鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

「家族に殺されるかもしれない」という病的な被害妄想〜東○荘事件⑧(過去編・2006年3月・30歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 カウンセリングで喧嘩の一件を夢中で喋る〜東○荘事件⑦(過去編・2006年3月・30歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、自分が父親と取っ組み合いの喧嘩をした後の話でした。当時の自分は29歳です。この頃の自分は実家暮らしだったのですが、両親が引っ越しを言い出した事に『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみを感じ始めていました。そして、ある日自分が外出する為に玄関に向かった所、父親が激昂して掴みかかって来たのです。この事件の名前を東○荘事件と言います。この事件の前フリと途中までの経緯を以下のフローチャートにまとめてあります。



『東○荘事件の前フリとフローチャート


前提として、当時の自分は家族に対して『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎悪を感じていた。理由は「両親が引っ越しを言い出したから」その憎悪を構成する5つの理由は以下の通り。



「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由」(前提として当時の自分は実家暮らし)



①そもそも当時の自分は両親に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」をお読み下さい。) よって自分と両親とはこの1年以上全くコミュニケーションが無い状態が続いていた。そんな状態で両親が急に「引っ越し」という一大イベントを言い出してきたことが許せない。自分には「引っ越しをしたい」という気持ちが1㎜もない。



②もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、家族とのコミュニケーションは避けられない。そして、当時の自分は家族に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。よって、家族とコミュニケーションを取らざるを得ない状況を強制的に作り出された事に対する凄まじい憎しみ。




③もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、そこに自分の時間やエネルギーを割かなければならなくなる。その事に対する凄まじい憎しみ。何故なら、当時の自分はそれまでの29年間の人生を、両親によって全て搾取されたような感覚を持つに至っていた。よって、両親に人生を搾取された上に、さらに引っ越しで時間とエネルギーを搾取されそうな事が気が狂いそうな程の憎悪を発生させていた。




④当時の自分の心身は長年の孤独によって、「鬱の廃人」×2倍状態に陥っていた。「被害妄想」は病的(×6倍)に悪化していたし、日々の心身の辛さも半端ではなかった。(当時の鬱の諸症状はこちら)当時の自分はカウンセリング&パチンコ生活をしていたが、それは心身ともにギリギリな状態でなんとか日々を過ごしている状態。こんな状態で「望まない引っ越し」や「望まない一人暮らし」をするエネルギーがあるはずもなく、それに対する凄まじい不安と憎しみも発生していた。



⑤当時の自分は1年間の引きこもり生活を終え、ようやく外の世界に出れるようになっていた。そこで新しく始まった生活は、週1回カウンセリングを受け、そのカウンセリング代と生活費を稼ぐ為に週4〜5回パチンコで稼ぐ生活。この生活は「鬱の廃人」状態に陥っていた自分にとってかなりの心身の苦痛を伴うものだったが、一方でそれ以上のやり甲斐と希望もこの生活に感じていた。それは自分が29歳にしてようやく掴んだ自分らしい日々だった。しかし、両親が引っ越しを言い出した事で、この明るい日々はたった2ヶ月で終わってしまった。自分は引っ越しがもたらす凄まじい憎しみと絶望と不安と悲しみに打ちひしがれ、再び人生の先行きが全く見えない状態に陥ってしまった。これによる、恨みも凄まじいものがあった。



『東○荘事件のフローチャート



2006年3月のある日、30歳の自分はいつものように暴力衝動を自分の部屋の壁に思い切りぶつけた。そして、カウンセリングに行こうと外出しようとした所、玄関で父親が激昂して掴みかかってきた。そもそも自分は両親に対して『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみを感じていた為、この父親の激昂に対してすぐに激しい憎しみの炎が爆発。「ふざけんな!!!」と父親の腕を掴み返し、揉み合いになった。



自分はそれまでの2年間全く家族とコミュニケーションを取っていなかった。何故なら喋るどころか、すれ違うだけでも反吐が出る為。しかし、この時の自分にはアドレナリンが出まくっていた為、これまで溜まりに溜まった鬱憤が吐き出された。例えば


「お前らのせいで俺の人生滅茶苦茶だ!!!」


「ガキがガキ作ってんじゃねぇよ!!!」



自分と父親が玄関で掴み合いをして怒鳴り合っているとそこに母親と妹も現れた。しかし、妹は父親の加勢をして来たし、母親も状態にはげしい敵意を剥き出しにしている。自分はこの場が1vs3の場である事を悟った。これにより自分の心の中にはさらに激しい孤立感と激しい高揚感が発生。



自分は自分に対して激しい敵意を向けている母親に対しても凄まじい憎しみを感じていた。そこで自分は父親と揉み合いながらも、母親に自分の顔を突き出し、

「なんだ!!お前も俺の事が憎いのか、憎いのなら俺の顔を殴ってみろよ!!!」


と煽った。これはどういう事かと言うと、うちの母親は元来大人しい性格の人なので、自分の事を殴れず、困惑するのではないかと思ったから。ところが意に反して母親は自分の頬を殴ってきた。これは完全に自分の見込み違い。これにより自分の心の中にさらに激しい孤立感と高揚感が発生。



自分はさらに母親に対して激しい憎しみを感じ、何か母親に攻撃したいと感じた。そこで玄関のドアを開け、「助けて!!殺される!!!」と大声で叫んだ。この言葉には2つの意味があった。1つ目はこれは本当の気持ちだった。自分は両親が言い出した引っ越しの話によって、心身共にギリギリの所に追い詰められていたし、さらに今現在このような孤立無縁の修羅場を迎えている。


2つ目は母親に対する激しい嫌がらせの気持ち。うちの母親はこの家に引っ越して来て15年間近所付き合いが全く上手くいっていなかった。孤立していた。そこで自分が近所に物騒な言葉を叫ぶ事で母親の顔に泥を塗ってやろうという思いがあった。



自分と父親の掴み合いの喧嘩は続くも、母親も妹もその仲介には入ってこない。よってこの場がいつまで収拾しなかった。しかし、喧嘩が始まってから10分くらいたった頃、とうとう母親が交番に電話し、警官が我が家に到着。警官が自分と父親をなだめてきた。すると父親はここで急にしおらしくなり、「すみません。自分が悪いんです。」と警官に謝罪。これに対して自分は、「何カッコつけてやがんだ!!父親らしい事など何一つしてこなかった癖に!!!」とさらに激昂。その後警官が外出するよう促してきたので、自分はその場を後にした。



フローチャート終わり』




ではフローチャートの続きを考えていきます。家を出た自分はカウンセリングに向かい、そこでカウンセラーのH先生と喋りました。自分は先程の喧嘩の経緯をかなり興奮しながら喋った記憶です。1時間はあっという間に過ぎました。自分はまだまだ喋り足りなかったのですが、カウンセリングセンターを後にしました。



その後自分はカウンセリングセンター近くの繁華街を当てもなくブラつきました。これからどうしようという話です。自分は家に帰るつもりなど毛頭ありませんでした。両親とあれ程激しくぶつかっておいて、どのツラ下げて家に帰ろうと言うのでしょう。


そう、そもそも自分はこの事件以前から両親に対して『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみを感じていたのです。家族とのコミュニケーションなど不可能な状態になっていました。家の中ですれ違うだけでも反吐が出るような状態でした。そこに来ての先程の大事件です。もう自分の心の中は憎しみが大爆発していました。ここまで来ますと家族に対する憎しみは「殺しても殺し足りない」程の憎悪に激化してきた記憶です。もしこの時の自分が暴力衝動に完全に身を任せていたなら、家族全員皆殺しにしかねなかったと思います。


そして、この時の自分の心の中には「憎しみ」とは真逆の感情もありました。それは「恐怖」です。この感情もまた絶望的に凄まじい事になっていました。



前回の記事に書きました通り、当時の自分は「被害妄想」が病的(×6倍)に酷くなっていました。そもそも自分は学校生活における長年の挫折の連続により、「自分に対する自信」を激しく失い続けていました。これにより自分は無意識的に自分自身を激しく軽蔑するようになっていたと思います。その結果「被害妄想」がどんどん酷くなっていったのです。これによって自分は高校時代に病的な被害妄想で夜眠れなくなり、鬱を発症する事となりました。(自分が自信を失っていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」をお読み下さい。)



その被害妄想とは、「自分という人間がただそこにいるだけで無根拠に他人から蔑みや攻撃の対象になってしまいそう」、そんな「妄想」です。


そして、この被害妄想は大学の空手部の3年間でさらに3倍に悪化し、2つ目の大学生活と「尿管結石事件」により、さらに2倍悪化しました。つまりこの時の自分の「被害妄想」は高校時代の6倍酷くなっていたのです。高校時代の時点で自分の「被害妄想」は「病的」でしたから、この時の被害妄想は「病的(×6倍)」という事になります。(被害妄想がどのように激しくなっていったのかに関しても、このブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」に詳細が書いてあります。)



つまり、この時の自分は、他人からの蔑視や攻撃に病的(×6倍)に怯えている状態でした。もはやそれが全く無いような場所(例えばパチンコ屋)でもそれを「妄想的」に感じ、病的(×6倍)にビクビクオドオドしていたのです。そんな自分が家の中で家族から直接的な暴力を受けてしまいました。これがこの時の自分にどれほどの精神的ダメージを与えたのか、計り知れないものがあります。



それまでも自分は引きこもっている時期にも、父親からの襲撃を受け、激しい精神的ダメージを受けていました。( 「父親突入事件」まとめ)これによって自分はただでさえ寝付けない睡眠が、さらに寝付けなくなって行ったのです。そこに来て、今回は家族3人からフルボッコですからね。



あ、あの喧嘩の最中に母親が自分を殴った件ですが、あれは自分が煽った結果でした。あの時の自分は母親を困らせてやろうと思ったのです。別に母親が自発的に殴って来た訳ではありません。ただ自分から挑発した結果とは言え、あの時の自分は母親からも激しく攻撃されたような気持ちになっていました。もちろん、妹も父親の加勢をしてきましたから、妹にも攻撃されたような気持ちになっています。



ですから、自分の心の中では絶望的な程凄まじい恐怖感が発生していました。病的(×6倍)な被害妄想状態において、孤立無援状態で、家族3人から激しい攻撃を受けたのですから。それを言葉にするとこんな感じです。



「もし自分が家に帰ったら、自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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