皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 「現在」も「未来」も、何もかもが究極的に不安定な状態(過去編・2006年3月・30歳) 」の続きを書かせて頂きます。
記事も引き続き「東○荘事件」の話でした。「東○荘事件」とは自分が29歳の時に起きた事件です。この頃の自分は実家暮らしだったのですが、両親が引っ越しを言い出した事に『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみを感じ始めていました。そして、ある日自分が外出する為に玄関に向かった所、父親が激昂して掴みかかって来たのでした。ではここで、この事件の前フリと、この事件がどのような経緯を辿ったのかをご覧下さい。前回の記事をお読みの方はスルーして下さい。
『東○荘事件の前フリとフローチャート』(事件が起きたのは2006年3月で30歳の時)
前提として、当時の自分は家族に対して『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎悪を感じていた。理由は「両親が引っ越しを言い出したから」その憎悪を構成する5つの理由は以下の通り。
「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由」(前提として当時の自分は実家暮らし)
①そもそも当時の自分は両親に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照。) よって自分と両親とはこの1年以上全くコミュニケーションが無い状態が続いていた。そんな状態で両親が急に「引っ越し」という一大イベントを言い出してきたことが許せない。自分には「引っ越しをしたい」という気持ちが1㎜もない。
②もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、家族とのコミュニケーションは避けられない。そして、当時の自分は家族に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。よって、家族とコミュニケーションを取らざるを得ない状況を強制的に作り出された事に対する凄まじい憎しみ。
③もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、そこに自分の時間やエネルギーを割かなければならなくなる。その事に対する凄まじい憎しみ。何故なら、当時の自分はそれまでの29年間の人生を、両親によって全て搾取されたような感覚を持つに至っていた。よって、両親に人生を搾取された上に、さらに引っ越しで時間とエネルギーを搾取されそうな事が気が狂いそうな程の憎悪を発生させていた。
④当時の自分の心身は長年の孤独によって、「鬱の廃人」×2倍状態に陥っていた。「被害妄想」は病的(×6倍)に悪化していたし、日々の心身の辛さも半端ではなかった。(当時の鬱の諸症状はこちら)当時の自分はカウンセリング&パチンコ生活をしていたが、それは心身ともにギリギリな状態でなんとか日々を過ごしている状態。こんな状態で「望まない引っ越し」や「望まない一人暮らし」をするエネルギーがあるはずもなく、それに対する凄まじい不安と憎しみも発生していた。
⑤当時の自分は1年間の引きこもり生活を終え、ようやく外の世界に出れるようになっていた。そこで新しく始まった生活は、週1回カウンセリングを受け、そのカウンセリング代と生活費を稼ぐ為に週4〜5回パチンコで稼ぐ生活。この生活は「鬱の廃人」状態に陥っていた自分にとってかなりの心身の苦痛を伴うものだったが、一方でそれ以上のやり甲斐と希望もこの生活に感じていた。それは自分が29歳にしてようやく掴んだ自分らしい日々だった。しかし、両親が引っ越しを言い出した事で、この明るい日々はたった2ヶ月で終わってしまった。自分は引っ越しがもたらす凄まじい憎しみと絶望と不安と悲しみに打ちひしがれ、再び人生の先行きが全く見えない状態に陥ってしまった。これによる、恨みも凄まじいものがあった。
『東○荘事件のフローチャート』
2006年3月のある日、30歳の自分はいつものように暴力衝動を自分の部屋の壁に思い切りぶつけた。そして、カウンセリングに行こうと外出しようとした所、玄関で父親が激昂して掴みかかってきた。そもそも自分は両親に対して『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみを感じていた為、この父親の激昂に対してすぐに激しい憎しみの炎が爆発。「ふざけんな!!!」と父親の腕を掴み返し、揉み合いになった。
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自分はそれまでの2年間全く家族とコミュニケーションを取っていなかった。何故なら喋るどころか、すれ違うだけでも反吐が出る為。しかし、この時の自分にはアドレナリンが出まくっていた為、これまで溜まりに溜まった鬱憤が吐き出された。例えば
「お前らのせいで俺の人生滅茶苦茶だ!!!」
「ガキがガキ作ってんじゃねぇよ!!!」
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自分と父親が玄関で掴み合いをして怒鳴り合っているとそこに母親と妹も現れた。しかし、妹は父親の加勢をして来たし、母親も状態にはげしい敵意を剥き出しにしている。自分はこの場が1vs3の場である事を悟った。これにより自分の心の中にはさらに激しい孤立感と激しい高揚感が発生。
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自分は自分に対して激しい敵意を向けている母親に対しても凄まじい憎しみを感じていた。そこで自分は父親と揉み合いながらも、母親に自分の顔を突き出し、
「なんだ!!お前も俺の事が憎いのか、憎いのなら俺の顔を殴ってみろよ!!!」
と煽った。これはどういう事かと言うと、うちの母親は元来大人しい性格の人なので、自分の事を殴れず、困惑するのではないかと思ったから。ところが意に反して母親は自分の頬を殴ってきた。これは完全に自分の見込み違い。これにより自分の心の中にさらに激しい孤立感と高揚感が発生。
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自分はさらに母親に対して激しい憎しみを感じ、何か母親に攻撃したいと感じた。そこで玄関のドアを開け、「助けて!!殺される!!!」と大声で叫んだ。この言葉には2つの意味があった。1つ目はこれは本当の気持ちだった。自分は両親が言い出した引っ越しの話によって、心身共にギリギリの所に追い詰められていたし、さらに今現在このような孤立無縁の修羅場を迎えている。
2つ目は母親に対する激しい嫌がらせの気持ち。うちの母親はこの家に引っ越して来て15年間近所付き合いが全く上手くいっていなかった。孤立していた。そこで自分が近所に物騒な言葉を叫ぶ事で母親の顔に泥を塗ってやろうという思いがあった。
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自分と父親の掴み合いの喧嘩は続くも、母親も妹もその仲介には入ってこない。よってこの場がいつまで収拾しなかった。しかし、喧嘩が始まってから10分くらいたった頃、とうとう母親が交番に電話し、警官が我が家に到着。警官が自分と父親をなだめてきた。すると父親はここで急にしおらしくなり、「すみません。自分が悪いんです。」と警官に謝罪。これに対して自分は、「何カッコつけてやがんだ!!父親らしい事など何一つしてこなかった癖に!!!」とさらに激昂。その後警官が外出するよう促してきたので、自分はその場を後にした。
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家を後にした自分はカウンセリングセンターに向かった。そして、カウンセリングセンターに着くと、先程の喧嘩の件りを興奮気味に喋った。あっという間に1時間は過ぎ、まだまだ喋り足りなかったのだが、カウンセリングセンターを後にした。
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カウンセリングが終わると、近くの繁華街をあてもなく彷徨う事になった。何故なら自分は自分がこれからどこに行けば良いのか分からない状態に陥っていた。この時の自分の心の中は以下の3つの激烈な感情に支配されていた。
❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪
❷「もし家に帰ったら、自分は家族に殺されてしまうかもしらない。」という病的(×12倍)な被害妄想
❸家には絶対帰りたくない
これらの感情がぐちゃぐちゃのぐちゃぐちゃに絡み合っていたので、これから先の行動が決められなかった。
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30分程繁華街を彷徨っていると、このカオス過ぎる感情を誰かに聞いて貰いたいという思いが出てきた。そこで、元バイト先の仕事仲間に話を聞いて貰おうと、地元に戻る事を決意。
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地元に戻り、元バイト先の古本屋を訪ねる。するとそこには元仕事仲間のI君が働いており、彼に今日の喧嘩の顛末を聞いて貰う。その後、元仕事仲間の先輩Wさんもお店に来たので、彼にも喧嘩の顛末を聞いて貰う。
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古本屋を出た後の自分には以下の2つの選択肢があった。
・家に帰る
・ホテルに泊まる
しかし、この時の自分は上記①〜③の感情に支配されていたので、「家に帰る」という選択肢は絶対になかった。ところが、自分にとって「ホテルに泊まる」という選択肢もかなり苦しい選択肢となっていた。理由は以下の通り。
・自分はそれまでの人生で一人でホテルに泊まった事が全く無かった。それだけでも病的(×6倍)な被害妄想を発症していた自分には不安で仕方がない事だった。さらに、この時の自分は心身共に疲労困憊状態にあった。特に精神状態は上記❶〜❸にあるように極めて不安定な状態。このような超非日常状態で利用した事のないホテルに泊まるのは、とてつもない不安感があった。
・この時の自分は冷え性も病的に酷くなっており、冬に眠る時には布団を6〜7枚重ねた上にさらに服を10枚くらい重ねないと体が温まらなくなっていた。故に、自分が普段使う布団の周りには、着なくなったダウンジャケットやパーカーがうず高く積まれていた。このような自分好みの布団調整はホテルに泊まるとなると難しいと思われ、これも自分にとってはかなり不安な所だった。
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しかし、そうは言っても家に帰るという選択肢は絶対にあり得ない。そこで自分はかなりの不安感を抱えながらも、繁華街のホテルに泊まる事を選択したのだった。
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自分はホテル(東○荘)に着くと、近くのコンビニでノートとペンを買ってきて、自分の気持ちと今日1日の経緯をノートに書き始めた。この時の自分は以下の10個の激烈な感情に支配されパニック状態に陥っており、そのパニック状態を鎮静化させる為にはノートに自分の気持ちを言語化させるしか無いと考えた。
『東○荘の一室における10個の激烈な感情』
・ 「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由①〜⑤」
・❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪
・❷「もし家に帰ったら、自分は家族に殺されてしまうかもしらない。」という病的(×6倍)な被害妄想
・❸ ❶❷の感情を踏まえた上で家には絶対帰りたくない気持ち
・❹生まれて初めての一人でのホテル宿泊に対する凄まじい不安感
・❺今日1日の凄まじい肉体的疲労感
自分は上記の激烈な気持ちと、今日1日の事件の経緯をひたすらノートに書き続けた。それはホントに苦しい行為だったが、これをしない事にはいつまで経っても頭の中がパニック状態のまま。そして、頭の中がパニック状態では例えベッドに入ったとしても眠れない。故に自分は「極限の肉体的疲労感」と「圧倒的な絶望感と圧倒的な悲しみ」をただただ耐えながら、ノートを書くしか無かった。
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自分は深夜1時頃からノートを書き始めたのだが、それはなかなか終わらなかった。自分の心の中は上記の10個の激情で溢れ返っており、それは書いても書いても一向に消化する事が出来なかった。また、同時に「明日以降どうするのか??」という大問題についても考えてみたのだが、これについても一向に答えを出せない。「家に帰る」のは絶対に嫌だし、かと言って「東○荘に泊まり続ける事」も気が狂いそうな程嫌だった。自分は今回の事件で両親から致命的な精神的ダメージを受けたのだが、その上さらに「宿泊費という名の金銭的ダメージ」を受ける事は精神的に耐えられない気持ちだった。
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深夜4時頃、ようやくノートを書く手が止まった。しかし、それは憎悪や被害妄想を消化し終えたからではなかった。憎悪や被害妄想は全く消化されてはいなかったのだが、もはや自分の憎しみを表現する為の言葉が尽きてしまった、という状態。そして、「明日以降どうするのか??」という問題も何も解決してはいない。故に自分の心のは相変わらず「圧倒的な絶望感と圧倒的な悲しみ」に押し潰され、断末魔の叫びを上げ続けていた。
『フローチャート終わり』
自分はノートを書き終わると、ユニットバスに行き、シャワーを浴びました。そして、部屋に戻り、ソファーに身体を沈め、しばらくボーッとしていました。この時の自分の心身は以下の3つの感情に完全に支配され切っていました。
・①〜⑤の感情と❶〜❺の感情(=「圧倒的な絶望感と圧倒的な悲しみ」)
・上記の感情の中でも酷かった感情は、『①家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪 』。自分はかつて両親によって人生を破壊され、「地獄の底」に突き落とされていた。(詳しい経緯は、このブログのトップ記事「人生年表と鬱のフローチャート」参照)そして、今回またも両親によって「地獄の底の底」に突き落とされる事となった。つまり、自分は両親によって1度ならず2度殺されたとも言える
・半日前の喧嘩の興奮の余韻
そして、この先の大問題も全く解決していません。それは、
「明日以降もホテルに泊まり続けるのか、それとも家に帰るのか。」
という大問題です。自分は先程3時間に渡ってノートを書き続け、この問題について考えてみましたが、全く答えを出す事が出来ませんでした。
ですから、この時の自分の心身は究極的に不安定だったと言えます。まず、両親に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪が凄まじかったですし、この先の生活に対する不安感も絶望的に大きくなっていました。
自分はしばらくソファーに身体を沈めて、それらの感情に身悶えていました。しかし、一向にその感情は収まりません。たまにノートに向かい、それらの感情を書こうとしましたが、やはり言葉は尽きており、もはや文章は続きません。
自分はこのままソファーに座っていても埒が開かないと思い、ベッドに入りました。眠気は全く無かったのですが、とりあえず横になりたかったのです。しかし、横になってもやはり全く眠気は襲ってきません。相変わらず、①〜⑤の感情と❶〜❺の感情が自分の意識を激しく攻撃してきます。半日前の喧嘩の興奮の余韻もまだまだ残っています。すると、15分くらいで段々身体が寒くなってきたのです。
振り返ってみますと、自分はこのホテルに泊まるにあたり以下の2点をかなり不安に感じていました。
・自分はそれまでの人生で一人でホテルに泊まった事が全く無かった。それだけでも病的(×6倍)な被害妄想を発症していた自分には不安で仕方がない事だった。さらに、この時の自分は心身共に疲労困憊状態にあった。特に精神状態は上記の❶〜❸にあるように極めて不安定な状態。このような超非日常状態で利用した事のないホテルに泊まるのは、とてつもない不安感があった。
・この時の自分は冷え性も病的に酷くなっており、冬に眠る時には布団を5〜6枚重ねた上にさらに服を10枚くらい重ねないと体が温まらなくなっていた。故に、自分が普段使う布団の周りには、着なくなったダウンジャケットやパーカーがうず高く積まれていた。このような自分好みの布団調整はホテルに泊まるとなると難しいと思われ、これも自分にとってはかなり不安な所だった。
この⑵の不安がまさに現実化してきた、という事になります。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
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