鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。ツイッターを@skipper1242でやってましたが凍結されましたので、現在は@skipper954954でやってます。

母親に対して「殺したい」程の憎しみを感じるまで(過去編・2004年3月・28歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 父親に入院費を渡した際に起きた事件(過去編・2004年3月・28歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事も、「尿管結石事件」後の自分が家族とのコミュニケーションを復活させた、という話でした。そして、父親との間で起きたちょっとした事件についても書かせて貰いました。「尿管結石事件」とは自分が27歳の時に発生した事件です。この事件を端的に説明させて貰いますと、ある日自分が尿管結石の激しい痛みに襲われ、父親に助けを求めた所、「こんな時に頼りやがって!!」という血も凍るような暴言を吐かれた、という話になります。事件の詳細はこちらです。



自分は病院から退院してきた直後から、家族と再びコミュニケーションを取り始めました。しかし、それはかなりの苦行だった記憶です。何故なら当時の自分は家族3人に対して等しく「殺したい」程の憎しみを感じていたからです。自分は家族3人それぞれに対して以下の憎しみを感じていました。過去記事でまとめたものになります。



父親→「尿管結石事件」の際の血も凍るような暴言を許せるはずもなく、「殺したい」程の憎い。


母親→母親は、自分の仲裁にも関わらず、15年以上続いている父親の糾弾をやめようとしなかった。自分は2つ目の大学での挫折以降、家庭内に「居場所」「安心」「暖かさ」を求めていたのだが、母親が父親を糾弾し続けているので、家庭内は15年以上戦争状態のまま。よって自分が求めてるものは何一つ手に入らず、母親に対する憎しみはどんどん増えていき、「殺したい」程の憎しみになっていった。


妹→「尿管結石事件」前の自分は妹に対してかなりの劣等感と憎しみを感じていた。何故なら自分の人生が挫折し続けているのに、妹の人生の方は上手くいっているから。そして、妹が母親とコミュニケーションを取り続けていたから。この心理状態の時に、尿管結石が発症。当時の自分は尿管結石発症の原因を「家庭内孤立状態」と結論付けた。しかし、一方でこの尿管結石発症の発端が「妹の出すドア音」である事も忘れていなかった。当時の自分の心の中には、『「妹の出すドア音」がきっかけで尿管結石が発症した』との思いもあった。当然妹に対する憎しみはさらに悪化し、「殺したい」程の憎しみとなっていた。



自分は上記の憎しみを必死に抑えながら、家族とのコミュニケーションを復活させた、という事になります。そしてそれはかなりの苦行だった、と。その中では前回の記事でお話ししたような、父親とのトラブルもありました。



今回の記事では、母親に対する憎しみを改めて思い出して行こうと思います。自分は家族それぞれに対して等しく「殺したい」程の憎しみを感じていたのですが、その中で最も歴史が深かったものが、母親に対する憎しみです。自分が母親に対して「殺したい」程の憎しみを感じ始めてから、この時すでに2〜3年は経っていました。母親に対する憎しみがあまりにも深過ぎる余り、母親とコミュニケーションを取り続けている妹さえも憎くなっていったのです。



そして、先程のまとめにあります通り、自分が母親を憎んでいた理由は「母親が父親に対する激しい糾弾を15年以上全く止めないから」でした。母親のこの姿勢により、うちの家庭は15年以上戦争状態であり続けました。うちの母親は父親の事を一方的に激しく糾弾し続けていましたから、我が家には「安心」「暖かさ」の欠片もありませんでした。もちろん自分の「居場所」も全くありません。そんな荒廃し切った家庭環境が自分が小学校3年生の頃から15年以上続いていたのです。



見方を変えますと、うちの父親は15年に渡って母親から激しく糾弾され続けていました。それに対して自分が同情していたのかという話ですが、それは全くありませんでした。父親は自分が幼い頃から自分に対してひたすら無関心でしたからね。当時の自分の中に父親との楽しい記憶や尊敬や信頼の情などは一切ありません。ですから、父親が糾弾され続ける事に対する同情は全くありませんでした。自分が母親に対して感じていた憎しみは、ひたすらに家の中を戦争状態に陥れている事に対してでした。



以前の記事でもお話しました通り、自分は2つ目の大学を休学している頃(24歳)に、この両親間の戦争状態に介入し、なんとか戦争状態を終わらせようとした事もありました。あの頃の自分は体調が「鬱の廃人」状態に陥っており、家庭内に本当に切実に「居場所」「安心」「暖かさ」を求めていたからです。



しかし、母親の父親に対する憎しみは狂気的になっており、自分の仲介を聞き入れるような状態では全くありませんでした。自分は徐々に仲介に無力感を感じ始め、その無力感は母親に対する憎しみに変化していったのです。そう、自分は、いつまで経っても家の中を戦争状態に陥れ続ける母親の事が憎くてたまらなくなっていったのです。



そして、その後も自分は外の世界で挫折し続け、家の中に「居場所」「安心」「暖かさ」を求める気持ちがますます強くなっていきました。しかし、相変わらず母親の糾弾姿勢は変わっておらず、自分の憎しみはさらに悪化し、それは「殺したい」程の憎しみにまで悪化していったのです。こうなってしまうと自分は母親とコミュニケーションを取るのが到底無理な心理状態に陥りました。すれ違うのも反吐が出ましたからね。そんな状態が2年程続いた後に「尿管結石事件」が起こりました。そして事件後、自分は憎しみを必死に抑えて母親と再びコミュニケーションを取り始めた、という流れになります。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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