鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

「視界0mの超濃霧」=「記憶が超カオス状態」(過去編・2004年5月・28歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「何故社会生活から脱落する羽目になったのか、その理由が知りたくて仕方がない(過去編・2004年5月・28歳)」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、自分が人生の謎解きに挑み始めた、という話でした。その謎とは、


「何故に自分の人生はどこにも居場所が作れず、社会から脱落する羽目になってしまったのか??」


です。当時自分は28歳。2つ目の大学はすでに退学しており、最後の頼みの綱の古本屋バイトからも脱落しかけていました。もはや半年以内に自分が引きこもり状態に陥るのは目に見えており、自分の人生の転落劇が落ちる所まで落ちた、という感覚がありました。そう、自分は幼い頃から必死に外の世界で居場所を作ろうともがき続けましたが、全てに挫折し続け、鬱が悪化していくだけの28年間を送っていました。



ではここで久しぶりに「鬱悪化のフローチャート」を貼ろうと思います。このフローチャートは自分が幼い頃よりどのように「自分に対する自信」を失っていったのかを示しています。各項目後ろの数字は、自分の中の「自分という存在に対する自信」を数値化しています。この数値を「メンタル数値」と呼んでいます。この数値が下がれば下がる程、自分が「自分に対する自信」を失った事を示しています。同時に「被害妄想の悪化」と「体調の悪化」と「家族への信頼感の喪失」も意味しています。



「鬱悪化のフローチャート(3歳〜28歳)」



3歳くらいの時に起きたとある事件により、親に対して自分の感情や欲求を表現するのを諦める(プラスマイナス0)
(とある事件の概要は こちら)

小学校3年生の時の家庭環境の急激な悪化(マイナス5)
(詳細はこちら)


小学校3、4年生の時のスイミングスクールにおける離人(マイナス5)
(詳細はこちら)



小学校6年生の時の「A先生怒られ事件」 (マイナス8) 被害妄想発症
(事件の概要はこちら・被害妄想についてはこちら)



中学入学時の「自己紹介事件」(マイナス10)
(概要はこちら)

中学校3年間の「ゲームボーイ依存」(マイナス10)
(概要はこちら)

中学校のクラスにおける「被害妄想的ないじめの予期不安」(マイナス10)
(概要はこちら)

高校入学時に起こった「歓迎会逃亡事件」(マイナス11)
(概要はこちら)

高校1年生の秋に起こった「暴言事件」(マイナス16)
(概要はこちら)



高校1年生の3月に起きた「寄せ書き事件」(マイナス21)
(概要はこちら)

高校2年生の4月に起きた「ホルンパートでの自己紹介事件」(マイナス22) 鬱を完全発症
(事件の概要はこちら・8個の鬱の諸症状はこちら)



大学に入学後空手部に入部し、そこでの稽古の厳しさを乗り越えようと必死に自主練を繰り返すが全く体力が付かない。自分の中で無力感がどんどん増えていき、「被害妄想」がさらに悪化。それにより、空手部の稽古に対して「死の恐怖」を感じるようになり、夜眠れなくなってしまった。この生活を3年間続けた結果、鬱がさらに3倍に悪化。「鬱の廃人」状態に突入。(マイナス66)
(この時代の12個の鬱の諸症状はこちら)



大学3年生でカウンセリングを受け始めるも、鬱の諸症状の辛さをほとんど喋る事が出来ず、短期的には何のポジティブな効果も得られず。(マイナス66)(詳細はこちら)



大学空手部引退後も、トレーニングという名の「無意識の自傷行為」を続けてしまい、鬱が全く回復しない(マイナス66)(詳細はこちら・大学空手部引退後の「鬱の廃人」状態はこちら)



大学空手部引退後、自分の居場所を作ろうと、ロックダンス教室、タップダンス教室、ファミレスバイト、自動車教習所にチャレンジするも、全く周りとコミュニケーションが取れず、全て挫折。(マイナス71)(概要はこちら)



1つ目の大学を中退し、2つ目の大学で大学生活をやり直す(23歳)。しかし、半年でクラスと手品サークルの人間関係から脱落。その後タップダンス教室や大学の体育の授業でも人間関係を作れず、大学生活が破綻。(マイナス76)(概要はこちらこちら)



大学を1年間休学し、比較的穏やかに過ごす(24歳)。(マイナス76)
(概要はこちら)


大学休学中、家の中に「居場所」「安心」「暖かさ」を求め、15年間続く両親の喧嘩の仲裁に動く(24歳)。しかし、母親の心の中には15年間に渡って蓄積した「父親への不信感」が膨大に存在し、説得が全く通じない。自分は次第に仲裁を諦め、無力感を感じるようになっていった。そして、いつまでも父親の糾弾を続ける母親に対して、憎しみがどんどん増えていった。(マイナス78)(概要はこちら)

2つ目の大学に復学し、和楽器サークルに居場所を作ろうとするも、やはり周りの学生と全くコミュニケーションが取れず、3ヶ月で大学生活から脱落(25歳)。(マイナス83)(概要はこちら)



2つ目の大学の復学に失敗後、再起をかけて古本屋バイトに取り組むも、「被害妄想」と「鬱の諸症状」が酷く、1年半で支店を撤退(27歳)。その後、残った本店での人間関係もどんどん厳しくなっていった。(マイナス88)(概要はこちら)



大学復学に失敗し、古本屋バイトでも挫折し続ける間、妹の方は海外ホームステイに成功したり、新しい彼氏が出来たりで、充実した生活を送っているようだった。それに対する劣等感がすごい勢いで増大(27歳)。(マイナス91)(概要はこちら)



2003年10月のある日、尿管結石が発症し、あまりの痛みに父親に助けを求めるが、父親から「こんな時だけ頼りやがって!!」という血も凍るような暴言を吐かれる(27歳)。その後病院に担ぎ込まれ、そこでも甚大な精神的・肉体的苦痛を受ける事となった。(マイナス132)(ダメージの詳細はこちら)



いや〜見事に転落していく一方でしたねぇ。チャート最下部の「尿管結石事件」から1年後に自分は部屋に引きこもる事になります。そしてチャートにありますように、3歳の時に「0」から始まったメンタル数値は、27歳の「尿管結石事件」後には、「マイナス132」まで下がってしまいました。そして、メンタル数値が「マイナス132」まで下がった所で自分は自分の過去の記憶をノートに書き始めたのです。



しかし、これまで書いていますように、自分の過去の記憶は視界0mの超濃霧に遮られて、全く振り返る事が出来ません。あれは「なんじゃこりゃ???!!!」って感じでしたねぇ。



では、この「視界0mの超濃霧」は何だったのかという話ですが、自分はこれまでにこのような話を何度も書いてきています。過去記事から引用します。


ここら辺の話は以前にもさせて貰いましたが、自分は幼い頃より日々の出来事や感情を全く言語化せずに成長してきました。自分は物心ついた頃にはそれらを親に喋るを諦め切っていたのです。そして、両親もそんな自分に全く興味を示しませんでした。ですから、自分が経験した日々の出来事や感情は全く言語化されないままだったのです。そして、言語化されなかった記憶は、全く整理整頓されませんし、感情の消化も全くされません。ですから言語化されない記憶は「カオス状態」のまま記憶の海の底に沈んで行く事となりました。



そして、「カオス状態」のまま沈んでいった記憶は、他の「カオス状態」の記憶と混ざり合い、さらに「カオス化」が進み「「超カオス状態」に陥りました。自分の記憶は幼い頃からずっとこの状態が続きました。こうなってしまうと記憶の中はぐちゃぐちゃのぐちゃぐちゃです。全ての記憶が混ざり合い、もはやどこに何の記憶があるのがさっぱり分かりません。これは記憶の「ゴミ屋敷状態」です。




ですから、自分の「日々の健康状態に関する記憶」も全てがカオス状態のまま記憶の海の底に沈んでいき、他の記憶と混ざり「超カオス状態」に陥ってしまいました。こうなってしまうと後からその健康状態の記憶を思い出す事が出来ません。つまり自分は「過去」の健康状態の記憶が全く思い出せない状態だったのです。「過去」の健康状態を思い出せないのですから、「現在」の健康状態が悪化しても、それに気付く事が出来ません。何故なら「過去の健康状態」と「現在の健康状態」を比較する事が出来ないからです。ですから、自分の健康状態は小学校3年生以降、どんどん損なわれていったのですが、当時の自分はそれに気付く事が全く出来なかったのです。



そして、自分は高校で鬱を発症し、さらに大学空手部の3年間で鬱は3倍悪化しました。しかし、鬱の悪化にも当然気付いていません。カウンセリングでもその辛さを全く喋れていませんでしたからね。ですから、大学空手部引退後、自分は上記の10の諸症状に苦しみまくっていたのですが、それを親に説明する事が全く出来なかったのです。なんかもうこうなってくると自分の人生は呪われてるとしか言いようがありません。どんなに心身が辛くてもそれを「辛い」と認識し、助けを求める事すら出来なかったのですから。



上記のコピペにありますように、自分は幼い頃から日々の出来事や感情を全く言語化せずに生きてきました。故に日々の記憶は一切整理整頓されず、また時々の感情の消化も一切されず、それらは「カオス状態」のまま記憶の海の底に沈んでいく事となったのです。そして、「カオス状態」のまま沈んだ記憶は、他の「カオス状態」の記憶と混ざり合い、さらにカオス化が進みました。



このような状態が20年以上続いた結果、自分の人生における全ての記憶が、ぐちゃぐちゃのぐちゃぐちゃに混ざり合い「超カオス状態」に陥っていたのです。こうなるともはやどこに何の記憶があるのかさっぱり分かりません。だって全ての記憶がぐちゃぐちゃに混ざり合い、思い出すための手掛かりすら見つからないのですから。これは例えるなら、単語の順番が、五十音順ではなく全くランダムに並んでいる「辞書」のようなものです。こんな辞書は、書いてある中身は辞書ですが、全く辞書としての用途を果たせませんよね。同様に自分の記憶も後から全く思い出せない状態に陥っていたのです。



話をノートを書き始めた時期に戻します。つまり、自分が過去を振り返った際に見た「視界0mの超濃霧」の正体は、「超カオス状態」の記憶だった、という事になります。そうなんですよ。自分の全ての記憶は、ぐちゃぐちゃのぐちゃぐちゃに混ざり合っていたので、過去を振り返っても何がなんだかさっぱり分からなかったのです。ですから、それが「視界0mの超濃霧」に見えたんですね。最初自分はそれを見た時愕然としました。だって自分の過去の記憶が「超カオス状態」に陥っていて、全く何が何やら訳が分からないのですから。



しかし、ここで立ち止まっては、人生の謎を解明する事は出来ません。とりあえず自分は過去の記憶の「骨組み」を思い出し始めたように思います。例えば「自分が大学では空手部だった」とか、「中学、高校は吹奏楽部だった」とか、自分に関する基本中の基本の情報ですね。そこら辺の情報は、記憶が「超カオス状態」でも流石に思い出すことが出来ました。他にも「大学時代に通算6年間カウンセリングを受けていた」とか「どこに行っても友達を作れなかった」とか。まずは「骨組みとなる記憶」を言語化していき、それを頼りに細かい記憶の肉付けに入っていったのです。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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