鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

自殺を唯一の心の支えにして、引っ越し準備に挑む(過去編・2006年3月・30歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 「引っ越しについていく」という選択もまた地獄(過去編・2006年3月・30歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、自分が「東○荘事件」から2〜3週間後に両親から引っ越しの決行スケジュールを聞かされ、これ以上無い挫折感と虚無感を感じた、という話でした。そして、事件後自分は両親に対して「殺しても殺し足りない」程の憎悪を感じるようになっていったのです。



ではここで「引っ越し及び東○荘事件」の大まかな流れをフローチャートで貼りたいと思います。この事件は両親が引っ越しを言い出した事から始まります。各項目後ろの数字は、自分の中の「自分という存在に対する自信」を数値化しています。いつもお読みの方はスルーして下さい。



自分は2005年の9月に引きこもり状態を脱し、再びカウンセリングに通い始めた(29歳)。そこでこれまでの記憶のサルベージの話を馴染みのカウンセラーH先生に聞いて貰い続けた。カウンセリングは週に1回1時間ペースで行われたのだが、自分は次回のカウンセリングが毎回待ち遠しくてたまらなかった。(詳細はこちら)(マイナス132→132)



自分はカウンセリングを再開させると同時にカウンセリング代と生活費を稼ぐ為にパチンコ稼業も復活させた。自分はここから毎日のようにパチンコ屋に通い、朝から晩までパチンコを打ち続けた。稼ぎの方は順調に推移し、ここから半年間でおよそ180万程稼ぐ事となった。このカウンセリング&パチンコ生活にはかつて無い程のやり甲斐と充実感があったのだが、一方で鬱の諸症状の辛さも半端では無かった。(当時の鬱の諸症状はこちら)自分の中では、鬱の諸症状の辛さより日々の充実感の方が辛うじて上回っていたので、ギリギリなんとかこの生活を続けていけていた。(マイナス132→132)



そんな日々が1〜2ヶ月続いた頃、急に父親が自分の部屋にやってきて、「もしかしたらこの先引っ越しをするかもしれないから、考えておいてくれ。」と言い出した。これにより自分の心の中には凄まじい憎しみの嵐と不安の嵐が発生。その嵐を構成する5つの理由①〜⑤はこちら。 (マイナス132→132)



父親から引っ越しの話を聞いて以降、自分は母親とコミュニケーションを取らざるを得なくなっていった。何故なら我が家の決定権は100%母親にあり、その母親の引っ越しへの本気度を確かめる必要があった為。また、その母親に対して自分の立場「引っ越しに絶対反対」を示す必要もあった。(詳細はこちら。)しかし、自分にとって母親は「殺したい」程の憎い人間であり、母親とのコミュニケーションは凄まじい精神的苦痛を意味していた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこちら。) (マイナス132→132)



父親から引っ越しの話を聞いてから2週間後、自分は意を決して母親に引っ越しの話をしに行った。(2005年11月)母親とのコミュニケーションは2年ぶり。そこで自分は憎悪を必死に抑えて、引っ越しについて聞いてみたのだが、母親はかなり引っ越しに対して本気な様子だった。自分は自分の立場「引っ越しに絶対に反対」を表明するも、母親は全く意に介していないようだった。これにより、自分の中の両親に対する憎悪はさらに激しくなっていった。(詳細はこちら) (マイナス132→132)



その後、両親は着々と引っ越しの話を進めている様子だった。これにより自分の両親に対する憎悪はますます悪化。それはもはや理性でコントロールが効かないレベル。その憎悪は暴力衝動を引き起こし、自分はそれを我慢が出来なかった。自分はここから事あるごとにその暴力衝動を家の中でぶつけていく事になった。例えば玄関や家の中のドアをこれ以上なく思い切り閉めたり、自分の部屋の壁や床を思い切り殴ったり、蹴ったり。この時自分が引っ越しに対して感じていた凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由①〜⑤はこちら(マイナス132→132)



そんな日々が3〜4ヶ月続いた頃、重大事件が発生。事件の名前は「東○荘事件」。自分がいつものように家の中で暴力衝動を発散していると、それに憎しみを募らせていたらしい父親が自分に掴みかかってきた。そこに母親と妹も加わり、1vs3の袋叩き状態。20分くらいで母親が警察を呼び、その場に警察が駆けつけ、とりあえずその場は収まった。(この事件の詳細なフローチャートはこちら) (マイナス132→132)




その後自分は、カウンセリングに向かい、先程の事件の話を聞いて貰った。また地元の元バイト先の古本屋でも話を聞いて貰った。そして、その日は家に帰る気が全くせず、地元の繁華にあるホテル、「東○荘」に泊まる事となった。(マイナス132→132)



自分は東○荘の一室にチェックインすると、その日起こった出来事をノートに書き殴った。そして、3時間後ノートを書き終えた。時刻は朝の5時頃。そこでベッドに入り眠ろうとするとするも、頭の中は圧倒的な負の感情で溢れ帰り、パニック状態。その中で最も酷い感情は家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪。そして、身体も酷い冷え性で凍えるようだった。自分はベッドに入ったものの全く眠る事が出来ずこの状態で3時間くらい悶絶し、ようやく朝8時くらいに寝付く事が出来たのだった。この夜は自分の人生の中で最も辛い夜となった。(マイナス132→132)



翌日自分は昼の2時くらいに目を覚ました。しかし、睡眠は極めて浅く断続的だった為、前日の極限を超えた疲労感は全く癒えていなかった。そこから自分は再び3時間程ノートを書いた。そして、断腸の思いで家に帰る事を決意。もはや自分の身体はこのホテルのベッドで寝る事を拒絶していた。自分は極限を超えた疲労困憊状態に必死に抗い、東○荘をチェックアウトした。(マイナス132→132)



東○荘を出ると地元に戻ったのだが、すぐには家に帰る気が全くしない。そこでまたも元バイト先の古本屋を訪ね、そこで2時間程話を聞いて貰った。(マイナス132→132)



時刻は夜8時。自分はとうとう家に帰ってきた。玄関の鍵は開き、途中で父親に襲われる事もなく、自分の部屋に戻ってこれた。この時の自分は極限を超えた疲労状態にあり、しかも病的(×12倍)な被害妄想状態にあった。故に「もしかしたら、自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」という被害妄想が発生し、その恐怖で気が狂いそうだった。この時感じていた精神的苦痛の量は「中指の拷問」一回分。(マイナス132→132)



自分の部屋に戻ると、自分はまたもノートに自分の気持ちを書き続けた。そして、2時間後ようやく気持ちを書き終えた。ベッドに入った自分の心の中は「寝てしまったら激昂した父親が部屋に突入してきて、殺されてしまうかも」という恐怖心でいっぱいだったが、一方では疲労感も極限を超えていた。自分は「寝付いた後自分が殺されるのなら、もはやそれは仕方がない」という覚悟のような諦めを感じつつ、寝付いたのだった。(マイナス132→132)



翌日、昼の12時頃に目を覚ますもやはり極限を超えた疲労感はほとんど回復していなかった。昨日から自分の中には選択肢「1度家には帰るものの、本当に無理そうなら再び東○荘に戻る」もあった。しかし、今後この極限を超えた疲労感がほとんど回復していない状態で再び東○荘に戻り、再びベッドの上で凍え続ける気力は毛頭残っていなかった。よって自分は以下の3つの凄まじい精神的苦痛に心を引き裂かれながらも、家に居続ける選択をしたのだった。



・家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪

・「もしかしたら、自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」という病的な(×12倍)被害妄想


引っ越しに対して感じていた凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由①〜⑤




この「東○荘事件」によって自分は「中指の拷問」一回分の精神的苦痛を受ける事となった。(中指の拷問の詳細はこちらの記事の中盤以降。)この事件を「中指の拷問」の例えに倣って表現するとこうなる。


「自分の心が両親によって本来あり得ない方向に曲げられ、折られてしまった。そして、心が折られた箇所は激しい外傷となり、酷いトラウマになっていった。」


(マイナス132→132)



よって自分が両親に感じる憎悪は以下のように変化。


・『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみ

・「殺しても殺し足りない」程の憎悪


(マイナス132→132)



そして、鬱の諸症状もさらに2倍悪化。


「鬱の廃人」×2倍状態(当時の鬱の諸症状はこちら)


「鬱の廃人」×4倍状態


よって、メンタル数値も2倍に悪化。(マイナス132→264)



この東○荘事件から3ヶ月後に引っ越しが決行され、自分はさらなる精神的苦痛を受ける事となった。これによりパチンコで稼ぐ気力を完全に失い、稼ぐ手段が完全消滅。そこで自分は母親に対して月6万円の生活費を補償するよう要求し、それは認められた。しかし、本来自分にとって母親は「殺しても殺し足りない」程憎い人間であり、生活費を求めるコミュニケーションすらも気が狂うような精神的苦痛。故にここからの5年間は自分の鬱が最も酷かった期間になるのだが、その5年間を例えるとこうなる。



「ボットン便所(汲み取り式便所)の底を這いずり回り、そこの汚物を食って生活していたような5年間」


(マイナス264→264)


(東○荘事件の詳細なフローチャートこちら)



フローチャート終わり』



さて、このような流れで「東○荘事件」が起こり、その2〜3週間後に両親が引っ越しの強行を決めたのでした。ここからは前回の記事をそのまま引用したいと思います。その上で今回の記事を書こうと思います。



『前回記事からの引用』


引っ越しの決行はおよそ2ヶ月後の2006年6月です。これにより、自分の心の中にはこれ以上無い挫折感と虚無感が発生しました。さらにそんな精神状態で、自分は大きな選択を迫られていました。その選択とは、


・引っ越しについて行く

・一人暮らしをする


です。しかし、前回の記事に書きましたように、「一人暮らし」という選択は当時の自分にとって絶望的に絶望的に非現実的な選択肢となっていました。理由は以下の2つになります。前回の記事をまとめてみます。


・自分はそれまでの30年間の人生においてあらゆる場所で人間関係に挫折し続け、28歳〜29歳の時には引きこもり状態に陥った。つまり、自分の人生は「自分に対する自信」を凄まじい勢いで喪失し続けた28年間だったとも言える。そして、引きこもり明けには「東○荘事件」が起こり、さらに自分は「自分に対する自信」を大きく失った。そして、自分の人生は「自分に対する自信」を失えば失う程、「被害妄想」が酷くなっていく人生でもあった。故に「東○荘事件」後には「被害妄想」が病的(×12倍)に酷くなっていた。



このように東○荘事件後の自分は他人に対して病的(×12倍)に怯えまくっている精神状態に陥っていた。そして、このような精神状態で一人暮らしに関する手続きを一人で進めていく自信があるはずが無かった。そう、一人暮らしするとなると、不動産屋との交渉や引っ越し業者との交渉や引っ越してからも様々な交渉が発生すると思われ、当時の自分はそれをこなしていく自信が全く無かった。全く無いどころか、絶望的に絶望的に不可能な状態だった。



・また、今回の一人暮らしは、「全く望まない一人暮らし」でもあった。それは自分の意志で始める一人暮らしではなく、親が引っ越しをする余波を受けてのやむ無しの一人暮らし。よって一人暮らしに対するモチベーションが自分の心の中には微塵もない。



いいですね!このような理由により、「一人暮らし」という選択肢は自分の中で絶望的に絶望的に非現実的な選択肢となっていました。となると、残る選択肢は「引っ越しについていく」、です。しかし、こちらの選択肢もまた地獄の底の底を這いずり回るような選択肢でした。



そう、引っ越しについていくとなると、親に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪はそのまま継続しますし、「もしかしたら、自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」という病的な(×12倍)被害妄想もそのまま継続です。もちろん、「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由」もそのまま継続です。「引っ越しについて行く」という選択肢もまた頭が狂いまくるような地獄の選択肢でした。



当時の自分は「東○荘事件」後、いよいよこの選択への決断を迫られました。そこで自分の気持ちを整理する為にノートに自分の気持ちを書きまくったのです。その上で本当に断腸の思いで「引っ越しについて行く」という選択を選んだのでした。



そう、繰り返しになりますが、当時の自分は「鬱の廃人」×4倍状態にあり、「被害妄想」も病的(×12倍)に酷くなっていました。こんな状態で望まない一人暮らしに向かって現実的に動くのは到底無理な状態だったのです。よって自分は「引っ越しについていく」という選択肢を選ばざるを得ませんでした。



そして、自分はこの選択肢を選ぶにあたり、一つの条件を付けていました。それは「引っ越しに付いて行く為に、動くだけ動いてみるものの、途中で余りの憎悪に自我を失いそうになったら、さっさと首を吊ってこの世から離脱する」です。



『引用終わり』



なるほど〜。このように自分は、「引っ越しに付いていく」という選択肢を選びました。しかし、それはこのような条件付きの選択だったのです。


「引っ越しに付いて行く為に、動くだけ動いてみるものの、途中で余りの憎悪に自我を失いそうになったら、さっさと首を吊ってこの世から離脱する」


当時の自分はこのような条件を付けないと「引っ越しについて行く」という選択肢を到底選べませんでした。そう、何せ引っ越しを実際にするとなると、以下の5つの憎悪が最大化されるのは間違いありません。



「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由」(前提として当時の自分は実家暮らし)



①そもそも当時の自分は両親に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照。) よって自分と両親とはこの1年以上全くコミュニケーションが無い状態が続いていた。そんな状態で両親が急に「引っ越し」という一大イベントを言い出してきたことが許せない。自分には「引っ越しをしたい」という気持ちが1㎜もない。



②もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、家族とのコミュニケーションは避けられない。そして、当時の自分は家族に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。よって、家族とコミュニケーションを取らざるを得ない状況を強制的に作り出された事に対する凄まじい憎しみ。




③もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、そこに自分の時間やエネルギーを割かなければならなくなる。その事に対する凄まじい憎しみ。何故なら、当時の自分はそれまでの29年間の人生を、両親によって全て搾取されたような感覚を持つに至っていた。よって、両親に人生を搾取された上に、さらに引っ越しで時間とエネルギーを搾取されそうな事が気が狂いそうな程の憎悪を発生させていた。




④当時の自分の心身は長年の孤独によって、「鬱の廃人」×2倍状態に陥っていた。「被害妄想」は病的(×6倍)に悪化していたし、日々の心身の辛さも半端ではなかった。(当時の鬱の諸症状はこちら)当時の自分はカウンセリング&パチンコ生活をしていたが、それは心身ともにギリギリな状態でなんとか日々を過ごしている状態。こんな状態で「望まない引っ越し」や「望まない一人暮らし」をするエネルギーがあるはずもなく、それに対する凄まじい不安と憎しみも発生していた。



⑤当時の自分は1年間の引きこもり生活を終え、ようやく外の世界に出れるようになっていた。そこで新しく始まった生活は、週1回カウンセリングを受け、そのカウンセリング代と生活費を稼ぐ為に週4〜5回パチンコで稼ぐ生活。この生活は「鬱の廃人」状態に陥っていた自分にとってかなりの心身の苦痛を伴うものだったが、一方でそれ以上のやり甲斐と希望もこの生活に感じていた。それは自分が29歳にしてようやく掴んだ自分らしい日々だった。しかし、両親が引っ越しを言い出した事で、この明るい日々はたった2ヶ月で終わってしまった。自分は引っ越しがもたらす凄まじい憎しみと絶望と不安と悲しみに打ちひしがれ、再び人生の先行きが全く見えない状態に陥ってしまった。これによる、恨みも凄まじいものがあった。



加えて自分は「東○荘事件」により致命的な精神的ダメージを受け、鬱がさらに2倍に悪化し、親に対する憎悪と「被害妄想」が以下のように激化していました。


❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪 (自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」をお読み下さい。)


❷ 「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想(詳細はこちら



自分はこのような精神状況下で「望まない引っ越し」に臨もうとしていました。「東○荘事件」が起こった時点で自分の精神は致命的なダメージを受けていましたが、これから始まる引っ越し作業で更なる精神的ダメージを
受ける事は間違いありません。そうなれば、自分は余りの憎悪と被害妄想で正気が保てなくなる可能性があると感じました。



そして、当時の自分が最も恐れていた事は、自分が正気を保てなくなり、「自殺」という現実離脱手段すら実行できなくなる事でした。そう、正気を失い、自分の命を自分で始末出来なくなれば、そこから続くのは終わりのない無間地獄です。それは例えば、自分が気が狂った末に、精神病院の閉鎖病棟に隔離され、自殺さえ許されない環境下で死ぬまで苦しみ続けるような状態です。当時の自分が最も恐れていたのはこの事態でした。



ですから、自分はこの先の引っ越し作業を始める中で、憎悪や被害妄想で本当に気が狂いそうになったら、すぐにでも首を吊り、現実から離脱しようと決意しました。そこに躊躇はありませんでした。何故なら自分は1つ目の大学時代以降、常に「自殺」だけを心の支えとして生きてきたからです。そう、その覚悟だけが孤独な自分の心を癒やしてくれていました。そして、今回の引っ越しにあたり、その覚悟はさらに強くなりました。「自殺」という選択肢がよりリアリティを持って、自分の前にありました。自分は「自殺」という行為を心の支えにして、引っ越しに臨もうとしていました。



今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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