回、カウンセリングも受けられるのですからね。自分は大学休学を機に、大学内の学生相談室でカウンセリングを受け始めたのですが、新しいカウンセラーの先生もとても良い先生で、毎週のカウンセリングを楽しみにしていた記憶があります。



休学中の自分は週1回のカウンセリングの日以外は部屋に引きこもり、自分の部屋でゲームをしたり、本を読んだり、映画を見たり、気の向くままに生活していました。そう、もはやカウンセリング以外で外出する気力は消失していました。自分は大学空手部引退後の2年間、様々な場所で自分の居場所を作ろうともがきました。しかし、どこに行っても人間関係を全く作る事が出来ず、挫折し続けたからです。自分がこの2年間で居場所作りに挑戦した場所は以下の通りです。


・ロックダンス教室

・タップダンス教室

・ファミレスバイト

・自動車教習所

・2つ目の大学のクラス

・2つ目の大学の手品サークル

・タップダンスの発表会

・2つ目の大学の体育の授業


う〜ん、しんどい。自分はこれらの場所で被害妄想に苦しみ、全く人間関係を作れず、挫折し続けました。そりゃ外出する気力も無くなるはずです。しかも自分の心身は長年の鬱の蓄積でぶっ壊れまくっていました。ではここでいつものコピペ「大学空手部引退後の10個の鬱の諸症状」を貼りたいと思います。


「大学空手部引退後の10個の鬱の諸症状」


①空手部を引退後、『翌日の空手部の稽古が恐ろしくて眠れない』という状況は無くなった。しかし、空手部の3年間で受けた精神的ダメージは少なくとも「中指の拷問」2回分。これにより脳の一部が破壊された感がある。よって、空手部引退後も破壊された脳は元に戻らず、睡眠の不安定さはそのまま残った。(中指の拷問の詳細はこちら。記事の前半は読み飛ばして下さい。「そんな日々が3日程続いた後、、」という段落から始まります。)

②食欲の完全消失(大学時代の鬱の諸症状)

③酷いめまいと離人感(〜離人感と冷え性〜)

④酷い冷え性(〜離人感と冷え性〜)

⑤高校時代と比べて3倍酷くなった慢性的な疲労感と眠気。背中の疲労感は余りにも酷く、それは「疲労感」というより「激痛」という方が妥当。例えるなら「背中をナイフで刺され続けている感じ」。(〜慢性的な疲労感と眠気〜)

⑥自殺願望(〜自殺願望と救い〜)

⑦何が理由かは全く分からないのだけれど、大学にいる時の自分は、身体がいつも疲れ切っていて眠くて仕方なく、いつも泣きそうなくらい悲しい

⑧慢性的な口内炎

⑨自分は大学空手部の3年間でさらに「自分に対する自信」をさらに3倍失っていた。そして、自分の頭の中には依然として「トレーニング=体力が付く=自信が付く」という図式が色濃く残っており、この図式が自分にも当てはまると相変わらず信じていた。そこで、空手部を引退し、人間サンドバッグの恐怖が無くなったにも関わらず、「自分に対する自信」を回復させる為に自主練をを続けてしまった。(トレーニングの内容は、ランニング、坂道ダッシュ、縄跳び、筋トレなどで、1時間程度のトレーニング。頻度は週3回。)



しかし、空手部の頃と同様にトレーニングを積み重ねても一向に体力が増える実感が得られない。トレーニング翌日に体調が滅茶苦茶に崩れるだけ。翌日目が覚めると自分の身体はとても重くてダルく、身体は冷え切っていて、鼻水はダラダラ。食欲は当然全く無く、背中の疲労感は疲労感というより激痛。故にトレーニングすればする程、自分の中にはさらに「孤独感」「脱力感」「無力感」「虚無感」が増えていき、これが更なる自殺願望へと繋がっていった。そして当時の自分はトレーニングをすればする程心身が衰弱していく悪魔のからくりに全く気付いていない。体調が少し回復すると、またトレーニングをしてしまう。このトレーニング行為は「無意識的な全力の自傷行為」とも言える。

10 大学空手部の3年間で「自分に対する自信」がさらに3倍失われた事で、「被害妄想」もさらに3倍悪化。自分は大学生活の中で何をしていても全く自信が持てず、常に他人の視線を気にし、病的(×3倍)に「ビクビク」「オドオド」している状態。もはや自分にとって「自分という存在の価値」は、髪の毛一本より軽くなっている感じで、いつ他人から軽んじられ、無根拠に攻撃されても全くおかしくないような、そんな凄まじい緊張感の中で日々を送る羽目に。こんな状態では、完全に社会生活は不可能。


おまけ:サークル活動を始めとする様々なモノに挑戦している時の自分の体調


『こんな状態(鬱の廃人状態)じゃどこ行ったって、グダグダです。どこ行っても、「背中をナイフで思い切り刺され続けている感じ」の激痛が自分を襲ってくるのですから。加えて、冷え性も酷くて鼻水ダラダラ、めまいも頻発です。自分の意識の95%はそれらの精神的・肉体的苦痛に占領されており、集中力や意欲の欠片もありません。この状態は特に上記⑨のトレーニングの翌日が酷かった記憶です。』



う〜ん、しんどい。こんな身体で大学に通えるはずがありません。今回このコピペを貼ってみてふと思ったのですが、自分が両親に対して2つ目の大学の休学の理由を説明する際、上記の鬱の諸症状の辛さに関して、何一つ喋れませんでした。仮にもし当時の自分が上記の鬱の諸症状を認識出来ていて、その辛さを両親に訴える事が出来ていたなら、「土下座事件」は起こらなかったかもしれません。



どういう事かと言いますと、当時の自分は上記の諸症状に苦しみまくっていたのですが、自己認識能力が皆無でしたから、自分の健康状態さえ全く把握出来なくなっていました。ですから、両親に現在の自分の心身の辛さを1つも伝えられなかったのです。自分は以前通っていた1つ目の大学でもカウンセリングを2年間受けていましたが、そこでも上記の諸症状の辛さを喋る事はほとんど出来ていませんでした。唯一の居場所であったカウンセリングで喋れないのですから、両親になんてもっと喋る事が出来ません。



ですから、自分は2つ目の大学休学の理由を両親に伝える時に困ってしまったのです。当時の自分が認識出来ていた大学休学の理由は「大学内に全く人間関係を作る事が出来ない」でしたが、これを両親に言うのはホントに嫌でした。自分は両親と何一つ人生を共有せずに年齢を重ねましたから、自分は両親の人生を全く知りませんでしたし、両親も自分の人生を全く知りません。そんな相互理解0の他人に自分の「恥部」を晒す事はホントにキツかったのです。



ただ、もしこの時に自分が上記の諸症状を認識出来ていて、上記の諸症状の辛さを親に喋れていたなら、全然違う展開になっていたかもしれません。自分が上記の諸症状の辛さを喋れていたなら、親は休学を許していたと思うのです。だって上記の鬱の諸症状はどう考えても社会生活が不可能な状態だからです。



しかし、実際には自分は上記の諸症状を何一つ言語化出来ていませんでしたから、最も言いたくない理由「大学内で全く人間関係を作れていない」を言わざるを得なかったのです。それによって凄まじいストレスが発生し、父親を土下座させる事になってしまった。そう、ですからもし自分が自分の鬱の諸症状を認識し、親にその辛さを訴えれていたなら「土下座事件」は起こらなかったかもしれません。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!





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