鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。ツイッターを@skipper1242でやってましたが凍結されましたので、現在は@skipper954954でやってます。

ここまでの経緯をフローチャートにまとめてみる(過去編・2006年3月・30歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 引っ越しに対する不安と絶望により、パチンコ稼業から一時撤退(過去編・2006年3月・30歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事も、30歳の時の自分が、「自分の部屋」に対して並々ならぬ愛着を感じていた、という話でした。自分は28歳〜29歳の1年間部屋に引きこもり続けていたのですが、そこで自分を守ってくれたのは唯一「自分の部屋」だけだった、という感覚を持っていたのです。



ここから先は前回の記事をそのまま引用したいと思います。そして、前回の記事を引用後に今回の記事を考えていきます。ちなみに前々回の記事と前回の記事中に『引用終わり』の表示を書きましたので、『引用終わり』の表示が3回出て来る事になります。ややこしい構成ですみません。前回の記事をお読みの方はスルーして下さい。



『前回記事からの引用』



ではここで、何故当時の自分が「自分の部屋」に対して並々ならぬ愛着を感じていたのか、前回の記事から引用したいと思います。前回の記事をお読みの方はスルーして下さい。



⑴28〜29歳の自分は1年間部屋に引きこもり続けており、病的(×6倍)な被害妄想を発症していた。その被害妄想とは家族に向けられたものであり、「父親に殺されるのではないか?」「妹の出すドア音で眠る事が出来ず、衰弱死させられるのでは??」といったもの。そして、「自分の部屋」だけが、「父親」や「妹の出すドア音」から自分を1年間守り続けてくれた、そんな感覚を持っていた。


⑵引きこもりの1年間を経て、自分は限定的にだが、「自分に対する自信」を大きく取り戻す事に成功していた。それは引きこもり前の状態と比べると生まれ変わったかのようなポジティブな変化だった。そして、その生まれ変わりが起きた場所は「自分の部屋」に他ならなかった。つまり「自分の部屋」とは、自分が自分の手で自分の精神を生まれ変わらせた場所。当時の自分にとって自分の部屋は「聖地」のような意味合いを持っていた。


⑶自分はこの部屋には中学2年生の時に引っ越してきて、17年間の時間をこの部屋で過ごしてきた。そして、この17年間はただひたすら孤独と挫折が続き、心身が壊れて行くだけの17年間だった。高校時代の暴言事件によって、日曜夜ごとに激しい喘息に苦しんだのもこの部屋であり、大学空手部の恐怖で夜眠れなかったのもこの部屋。そして、「尿管結石事件」が起きたのもこの部屋。この部屋で自分は17年間孤独と恐怖に苦痛にのたうち回り、心身を壊していったのだった。つまり、30歳の自分は、この部屋に対して「自分の悪戦苦闘の歴史が17年間分刻み込まれている」という意味での愛着も感じていた。



このような理由で30歳の自分は自分の部屋に並々ならぬ愛着を感じていました。ですから、両親が引っ越しを言い出した時に凄まじい憎悪と絶望感を感じたのです。引っ越しをするとなると、この愛着ある部屋を去らねばなりませんから。また、自分が引っ越しに対して凄まじい憎悪と絶望感を感じたのは、「部屋への愛着」だけが理由ではありません、ではここで、前回の記事で作った、「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その6つの理由」を貼りたいと思います。6番目の項目は、先程の愛着の3つの理由と一緒です。



「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その6つの理由」(前提として当時の自分は実家暮らし)



①そもそも当時の自分は両親に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照。) よって自分と両親とはこの1年以上全くコミュニケーションが無い状態が続いていた。そんな状態で両親が急に「引っ越し」という一大イベントを言い出してきたことが許せない。自分には「引っ越しをしたい」という気持ちが1㎜もない。



②もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、家族とのコミュニケーションは避けられない。そして、当時の自分は家族に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。よって、家族とコミュニケーションを取らざるを得ない状況を強制的に作り出された事に対する凄まじい憎しみ。




③もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、そこに自分の時間やエネルギーを割かなければならなくなる。その事に対する凄まじい憎しみ。何故なら、当時の自分はそれまでの29年間の人生を、両親によって全て搾取されたような感覚を持つに至っていた。よって、両親に人生を搾取された上に、さらに引っ越しで時間とエネルギーを搾取されそうな事が気が狂いそうな程の憎悪を発生させていた。




④当時の自分の心身は長年の孤独によって、「鬱の廃人」×2倍状態に陥っていた。「被害妄想」は病的(×6倍)に悪化していたし、日々の心身の辛さも半端ではなかった。(当時の鬱の諸症状はこちら)当時の自分はカウンセリング&パチンコ生活をしていたが、それは心身ともにギリギリな状態でなんとか日々を過ごしている状態。こんな状態で「望まない引っ越し」や「望まない一人暮らし」をするエネルギーがあるはずもなく、それに対する凄まじい不安と憎しみも発生していた。



⑤当時の自分は1年間の引きこもり生活を終え、ようやく外の世界に出れるようになっていた。そこで新しく始まった生活は、週1回カウンセリングを受け、そのカウンセリング代と生活費を稼ぐ為に週4〜5回パチンコで稼ぐ生活。この生活は「鬱の廃人」状態に陥っていた自分にとってかなりの心身の苦痛を伴うものだったが、一方でそれ以上のやり甲斐と希望もこの生活に感じていた。それは自分が29歳にしてようやく掴んだ自分らしい日々だった。しかし、両親が引っ越しを言い出した事で、この明るい日々はたった2ヶ月で終わってしまった。自分は引っ越しがもたらす凄まじい憎しみと絶望と不安と悲しみに打ちひしがれ、再び人生の先行きが全く見えない状態に陥ってしまった。これによる、恨みも凄まじいものがあった。




⑥当時の自分は自分の部屋に並々ならぬ愛着を感じていた。故に引っ越しにより、この部屋を離れなければならない事に対して、身を裂かれるような精神的苦痛を感じていた。自分の部屋への愛着の理由は以下の3つ。


⑴28〜29歳の自分は1年間部屋に引きこもり続けており、病的(×6倍)な被害妄想を発症していた。その被害妄想とは家族に向けられたものであり、「父親に殺されるのではないか?」「妹の出すドア音で眠る事が出来ず、衰弱死させられるのでは??」といったもの。そして、「自分の部屋」だけが、「父親」や「妹の出すドア音」から自分を1年間守り続けてくれた、そんな感覚を持っていた。


⑵引きこもりの1年間を経て、自分は限定的にだが、「自分に対する自信」を大きく取り戻す事に成功していた。それは引きこもり前の状態と比べると生まれ変わったかのようなポジティブな変化だった。そして、その生まれ変わりが起きた場所は「自分の部屋」に他ならなかった。つまり「自分の部屋」とは、自分が自分の手で自分の精神を生まれ変わらせた場所。当時の自分にとって自分の部屋は「聖地」のような意味合いを持っていた。


⑶自分はこの部屋には中学2年生の時に引っ越してきて、17年間の時間をこの部屋で過ごしてきた。そして、この17年間はただひたすら孤独と挫折が続き、心身が壊れて行くだけの17年間だった。高校時代の暴言事件によって、日曜夜ごとに激しい喘息に苦しんだのもこの部屋であり、大学空手部の恐怖で夜眠れなかったのもこの部屋。そして、「尿管結石事件」が起きたのもこの部屋。この部屋で自分は17年間孤独と恐怖に苦痛にのたうち回り、心身を壊していった。つまり、30歳の自分は、この部屋に対して「自分の17年間分の悪戦苦闘の歴史が刻み込まれている」という意味での愛着も感じていた。



ですから、自分は引っ越しを言い出した両親に対して『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみを感じたのです。そして、この憎悪は「東○荘事件」を経て「殺しても殺し足りない」程の憎悪にまで激化する事となりました。



その後自分は断腸の思いで、「引っ越しについて行く」という選択肢を選択しました。そして、「首吊り装置」という「最終安全装置」を自分の部屋に設置したのです。その意図はこういう事でした。「もしこの先の引っ越し作業で余りの憎悪や被害妄想で自我が失われそうになった時には、すぐにでもこの装置で首を吊り、現実から離脱しよう」、と。



自分は部屋に最終安全装置を設置した翌日、妹とコミュニケーションを取り、引っ越しの情報を聞き出しました。自分にとっては妹も「殺しても殺し足りない」程の憎い存在でしたが、引っ越しの発案に関わっていない分だけまだマシな存在でした。自分は憎悪を必死に抑えて妹とコミュニケーションをとり続けました。そして、その2〜3日後、自分と妹は引っ越し先の一軒家を見に行ったのでした。



『引用終わり』



では今回の記事を書いて行こうと思います。上記のような流れで自分は妹と一緒に引っ越し先の一軒家を見に行ったのでした。時期的には2006年の4月頃です。自分は妹と新しい一軒家を見に行き、その一軒家は現在住んでいる家よりも広さは1.5倍くらい大きく、外観も立派なものでした。そして、中に入って自分の新しい部屋を見たのですが、そこも現在の部屋の2倍くらいの広さだったのです。単純比較すれば、新しい家の方が良い居住空間でした。



しかし、当時の自分はそんな事は何一つ嬉しい事ではありませんでした。何故なら、自分は現在住んでいる部屋に対して、⑴〜⑶の並々ならぬ愛着を感じていたからです。当時の自分にとって、新しい広々とした部屋よりも、6畳くらいの狭くて古い部屋の方が100倍居心地の良いものでした。




また、今後この新しい家に引っ越しをするとなると、上記の①〜⑥の憎悪と絶望が最大化される事も確定的です。自分はそれに備えて、「首吊り装置」を自分の部屋に設置せねばならない程、精神的に追い込まれる事となったのです。新しい家への引っ越しは、当時の自分にとって精神的殺人と同義でした。ですから、新しい家がどんなに立派で広かろうが、ポジティブな気持ちが生まれるはずがありません。



自分はそのような思いで新しい家の中を見て周りました。その間自分の中にポジティブな気持ちは一向に生まれませんでした。しかし、とりあえずは今後の引っ越しへの下調べとして、新しい自分の部屋の大きさをメジャーで測ったり、ラジオの電波状況を調べたり、引っ越しに関する作業をしました。それが終わると、妹と1時間くらい喋りました。自分はそこで自分が部屋に引きこもっていた1年間、部屋で何をしていたのかを妹に喋りました。そう、1年間部屋に引きこもって、ノートにひたすら過去のトラウマを書き続けていた、という話です。



そう、本来なら当時の自分にとって妹は「殺しても殺し足りない」程の憎い存在であり、コミュニケーションなど絶対的にあり得ない状況です。しかし、自分は引っ越し準備の為に妹とコミュニケーションを取らざるを得ない状態に陥りました。そして、妹とのコミュニケーションで自我が失われる程の憎悪と被害妄想が発生する事を想定して、自分の部屋に「首吊り装置」を設置しました。自分にとって妹とのコミュニケーションはそれ程までにあり得ないものでした。



しかし、引っ越しをするからには家族の誰かとのコミュニケーションは避けられません。自分は妹に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪を必死に抑えて妹とコミュニケーションを取り始めました。そして、一回妹とコミュニケーションを取り始めてみますと、妹の自分に対する態度は悪くはありませんでした。そう、妹は今回の引っ越しに対して親に反対していたそうなのです。「兄である自分と全くコミュニケーションが取れていない状況で引っ越しは辞めた方が良い」、と。自分はその話を聞き、少しだけ嬉しかったのを覚えています。ですから、そのような話を含め、妹と話をしてますと、事前に想定していた程の憎悪(自我が失われる程の憎悪)は自分の中に発生しなかったのでした。



このような経緯がありましたので、自分はこの場面で妹に対して、引きこもりの1年間の話をする気になったのだと思います。何せこの時の自分はこの話を誰かに聞いて貰いたくて仕方がない状態でもありました。その為に1時間1万円払って、カウンセリングに行っていたぐらいですから。ですから、自分はこの場面において、引きこもりの1年間の話をしたのだと思います。自分は他にも「我が家が小学校3年生以降戦争状態に陥っていた」、という話もした記憶です。そして、この話に関しても妹は賛同していた記憶です。加えて、自分は「家庭環境が戦争状態に突入した事自分の学生時代が滅茶苦茶に壊され、心身も壊れていった」という話もした記憶です。



『引用終わり』



なるほど〜。このように自分は妹と一緒に引っ越し先の一軒家を見に行き、そこの下見を済ませました。また、そこで妹とのコミュニケーションを図った、という事になります。この日を境に自分は引っ越し準備を本格的に始めた記憶です。2ヶ月後の引っ越しに向けて、本棚の本を少しずつ縛っていったり、机の中のものを少しずつ段ボールに入れていったり。



そして、引っ越し準備が本格化するのと同時にパチンコ稼業は完全に開店休業状態になりました。そもそも自分のパチンコ稼業へのモチベーションは、「東○荘事件」によって壊滅的になっていたのです。それでも1〜2週間は必死に鬱の諸症状に耐えて、パチンコを打ち続けていました。



しかし、それから2週間後、自分は両親から引っ越しの強行を聞かされました。これによって自分の中のモチベーションはほとんど消滅した印象です。そして、さらに妹と引っ越し先の一軒家を見に行き、それから引っ越し準備が本格化しました。それによりモチベーションは完全壊滅です。



何故モチベーションが壊滅したのかと言いますと、この先の引っ越しの流れが確定的になった事で、上記①〜⑥の不安感と憎悪が最大化する事となったのです。それにより、自分の頭の中はもはやパチンコの事を考える余裕が無くなってしまいました。



この時の自分の頭の中を短く表現しますと、こんな感じです。


「頭の中が2ヶ月後の引っ越しに対する不安感と絶望感で溢れ返っているので、もはやパチンコを打っているどころではない。」


このような流れで自分の半年間に渡るパチンコ稼業は幕を下ろす事となったのです。この半年間で稼いだ額は180万で手元には100万円が残る事となりました。自分としては今回の生活の目標を貯金200万円に設定していましたので、そこに達せずに終わる事になったのは、悔しい気持ちでした。



ただ、この時の自分は、引っ越し後のパチンコ稼業の再開に一縷の望みを託していた部分もありました。そう、「もしかしたら引っ越しが終わったら、パチンコ稼業へのモチベーションが戻ってくるかもしれない」、と。自分はそこに一縷の望みを託しつつ、とりあえずパチンコ稼業から身を引く事となったのでした。



『引用終わり』



なるほど〜。これで引用部分は終わりです。このような経緯で自分はパチンコ稼業から身を引き、引っ越し準備を本格化させた、という事になります。では今回の記事では、上記の経緯を「鬱悪化のフローチャート」としてまとめたいと思います。まとめる期間は、「東○荘事件」直後からパチンコ稼業を辞めるまでの2〜3週間です。とりあえず、以前の記事でまとめた「鬱悪化のフローチャート」を思い出してみたいと思います。全部を貼ると長くなりますので、引きこもりが明けてからのフローチャートになります。



自分は2005年の9月から再びカウンセリングに通い始めた(29歳)。そこでこれまでの記憶のサルベージの話を馴染みのカウンセラーH先生に聞いて貰い続けた。カウンセリングは週に1回1時間ペースで行われたのだが、自分は次回のカウンセリングが毎回待ち遠しくてたまらなかった。(詳細はこちら)(マイナス132→132)



自分はカウンセリングを再開させると同時にカウンセリング代と生活費を稼ぐ為にパチンコ稼業も復活させた。自分はここから毎日のようにパチンコ屋に通い、朝から晩までパチンコを打ち続けた。稼ぎの方は順調に推移し、ここから半年間でおよそ180万程稼ぐ事となった。このカウンセリング&パチンコ生活にはかつて無い程のやり甲斐と充実感があったのだが、一方で鬱の諸症状の辛さも半端では無かった。(当時の鬱の諸症状はこちら)自分の中では、鬱の諸症状の辛さより日々の充実感の方が辛うじて上回っていたので、ギリギリなんとかこの生活を続けていけていた。(マイナス132→132)



そんな日々が1〜2ヶ月続いた頃、急に父親が自分の部屋にやってきて、「もしかしたらこの先引っ越しをするかもしれないから、考えておいてくれ。」と言い出した。これにより自分の心の中には凄まじい憎しみの嵐と不安の嵐が発生。その嵐を構成する5つの理由はこちら。 (マイナス132→132)



父親から引っ越しの話を聞いて以降、自分は母親とコミュニケーションを取らざるを得なくなっていった。何故なら我が家の決定権は100%母親にあり、その母親の引っ越しへの本気度を確かめる必要があった為。また、その母親に対して自分の立場「引っ越しに絶対反対」を示す必要もあった。(詳細はこちら。)しかし、自分にとって母親は「殺したい」程の憎い人間であり、母親とのコミュニケーションは凄まじい精神的苦痛を意味していた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこちら。) (マイナス132→132)



父親から引っ越しの話を聞いてから2週間後、自分は意を決して母親に引っ越しの話をしに行った。(2005年11月)母親とのコミュニケーションは2年ぶり。そこで自分は憎悪を必死に抑えて、引っ越しについて聞いてみたのだが、母親はかなり引っ越しに対して本気な様子だった。自分は自分の立場「引っ越しに絶対に反対」を表明するも、母親は全く意に介していないようだった。これにより、自分の中の両親に対する憎悪はさらに激しくなっていった。(詳細はこちら) (マイナス132→132)



その後、両親は着々と引っ越しの話を進めている様子だった。これにより自分の両親に対する憎悪はますます悪化。それはもはや理性でコントロールが効かないレベル。その憎悪は暴力衝動を引き起こし、自分はそれを我慢が出来なかった。自分はここから事あるごとにその暴力衝動を家の中でぶつけていく事になった。例えば玄関や家の中のドアをこれ以上なく思い切り閉めたり、自分の部屋の壁や床を思い切り殴ったり、蹴ったり。この時自分が引っ越しに対して感じていた凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由はこちら(マイナス132→132)



そんな日々が3〜4ヶ月続いた頃、重大事件が発生。事件の名前は「東○荘事件」。自分がいつものように家の中で暴力衝動を発散していると、それに憎しみを募らせていたらしい父親が自分に掴みかかってきた。そこに母親と妹も加わり、1vs3の袋叩き状態。20分くらいで母親が警察を呼び、その場に警察が駆けつけ、とりあえずその場は収まった。(この事件の詳細なフローチャートはこちら) (マイナス132→132)




その後自分は、カウンセリングに向かい、先程の事件の話を聞いて貰った。また地元の元バイト先の古本屋でも話を聞いて貰った。そして、その日は家に帰る気が全くせず、地元の繁華にあるホテル、「東○荘」に泊まる事となった。(マイナス132→132)



自分は東○荘の一室にチェックインすると、その日起こった出来事をノートに書き殴った。そして、3時間後ノートを書き終えた。時刻は朝の5時頃。そこでベッドに入り眠ろうとするとするも、頭の中は圧倒的な負の感情で溢れ帰り、パニック状態。その中で最も酷い感情は家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪。そして、身体も酷い冷え性で凍えるようだった。自分はベッドに入ったものの全く眠る事が出来ずこの状態で3時間くらい悶絶し、ようやく朝8時くらいに寝付く事が出来たのだった。この夜は自分の人生の中で最も辛い夜となった。(マイナス132→132)



翌日自分は昼の2時くらいに目を覚ました。しかし、睡眠は極めて浅く断続的だった為、前日の極限を超えた疲労感は全く癒えていなかった。そこから自分は再び3時間程ノートを書いた。そして、断腸の思いで家に帰る事を決意。もはや自分の身体はこのホテルのベッドで寝る事を拒絶していた。自分は極限を超えた疲労困憊状態に必死に抗い、東○荘をチェックアウトした。(マイナス132→132)



東○荘を出ると地元に戻ったのだが、すぐには家に帰る気が全くしない。そこでまたも元バイト先の古本屋を訪ね、そこで2時間程話を聞いて貰った。(マイナス132→132)



時刻は夜8時。自分はとうとう家に帰ってきた。玄関の鍵は開き、途中で父親に襲われる事もなく、自分の部屋に戻ってこれた。この時の自分は極限を超えた疲労状態にあり、しかも病的(×12倍)な被害妄想状態にあった。故に「もしかしたら、自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」という被害妄想が発生し、その恐怖で気が狂いそうだった。この時感じていた精神的苦痛の量は「中指の拷問」一回分。(マイナス132→132)



自分の部屋に戻ると、自分はまたもノートに自分の気持ちを書き続けた。そして、2時間後ようやく気持ちを書き終えた。ベッドに入った自分の心の中は「寝てしまったら激昂した父親が部屋に突入してきて、殺されてしまうかも」という恐怖心でいっぱいだったが、一方では疲労感も極限を超えていた。自分は「寝付いた後自分が殺されるのなら、もはやそれは仕方がない」という覚悟のような諦めを感じつつ、寝付いたのだった。(マイナス132→132)



翌日、昼の12時頃に目を覚ますもやはり極限を超えた疲労感はほとんど回復していなかった。昨日から自分の中には選択肢「1度家には帰るものの、本当に無理そうなら再び東○荘に戻る」もあった。しかし、今後この極限を超えた疲労感がほとんど回復していない状態で再び東○荘に戻り、再びベッドの上で凍え続ける気力は毛頭残っていなかった。よって自分は以下の3つの凄まじい精神的苦痛に心を引き裂かれながらも、家に居続ける選択をしたのだった。



・家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪

・「もしかしたら、自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」という病的な(×12倍)被害妄想


引っ越しに対して感じていた凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由




この「東○荘事件」によって自分は「中指の拷問」一回分の精神的苦痛を受ける事となった。(中指の拷問の詳細はこちらの記事の中盤以降。)この事件を「中指の拷問」の例えに倣って表現するとこうなる。


「自分の心が両親によって本来あり得ない方向に曲げられ、折られてしまった。そして、心が折られた箇所は激しい外傷となり、酷いトラウマになっていった。」


(マイナス132→132)



よって自分が両親に感じる憎悪は以下のように変化。


・『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみ

・「殺しても殺し足りない」程の憎悪


(マイナス132→132)



そして、鬱の諸症状もさらに2倍悪化。


「鬱の廃人」×2倍状態(当時の鬱の諸症状はこちら)



「鬱の廃人」×4倍状態


よって、メンタル数値も2倍に悪化。(マイナス132→264)

(ただし、本来メンタル数値は、東○荘事件の場面場面それぞれの中で減少していったと考える方が正しい。そして、それぞれのトータルの減少値が「マイナス132」。ただ今となってはそれぞれの場面場面でのメンタル数値の正確な減少値を考える事は不可能。よって、便宜上事件の全てが終わった時点で一気に「マイナス132」と表記)



この東○荘事件から3ヶ月後に引っ越しが決行され、自分はさらなる精神的苦痛を受ける事となった。これによりパチンコで稼ぐ気力を完全に失い、稼ぐ手段が完全消滅。そこで自分は母親に対して月6万円の生活費を補償するよう要求し、それは認められた。しかし、本来自分にとって母親は「殺しても殺し足りない」程憎い人間であり、生活費を求めるコミュニケーションすらも気が狂うような精神的苦痛。故にここからの5年間は自分の鬱が最も酷かった期間になるのだが、その5年間を例えるとこうなる。



「ボットン便所(汲み取り式便所)の底を這いずり回り、そこの汚物を食って生活していたような5年間」


(マイナス264)



今回の記事で考えてみる箇所は、下から2番目の項目、



そして、鬱の諸症状もさらに2倍悪化。


「鬱の廃人」×2倍状態(当時の鬱の諸症状はこちら)



「鬱の廃人」×4倍状態


よって、メンタル数値も2倍に悪化。(マイナス132→264)

(ただし、本来メンタル数値は、東○荘事件の場面場面それぞれの中で減少していったと考える方が正しい。そして、それぞれのトータルの減少値が「マイナス132」。ただ今となってはそれぞれの場面場面でのメンタル数値の正確な減少値を考える事は不可能。よって、便宜上事件の全てが終わった時点で一気に「マイナス132」と表記)



この項目以降のフローチャートを考えたいと思います。つまり、「東○荘事件」が終わった後の話をフローチャートにまとめてみます。こんな感じになります。



東○荘事件から2〜3週間後、両親が自分に2ヶ月後の引っ越しの決行を伝えてきた。これにより、自分の心の中にはこれ以上無い挫折感と虚無感が発生した。つまり、この時の自分の心の中には以下の9個(①〜⑥+❶❷+1)の憎悪と絶望感が発生していた、という事になる。


・「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その6つの理由①〜⑥」


・❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪


・❷ 「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想


・東○荘事件の後、両親が引っ越しの決行を決めた事による、過去に例を見ない程の挫折感と虚無感


(マイナス264)


両親が引っ越しの決行を決めた事で、「引っ越しについて行くか」、「一人暮らし」するのか、選択を迫られる事となった。最終的には断腸の思いで「引っ越しについて行く」を選ぶ事となった。(「一人暮らし」を選べなかった理由は 一人暮らしという選択肢が絶望的に不可能(過去編・2006年3月・30歳))

(マイナス264)


「引っ越しについて行く」事で、上記9つの憎悪と絶望感が最大化する事が確定的になった。この事で自分の中には以下の最悪の事態が想定された。


引っ越し準備の中で、自分の自我が憎悪と被害妄想に飲み込まれてしまい、正気を完全に失い、「自殺」という現実離脱手段すら使えなくなる事態。(具体的には、自分が気が狂った末に、精神病院の閉鎖病棟に隔離され、死ぬまでそこで苦しみ続けるような状態を想定)

(マイナス264)




よって自分は上記の状態を避ける為に、この先の引っ越し作業の中でもし正気を失いそうになったら、すぐにでも首を吊って、現実から離脱しようと決意。ホームセンターに行き、電源コードと突っ張り棒を購入し、自分の部屋の中に「首吊り装置」を設置。試しにコードに全体重を掛けてみたところ、身体は浮き上がった。これにより自分はかなりの安堵感を覚えた。自分はこの「最終安全装置」を心の支えにして、引っ越し準備を進めて行く事に。(マイナス264)



「最終安全装置」を設置した翌日、妹とコミュニケーションを取り、引っ越しの情報を得た。当時の自分は妹に対しても「殺しても殺しない」程の憎悪を感じており、本来ならコミュニケーションは絶対にあり得ない精神状態。しかし、引っ越しについていくからには家族内の誰かとのコミュニケーションは避けられず、家族3人の中で妹はまだマシな存在だった。(マイナス264)



その故に自分は妹に対する憎悪を必死に抑えて妹とコミュニケーションとなった。すると、妹の自分に対する態度は悪くなかった。妹は引っ越し関する詳細を教えてくれた。なんでも妹は今回の引っ越しを両親に反対していたそう。その理由は「兄(自分)が家庭内で完全孤立している状態で引っ越しをするべきではない。」、と。自分はその話を聞き、少し嬉しくなった。(マイナス264)



それから2〜3日後、自分と妹は引っ越し先の一軒家を見に行く事となった。新しい一軒家は現在住む家よりも広くて新しかったのだが、そんな事で自分の心が晴れる事は一切無かった。(その理由は「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その6つの理由①〜⑥」の⑥) (マイナス264)



新しい家の下見が終わると、自分と妹は2年ぶりくらいにじっくり話した。自分は引きこもりの1年間自分が何をしていたのかを妹に喋った。また、他にも「我が家が小学校3年生以降戦争状態に陥っていた」、という話や「家庭環境が戦争状態に突入した事自分の学生時代が滅茶苦茶に壊され、心身も壊れていった」という話もした。(マイナス264)



下見の翌日くらいから、引っ越し準備が本格化する事となった。それにより、パチンコ稼業へのモチベーションは完全消滅。何故なら引っ越しの流れが確定的になった事で、上記の9個の憎悪と絶望感が最大化される事が確定的になった為。この時の精神状態を短くまとめると以下の通り。


「頭の中が2ヶ月後の引っ越しに対する不安感と絶望感で溢れ返っているので、もはやパチンコを打っているどころではない。」

(マイナス264)



結果自分のパチンコ生活は半年間で幕を下ろす事となった。稼いだ額は半年間で180万。そして、手元に残った貯金は100万。自分としてもこの生活を貯金200万円までは続ける気持ちだったので、そこはくやしい思いがあった。また、当時の自分は「引っ越しが終われば、もしかしたら稼ぐモチベーションが復活するかも」、と期待している部分もあった。(マイナス264)




いいですね!よくまとまりました!それぞれの項目のメンタル数値は「264」のままとしたいと思います。上記のフローチャートをこのブログのトップ記事「鬱悪化のフローチャート」に付け加えておきます。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!



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