皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 6時間ノートを書き続け、ようやく「家に帰る」という選択肢を受け入れる(過去編・2006年3月・30歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事も引き続き「東○荘事件」の話でした。「東○荘事件」とは自分が29歳の時に起きた事件です。自分はこの事件をきっかけに両親に対して「殺しても殺し足りない」程の憎悪を抱くようになっていきました。
ここからはこの事件の前フリと、途中までの経緯をフローチャートで示したいと思います。いつも貼っているフローチャートですので、いつもお読みの読者の方はスルーして下さい。かなり長いフローチャートになります。
『東○荘事件の前フリとフローチャート』(事件が起きたのは2006年4月・30歳の時)
前提として、当時の自分は家族に対して『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみを感じていた。理由は「両親が引っ越しを言い出したから」その理由を構成する5つの要素は以下の通り。
①当時の自分は以前から両親に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。(憎しみを募らせていく経緯はこちら)よって自分と両親とはこの1年以上全くコミュニケーションが無い状態が続いていた。そんな状態で両親が急に「引っ越し」という一大イベントを言い出してきたことが許せない。自分には「引っ越しをしたい」という気持ちが1㎜もない。
②もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、家族とのコミュニケーションは避けられない。そして、当時の自分は家族に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。よって、家族とコミュニケーションを取らざるを得ない状況を強制的に作り出された事に対する凄まじい憎しみ。
③もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、そこに自分の時間やエネルギーを割かなければならなくなる。その事に対する凄まじい憎しみ。何故なら、当時の自分はそれまでの29年間の人生を、両親によって全て搾取されたような感覚を持つに至っていた。よって、両親に人生を搾取された上に、さらに引っ越しで時間とエネルギーを搾取されそうな事が気が狂いそうな程の憎悪を発生させていた。
④当時の自分の心身は長年の孤独によって、「鬱の廃人」×2倍状態に陥っていた。「被害妄想」は病的(×3倍)に悪化していたし、日々の心身の辛さも半端ではなかった。(当時の鬱の諸症状はこちら)当時の自分はカウンセリング&パチンコ生活をしていたが、それは心身ともにギリギリな状態でなんとか日々を過ごしている状態。こんな状態で「望まない引っ越し」や「望まない一人暮らし」をするエネルギーがあるはずもなく、それに対する凄まじい不安と憎しみも発生していた。
⑤当時の自分は1年間の引きこもり生活を終え、ようやく外の世界に出れるようになっていた。そこで新しく始まった生活は、週1回カウンセリングを受け、そのカウンセリング代と生活費を稼ぐ為に週4〜5回パチンコで稼ぐ生活。この生活は「鬱の廃人」状態に陥っていた自分にとってかなりの心身の苦痛を伴うものだったが、一方でそれ以上のやり甲斐と希望もこの生活に感じていた。それは自分が29歳にしてようやく掴んだ自分らしい日々だった。しかし、両親が引っ越しを言い出した事で、この明るい日々はたった2ヶ月で終わってしまった。自分は引っ越しがもたらす凄まじい憎しみと絶望と不安と悲しみに打ちひしがれ、再び人生の先行きが全く見えない状態に陥ってしまった。これによる、恨みも凄まじいものがあった。
ある日自分はいつものように暴力衝動を自分の部屋の壁に思い切りぶつけた。そして、外出しようとした所、玄関で父親が激昂して掴みかかってきた。そもそも自分は両親に対して『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみを感じていた為、この父親の激昂に対してすぐに激しい憎しみの炎が爆発。「ふざけんな!!!」と父親の腕を掴み返し、揉み合いになった。
↓
自分はそれまでの2年間全く家族とコミュニケーションを取っていなかった。何故なら喋るどころか、すれ違うだけでも反吐が出る為。しかし、この時の自分にはアドレナリンが出まくっていた為、これまで溜まりに溜まった鬱憤が吐き出された。例えば
「お前らのせいで俺の人生滅茶苦茶だ!!!」
「ガキがガキ作ってんじゃねぇよ!!!」
↓
自分と父親が玄関で掴み合いをして怒鳴り合っているとそこに母親と妹も現れた。しかし、妹は父親の加勢をして来たし、母親も状態にはげしい敵意を剥き出しにしている。自分はこの場が1vs3の場である事を悟った。これにより自分の心の中にはさらに激しい孤立感と激しい高揚感が発生。
↓
自分は自分に対して激しい敵意を向けている母親に対しても凄まじい憎しみを感じていた。そこで自分は父親と揉み合いながらも、母親に自分の顔を突き出し、
「なんだ!!お前も俺の事が憎いのか、憎いのなら俺の顔を殴ってみろよ!!!」
と煽った。これはどういう事かと言うと、うちの母親は元来大人しい性格の人なので、自分の事を殴れず、困惑するのではないかと思ったから。ところが意に反して母親は自分の頬を殴ってきた。これは完全に自分の見込み違い。これにより自分の心の中にさらに激しい孤立感と高揚感が発生。
↓
自分はさらに母親に対して激しい憎しみを感じ、何か母親に攻撃したいと感じた。そこで玄関のドアを開け、「助けて!!殺される!!!」と大声で叫んだ。この言葉には2つの意味があった。1つ目はこれは本当の気持ちだった。自分は両親が言い出した引っ越しの話によって、心身共にギリギリの所に追い詰められていたし、さらに今現在このような孤立無縁の修羅場を迎えている。
2つ目は母親に対する激しい嫌がらせの気持ち。うちの母親はこの家に引っ越して来て15年間近所付き合いが全く上手くいっていなかった。孤立していた。そこで自分が近所に物騒な言葉を叫ぶ事で母親の顔に泥を塗ってやろうという思いがあった。
↓
自分と父親の掴み合いの喧嘩は続くも、母親も妹もその仲介には入ってこない。よってこの場がいつまで収拾しなかった。しかし、喧嘩が始まってから10分くらいたった頃、とうとう母親が交番に電話し、警官が我が家に到着。警官が自分と父親をなだめてきた。すると父親はここで急にしおらしくなり、「すみません。自分が悪いんです。」と警官に謝罪。これに対して自分は、「何カッコつけてやがんだ!!父親らしい事など何一つしてこなかった癖に!!!」とさらに激昂。その後警官が外出するよう促してきたので、自分はその場を後にした。
家を後にした自分はカウンセリングセンターに向かった。そして、カウンセリングセンターに着くと、先程の喧嘩の件りを興奮気味に喋った。あっという間に1時間は過ぎ、まだまだ喋り足りなかったのだが、カウンセリングセンターを後にした。
↓
カウンセリングが終わると、近くの繁華街をあてもなく彷徨う事になった。何故なら自分は自分がこれからどこに行けば良いのか分からない状態に陥っていた。この時の自分の心の中は以下の3つの激烈な感情に支配されていた。
・家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪
・「もし家に帰ったら、自分は家族に殺されてしまうかもしらない。」という病的(×6倍)な被害妄想
・上記2つの感情を踏まえた上で家には絶対帰りたくない
これらの感情がぐちゃぐちゃのぐちゃぐちゃに絡み合っていたので、これから先の行動が決められなかった。
↓
30分程繁華街を彷徨っていると、このカオス過ぎる感情を誰かに聞いて貰いたいという思いが出てきた。そこで、元バイト先の仕事仲間に話を聞いて貰おうと、地元に戻る事を決意。
↓
地元に戻り、元バイト先の古本屋を訪ねる。するとそこには元仕事仲間のI君が働いており、彼に今日の喧嘩の顛末を聞いて貰う。その後、元仕事仲間のWさんもお店に来たので、彼にも喧嘩の顛末を聞いて貰う。
↓
古本屋を出た後の自分には以下の2つの選択肢があった。
・家に帰る
・ホテルに泊まる
しかし、この時の自分は上記①〜③の感情に支配されていたので、「家に帰る」という選択肢は絶対になかった。ところが、自分にとって「ホテルに泊まる」という選択肢もかなり苦しい選択肢となっていた。理由は以下の通り。
⑴自分はそれまでの人生で一人でホテルに泊まった事が全く無かった。それだけでも病的(×6倍)な被害妄想を発症していた自分には不安で仕方がない事だった。さらに、この時の自分は心身共に疲労困憊状態にあった。特に精神状態は上記の①〜③にあるように極めて不安定な状態。このような超非日常状態で利用した事のないホテルに泊まるのは、とてつもない不安感があった。
⑵この時の自分は冷え性も病的に酷くなっており、冬に眠る時には布団を5〜6枚重ねた上にさらにダウンジャケットなどの服を10枚くらい重ねないと体が温まらなくなっていた。故に、自分が普段使う布団の周りには、着なくなったダウンジャケットやパーカーがうず高く積まれていた。このような自分好みの布団調整はホテルに泊まるとなると難しいと思われ、これも自分にとってはかなり不安な所だった。
しかし、そうは言っても家に帰るという選択肢は絶対にあり得ない。そこで自分はかなりの不安感を抱えながらも、繁華街のホテル(東○荘)に泊まる事を選択したのだった。
↓
自分はホテル(東○荘)に着くと、近くのコンビニでノートとペンを買ってきて、自分の気持ちと今日1日の経緯をノートに書き始めた。この時の自分は以下の5つの激烈な感情に支配されパニック状態に陥っており、そのパニック状態を鎮静化させる為にはノートに自分の気持ちを言語化させるしか無いと考えた。
❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪
❷「もし家に帰ったら、自分は家族に殺されてしまうかもしらない。」という病的(×6倍)な被害妄想
❸ ❶❷の感情を踏まえた上で家には絶対帰りたくない気持ち
❹生まれて初めての一人でのホテル宿泊に対する凄まじい不安感
❺今日1日の凄まじい肉体的疲労感
自分は上記の激烈な気持ちと、今日1日の事件の経緯をひたすらノートに書き続けた。それはホントに苦しい行為だったが、これをしない事にはいつまで経っても頭の中がパニック状態のまま。そして、頭の中がパニック状態では例えベッドに入ったとしても眠れない。故に自分は「極限の肉体的疲労感」と「圧倒的な絶望感と圧倒的な悲しみ」をただただ耐えながら、ノートを書くしか無かった。
↓
自分は深夜1時頃からノートを書き始めたが、それはなかなか終わらなかった。自分の心の中は上記の❶〜❺の感情で溢れ返っており、それは書いても書いても一向に消化する事が出来なかった。また、同時に「明日以降どうするのか??」という大問題についても考えてみたのだが、これについても一向に答えを出せない。「家に帰る」のは絶対嫌だし、かと言って「東○荘に泊まり続ける事」も気が狂いそうな程嫌だった。自分は今回の事件で両親から致命的な精神的ダメージを受けたのだが、その上さらに「宿泊費という名の金銭的ダメージ」を受ける事は精神的に耐えられない気持ちだった。
↓
深夜4時頃、ようやくノートを書く手が止まった。しかし、それは憎しみを消化し終えたからではなかった。憎しみは全く消化されてはいなかったのだが、もはや自分の憎しみを表現する為の言葉が尽きてしまった、という状態。そして、「明日以降どうするのか??」という問題も何も解決してはいない。故に自分の心のは相変わらず「圧倒的な絶望感と圧倒的な悲しみ」に押し潰され、断末魔の叫びを上げ続けていた。
↓
自分はノートを書き終わると、ユニットバスに向かい、シャワーを浴びた。時刻は4:30頃。そして、部屋に戻ってくると、ソファーに身体を沈め、動けなかった。この時の自分の心身は以下の4つの感情に完全に支配され切っていた。
⑴①〜⑤の感情と❶〜❺の感情(=「圧倒的な絶望感と圧倒的な悲しみ」)
⑵上記の感情の中でも酷かった感情は、『①家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪 』。自分はかつて両親によって人生を破壊され、「地獄の底」に突き落とされていた。(詳しい経緯は、このブログのトップ記事「人生年表と鬱のフローチャート」参照)そして、今回またも両親によって「地獄の底の底」に突き落とされる事となった。つまり、自分は両親によって1度ならず2度殺されたとも言える
⑶半日前の喧嘩の興奮の余韻
⑷「明日以降どう生活するのか??」という問題に全く答えが出ていない。「ホテルに泊まり続けるのか」それとも「家帰るのか」全く決めきれていない。その事に対するかなりの絶望感
↓
自分はソファーに座り、上記の精神的苦痛に心を蹂躙され続けた。この時の自分の心は上記の絶望感に完全に押し潰され、断末魔のような悲鳴を上げ続けていた。その精神的苦痛はソファーに座っていても全く減る事は無かった。
↓
20分後、このままでは埒が開かないと思い、ベッドに向かった。眠気は全く無かったのだが、せめて横になれば極限の疲労感が癒されるのではないかと考えた。しかし、ベッドに入っても相変わらず⑴〜⑷の感情が自分の心を押し潰し、その甚大な精神的苦痛で眠る所では無かった。
↓
ベッドに入ってから30分くらい経つと、自分の身体は寒くて仕方なくなっていった。この時自分の身体の上には3枚くらいの毛布と掛け布団がかかっていたが、それでは全然足らない。また部屋の暖房の設定をMAXに上げてみたが、それも全く効果無し。この時の時期は3月でまだ肌寒い日だった。
当時の自分は極度の冷え性に陥っていた。冬の季節の普段の就寝時は、毛布や掛け布団を8枚くらい重ね、さらにその上に着なくなったダウンジャケットを10枚くらいの重ねないと寒くて全く寝付けなくなっていた。(冬の時期)当時の自分は自分の身体の上をかなりの重さ(10キロ以上)にしないと寒くて眠れなくなっていた。
そして、この東○荘の部屋に用意してあった毛布と掛け布団は3枚。これでは足りるはずがない。そこで自分は勇気を振り絞ってホテルのカウンターに行き、掛け布団を2枚借りてた。ところが、それを掛けても身体は全然寒いまま。
↓
もはや自分の中には、再びカウンターに追加の布団を借りに行く気力は残っていなかった。自分は仕方なくかなりの寒さを我慢して眠る事に。
↓
この時の寒さの原因を考えてみると、この時の自分は精神的に致命的なストレスを抱えており、それにより血管が極度に収縮し、極度の冷え性を発症していたと考えられる。この時の自分の精神は、上記⑴〜⑷の感情に完全に押し潰され、断末魔の叫びを上げ続けていた。これではどんなに布団を重ねても身体が暖まるはずがない。心が極度に冷え切っていたのだから。温度にするとマイナス30度くらい。
↓
自分は上記の極度の寒さと⑴〜⑷の致命的なストレスに必死に耐えながら、2時間ほどベッドに横になっていた。すると時刻はもう朝7時。太陽は登り、カーテンの外はすっかり明るくなっていた。こうなると自分は眠れない事に焦り始め、さらに眠れなくなっていった。
↓
朝8時。ようやく自分はウトウトし始めた。そこからは極めて浅い眠りを断続的に繰り返した記憶。1時間くらいウトウトしては、10分起き、また1時間くらいウトウトする、の繰り返し。
↓
自分は昼の2時頃に目を覚ました。とは言っても身体は泥のように重く、ベッドから出る気が全くしない。自分は朝8時頃から断続的に6時間を浅い眠りを取ったが、極限の疲労感はほとんど回復していなかった。
↓
30分後、ベッドを出て、洗面所で歯を磨いた。そして、ソファに座り、深い深い深いため息を付いた。昨晩自分はこの事件の経緯やそれについての自分の気持ちをノートに3時間かけて書いたのだが、そこでは「明日からどうするのか??」という大問題に答えを出す事が出来なかった。よってソファに座ると再びこの問題と直面せざるを得ず、深い深いため息が出た。同時にこの問題と直面するという事は、⑴〜⑷の甚大な精神的ストレスと向き合わなければならないという事でもあった。自分は暗澹たる気持ちでノートを開き、現在の自分の気持ちと状況を書き始めた。
↓
「今日これからどうするのか??」という大問題に対する選択肢は以下の2つしかなかった。
・「ホテルに泊まり続ける」
・「家に帰る」
しかし、この時の自分にとってはどちらも地獄の選択肢だった。「ホテルに泊まり続ける」という選択肢では、宿泊費という名の金銭的ダメージを負う事になるのが、本当に耐えられなかった。しかし、「家に帰る」という選択肢においても、上記①〜⑤+❶❷の凄まじいストレスに晒される事は確実だった。
❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪
❷「もし家に帰ったら、自分は家族に殺されてしまうかもしらない。」という病的(×6倍)な被害妄想
↓
選択肢が2つしかない以上、「どちらがマシか」という観点で選ばざるを得なかった。自分はそれぞれの選択肢に対する気持ちをノートに書いているうちに、徐々に「家に帰る」方がまだマシな気がしてきた。家に帰れば、宿泊費という名の金銭的ダメージは発生しないし、慣れないホテル暮らしからは解放されるし、布団を思う存分暖かくして眠れる。もちろん、家に帰れば①〜⑤+❶❷の気が狂いそうな精神的苦痛を受けねばならないのだが、「ホテルに泊まり続ける」よりはマシなような気がしてきた。
↓
「今日これからどうするのか??」という大問題に対する選択肢は以下の2つしかなかった。
・「ホテルに泊まり続ける」
・「家に帰る」
そして、「ホテルに泊まり続ける」にしろ、「家に帰る」にしろ、どちらを選んでも、自分が気が狂う程の精神的ダメージを受ける事は確定的な状況であった。しかし、ダメージの総量が「有限に思えるのか」か「無限に思えるのか」かにおいては、大きく印象が違っていた。印象の違いは以下の通り。それぞれのストレスを構成する要素も追記。
・「ホテルに泊まり続ける」→気が狂いそうな選択肢であり、ストレス量は無限に思える。
「ホテルに泊まり続けるストレス」を構成する3つの要素
*全く望まない形で始まった、ホントに慣れないホテル暮らしが、どれくらい続くか分からない恐怖
*金銭的ダメージがどれ程のものになるのか分からない恐怖
*自分の心身はこの事件前から「鬱」によりぶっ壊れまくっており、この事件によりさらに極限の疲労状態に追い込まれていた。それにより、被害妄想も病的(×12倍)に酷い状態。こんな状態でホテル暮らしという「無限の恐怖」に立ち向かう気力は皆無だった。
・「家に帰る」→これも気が狂いそうな選択肢だが、ストレス量は有限に思える。
「家に帰る」ストレスを構成する要素
*上記①〜⑤+❶❷のストレス
(ただしこちらの選択肢を選べば、いつもの馴染みの布団で思う存分布団を重くして眠る事が出来る)
↓
上記のようにどちらの選択肢を選んだとしても自分が気が狂いそうな精神的ダメージを受ける事は必至な状態だった。しかし、その精神的ダメージが「有限か無限か」においては2つの選択肢は大きく印象が違っていた。自分はノートに自分の気持ちを書いていくうちに「家に帰る」という選択肢に傾いていった。
↓
今から考えると「ホテルに泊まり続ける」という選択肢には鼻から現実味が薄かった。この時の自分は「鬱の廃人」×4倍状態であり、さらに極限の肉体的疲労感も感じていた。「被害妄想」も病的(×12倍)に酷い状態。こんな状態でホテル暮らしという「無限の恐怖」に立ち向かえるはずがなかった。
しかし、もう一方の「家に帰る」という選択肢もそう簡単には選べない選択肢だった。何故ならこちらの選択肢を選んだとしても致命的なストレスを受ける事は確定的。ただし、「ホテルに泊まり続ける」という選択肢が極度に現実味が薄い以上、最初からこの選択の答えは「家に帰る」以外にはあり得なかった。
↓
つまり、自分は自分の気持ちをノートに書く中で「自分で自分自身を説得していった」とも言える。そう、「家に帰る」という選択肢を選んだ際の致命的なストレス、これを受ける為の覚悟を作っていった。もしくは、致命的なストレスを受けざるを得ない状況を「受け入れていった」。そして、自分は3+3時間ノートを書き続け、ようやくこの状況を受け入れたのだった。
『フローチャート終わり』
ここから先は前回の記事をそのまま引用しまして、引用後にその後の事を書いていこうと思います。前回の記事をお読みの方はスルーして下さい。
『前回記事からの引用』
このように自分は3+3時間ノートを書き続け、ようやく「家に帰る」という選択肢を受け入れたのでした。そう、「家に帰る」という選択肢を選んだ際の致命的なストレス、これを受け入れる覚悟を作っていった、という事です。何せこの選択肢を選んだ際に発生するストレスは、①〜⑤+❶❷ですからね。この選択肢を選ぶとなると、自分の心が凄まじい憎しみと凄まじい被害妄想に晒され、気が狂いそうになる事は必至でした。
しかし、それでもなお、あの時の自分にはこの選択肢を選ぶしか道はありませんでした。そう、あの時の自分に「友達や知り合いの家に泊まる」などという選択肢は全くありません。自分にはそのような友達や知り合いは皆無でした。また、仮にいたとしても、前夜寝就こうとした時のように、布団が大幅に足りず、身体の芯から凍える羽目になるのは目に見えていました。
ですから、自分は3+3時間に渡って、ノートに自分の気持ちや現在の状況やこれまでの経緯を書き連ね、なんとか「家に帰る」という選択肢を受け入れていったのです。
そして、その日の夕方5時頃、自分はようやくノートを書き終わりました。3+3時間のノートの末にとうとう「家に帰る」という選択肢を受け入れたのです。自分はペンを置くと「ふ〜〜〜〜〜っ!」と深い深いため息をつきました。この時の自分はホントに極限の疲労困憊状態です。昨日の極限の疲れが全く取れていない上に、さらに3時間ノートを書き続けたのですから。自分は10分程放心状態で座っていました。しかし、「家に帰る」という選択肢を受け入れたからには、これから家に帰らねばなりません。自分は極限に重い身体に鞭を打ち、チェックアウトの為に身の回りのモノをまとめ始めたのでした。
『引用終わり』
なるほど〜。このように自分はノートを書き終えると、チェックアウトの準備をし始めました。それにしてもこの時の自分の身体は極限の疲労困憊状態にありました。何せ昨日の極限の疲労感が何一つ回復していなかったのです。そう、自分は睡眠を朝8時から昼2時頃まで取りましたが、それでは何一つ極限の疲労感は癒されていませんでした。何せこの時の自分の頭の中は以下の4つの感情に支配されていたのです。
⑴①〜⑤の感情と❶〜❺の感情(=「圧倒的な絶望感と圧倒的な悲しみ」)
⑵上記の感情の中でも酷かった感情は、『①家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪 』。自分はかつて両親によって人生を破壊され、「地獄の底」に突き落とされていた。(詳しい経緯は、このブログのトップ記事「人生年表と鬱のフローチャート」参照)そして、今回またも両親によって「地獄の底の底」に突き落とされる事となった。つまり、自分は両親によって1度ならず2度殺されたとも言える
⑶半日前の喧嘩の興奮の余韻
⑷「明日以降どう生活するのか??」という問題に全く答えが出ていない。「ホテルに泊まり続けるのか」それとも「家帰るのか」全く決めきれていない。その事に対するかなりの絶望感
こんな状態で安眠出来るはずがありません。また、当時の自分は冷え性が病的に酷かったですから、ホテルの布団では透明足りず、かなりの寒さを我慢しながらの睡眠にもなっていたのです。ですから、自分は朝8時から昼の2時まで寝るには寝ましたが、その眠りは極めて浅く、断続的でした。こんな睡眠で極限の疲れが癒されるはずがありませんし、むしろ余計に疲労感が増したような気がします。
そして、自分は昼の2時に目覚めそこからノートを書き始めました。自分の体力はさらに奪われた記憶です。何せ①〜⑤+❶❷の「圧倒的な絶望感と圧倒的な悲しみ」に向き合い、これを言語化していくのですから。こんな辛過ぎる作業をやりたいはずがありません。しかし、あの時の自分にはノートを書く以外の選択肢はありませんでした。
そして3時間後、自分はようやくノートを書い終わりました。この時の自分の疲労感は、極限を超えていたと思います。数式にしますとこんな感じです。
前日の極限の疲労感+睡眠での疲労感+ノートを3時間書き続けた疲労感=極限を超えた疲労感
う〜ん、エグい。しかも自分はこの疲労感を抱えてこれから家に帰らなければならないのです。これも想像を絶する程辛かった。家に帰るという事は、まさに①〜⑤+❶❷のストレスが現実化するという事です。この時の自分の身体は極限を超えた疲労困憊状態にあったのですが、この身体で①〜⑤+❶❷の致命的なストレスと戦わねばならないのです。
しかし、自分は3時間ノートを書き続けた事で、その致命的なストレスを受け入れる覚悟を決めました。自分で自分自身を説得したのです。それでもいざ実際に家に帰ろうと準備を始めると、やはり凄まじいストレスに襲われました。そう、もしかしたら家に帰る事で❶❷の凄まじいストレスが、本当に現実化する可能性が考えられます。自分はその可能性を考えると、かなり足がすくんだ記憶です。そう、家に帰れば激高した父親が再び自分の事を襲うかもしれませんし、逆に自分の暴力衝動が極限に達し、家族に対して加害してしまう可能性もあります。
ですから、自分はノートを書いて「家に帰る」という選択肢を選んだものの、いざ帰る為の準備を始めると、ホントに心身が重くなっていくのを感じました。もちろん、それは極限を超えた疲労感のせいでもありますし、①〜⑤+❶❷のストレスに襲われたからでもあります。
しかし、ノートを3+3時間書いて決めた以上いまさらこの選択肢を変える事は出来ません。確かに①〜⑤+❶❷のストレスは凄まじいモノでしたが、それと同等かそれ以上に自分は家の暖かくて重い布団を欲してもいました。この極限を超えた疲労感を癒せるのは、家の暖かくて重い布団以外考えられなかったのです。ですから、自分は極限を超えた疲労感を引きずりながらも、身の回りのモノを整え、チェックアウトの準備をしていったのでした。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
↑クリックして頂くとランキングアップ&アクセス数アップします。ご協力よろしくお願いします。