鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。ツイッターを@skipper1242でやってましたが凍結されましたので、現在は@skipper954954でやってます。

トラウマを思い出しながら外を歩くという行為(2008年4月頃・32歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 今回の事件での自己肯定感の増減は無し②(過去編・2008年夏頃・32歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事も、31歳の自分が近所の家が柴犬を飼い始めたのを発見し、致命的な絶望感を感じた、という話でした。これは2007年10月の話になります。その後紆余曲折を経て、母親と喋る気になっていった、という話になります。どうしてこの時の自分が致命的な絶望感を感じたのかと言いますと、当時の自分が「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態に陥っており、病的(×18倍)な「音への被害妄想」を発症していたからです。




ではまず初めに、今回の記事の前提となる「前フリ」部分を貼りたいと思います。上記の「極度の虚脱状態と放心状態」がどのような状態だったのか、という説明です。いつもこのブログをお読みの方はスルーして下さい。



『前フリ』



まずは当時の自分が陥っていた「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態を確認したいと思います。これは2006年6月に両親が引っ越しをした事で、自分の心身が「極度の虚脱状態と放心状態」に陥った事を表しています。



[引っ越し後の「極度の虚脱状態と放心状態」の詳細⑴〜⑻]



そして、2007年3月に起きた「ぎっくり腰事件」によって、自分の鬱はさらに1.5倍悪化しました。よって自分の心身は「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態に陥ったのです。これは上記リンクの⑴〜⑻の諸症状がさらに1.5倍悪化した事を示しています。




また、上記リンクの⑹ には「2006年6月の引っ越しの際の致命的な精神的苦痛①〜⑥+1」とあります。これは2006年6月に両親が引っ越しを強行した事で自分が致命的な精神的苦痛を受けた事を示しています。この時受けた致命的な精神的苦痛によって自分は「極度の虚脱状態と放心状態」(上記⑴〜⑻)に陥ったのでした。



[「引っ越しの際の致命的な精神的苦痛①〜⑥+1」の詳細]



『前フリ終わり』



そして、「ぎっくり腰事件」から7ヶ月後の2007年10月、近所の家が犬を飼い始めたのでした。



自分が近所の家に犬を発見してからの心の動きをフローチャートで確認したいと思います。かなり長いフローチャートです。短縮verが下記にあります。



[犬の鳴き声が発生してから、母親と喋り始めるまでのフローチャート]



前回の記事で作った上記のリンクの短縮verは以下の通りです。




2007年10月、隣の家が犬を飼い始めた事で、自分の精神は過去最大に追い詰められる事となった。何せ当時の自分は病的(×18倍)な被害妄想に苦しんでいた。自分が苦しんでいた致命的な精神的苦痛は以下の3つ。


・「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×18倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)

・引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×18倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)


・両親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪




上記3つの精神的苦痛によって自分の精神は犬の吠え声の幻聴が聞こえる程に追い詰められる事となった。そして、自分はその致命的な恐怖により睡眠をまともに取る事が出来ない。これによって、自分の心身は究極的に衰弱し、当然ながら「自殺」という選択肢が意識に登った。



自分は幻聴による苦しみや自殺という選択肢についての思いをノートに書き殴った。するとこのような思いになっていった。「自殺する前に母親と喋ってみるのはどうだろう?」、と。




さらに自分はノートを書いていった。

「どのようにして幻聴が聞こえる程自分の精神を壊れていったのか、それまでの31年間の経緯を母親に洗いざらいぶち撒けてみるのはどうだろう?」

「どうせ自殺するなら、これまでなら絶対に不可能だった事に挑戦し、それで駄目ならその時こそ死ねばいいじゃん」



しかし、「母親と喋る」という選択肢は、当時の自分にとって三重の意味で狂った選択肢だった。その理由は以下の通り。


①当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。


②そこで喋ろうというのは、「自分のトラウマまみれの31年間」。自分は小、中、高、大学と、人間関係に挫折し続け、鬱を悪化させていった。そんな全くもって思い出したくもないトラウマ全てをよりによって母親に喋るという事。

③ 自分の全てのトラウマを母親に喋って聞かせるという事は、膨大な時間がかかる事も容易に想像出来た。少なく見積もっても2〜3ヶ月はかかる。「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じている人間と膨大な時間を過ごすという事。



自分は上記の気持ちを2週間かけてノートに書き殴っていき、どちらの選択肢を選ぶのか、考えていった。そして、最終的に辿り着いた結論は以下の通り。


「『母親に31年間のトラウマ全てをぶち撒ける』という選択肢は三重の意味で狂っている。しかし、どうせなら首を吊る前に、この気が狂いまくった選択肢を試してみてもいいかもしれない」



2007年10月、自分はとうとう母親と喋り始めた。自分は小学校時代のトラウマから始まり、中学、高校、大学のトラウマ事件の数々を母親に喋っていった。(それぞれの事件の詳細は、このブログのトップ記事「「人生年表と鬱のフローチャート」参照)



自分は最初の日は5〜6時間母親と喋り、その後も毎日2〜3時間母親と喋り、トラウマの数々をぶち撒けていった。



しかし、自分のトラウマエピソードを聞いている際の母親のリアクションは、期待していたものとは全くかけ離れていた。自分としては母親から「大変だったね。」や「すまなかったね。」というリアクションを期待していたのだが、実際には母親からこれらのリアクションは皆無。ほとんどの時間、母親は自分の話に対してノーリアクションだった。質問や相槌さえない。自分は壁に向かって一人で喋っているような状態。



しかし、現在の自分(2022年7月)は、この時の母親のノーリアクションには仕方がない部分があったと考える。それは以下の3つ。


「母親のノーリアクションが仕方がなかった理由」


①2007年の自分は、現在の自分(2022年7月)と比べると、過去の記憶への理解の深さが50%程度しかなかった。


②2007年の自分は、母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。


③2007年の自分が感じていた母親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪、これは母親からすると「濡れ衣」であった。



このように自分はほぼ毎日2〜3時間を使い、8ヶ月間に渡って母親にトラウマを喋り続けた。自分は母親のノーリアクションに対してかなりの虚無感と悲しさを感じていたのだが、一方では以下の希望も抱いていた。


「ほんの1ミリでも当時の自分の悲しみが母親に伝われば、それで良い」
「もしかしたら母親は最初は全く理解出来なくても、話が進むにつれて、理解出来る様になるかも」



しかし、実際にはこの8ヶ月間で母親が自分のトラウマに感情移入する事は一切無かった印象。



2008年3月頃、自分は自分のトラウマを一通り喋り終えた。すると意外な事に、今度は自分の中に母親の人生への興味が湧いてくる事となった。自分はそれまでの32年間母親の人生に興味を持つ事など一切無かったのだが、ここに来てそれが猛然と沸き始めた。



母親の人生を聞く前、自分はこう予想していた。「自分は幼い頃から母親の暗い顔しか見た事がない。という事は母親という人間は、幼い頃から暗い人間だったのだろう。だから母親の子供の自分も、暗い少年時代を過ごす事になったのだ。」、と。



また、母親の人生を聞く前、自分は「家庭内の責任問題」について、こうも考えていた。「家庭内の責任問題」とは、自分が小学校3年生の時に家庭内が戦争状態に陥り、それが10年以上続いた事に対する責任問題。これが原因で自分は学校生活で挫折し続け、引きこもる事になってしまった。



自分はこの責任問題に関して父親と母親それぞれに50%ずつあると感じていた。この2人が作り上げた家庭環境なのだから、それぞれに50%ずつ責任がある、という考え方だった。



このような思いで自分は母親の人生を詳細に聞き始めた。するとそこには自分が全く予想していなかった人生が広がっていた。そう、母親の子供時代の話を聞いた所、それはとても無邪気で明るいものだった。子供時代の母親は、友達や姉と一緒に野山を駆け回り、周りの大人達に可愛がられ、絵に描いたような子供らしい子供時代を送っていた。そのような牧歌的な子供時代は、自分には全く無かったものだった。自分の子供時代と言えば、物心ついた頃には喘息を発症しており、全く運動が出来ず、友達と楽しく遊んだ記憶もほとんどない子供時代。




また、その後自分は母親の学生時代、社会人時代の話も詳細に聞いていったのだが、父親と結婚するまでは、闇の要素は特に無かった。



このような話を聞き続ける中で、徐々に先程の責任問題の考え方が変わっていった。それはどういう事かと言うと、自分が考える母親の責任の割合が50%から徐々に下がっていったのだった。これが上記「母親のノーリアクションが仕方がなかった理由」の③に繋がっていく事になる。



この「幻聴→母親と喋り始める事件」におけるメンタル数値の増減は「0」。メンタル数値が増える要素、減る要素、それぞれあったのだが、それらの差し引きは「0」となる。それらの要素は以下の通り。



①メンタル数値が増える要素:トラウマの数々を母親に喋っている、という状態。何故なら自分は28歳〜29歳の時に1年間引きこもり、自分のトラウマをひたすらノートに書いていく作業をしていた。そして、全てのトラウマをノートに言語化し、その上でそれらのトラウマの因果関係を繋いでいく作業もしていた。これらの作業によって「自分の人生を誰かに喋りたい!!」という激しい衝動が生まれていた。そして、母親という存在はこの衝動をぶつけるのにこれ以上なく最適な存在だった。母親は自分の人生において最も近くにいた「当事者」であり、自分の人生を2度ぶち壊した「責任者」でもあった。


②メンタル数値が増える要素:自分は母親と喋る事で「もしかしたら母親は自分のトラウマを理解してくれるかもしれない」という「希望」を持つ事が出来た。「もしかしたら母親は最初は自分のトラウマを理解出来なくても、話が進むにつれて、理解出来る様になるかもしれない」、と未来に希望を持つ事が出来た。ただし実際にはこの半年間で母親が自分のトラウマに対して理解や同情や謝罪の言葉を発する事はただの一度も無かった。母親が自分のトラウマを理解するには、ここから15年の年月が必要だった。




③メンタル数値が減る要素:自分は母親に自分のトラウマを喋り続けたのだが、それに対する母親のリアクションはほぼ皆無。相槌さえない。自分は壁に向かって一人で喋っているようなものだった。当時の自分は母親のそんなリアクションに対して致命的な虚無感を感じていた。


④メンタル数値が減る要素:当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。故にその憎悪を母親と喋っている最中、必死に必死に抑えなければならなかった。これによる精神的消耗もかなりのものがあった。また、それを抑えきれず、母親と激しく喧嘩する事も多々あった。これによる精神的消耗もかなり激しかった。



つまり、「①+②-③-④=0」という事になる。




フローチャート終わり』



これでようやく「幻聴→母親と喋り始める事件」をまとめ終えた感じです。ホントによくまとまりました。何度も書いていますが、この事件は自分の人生の中で最も自殺の確率が高かった時期です。あのカオスにカオスを極めた時期をよくここまでまとめられたと思います。




さて、この事件が起きた時期は、2007年10月〜2008年3月頃になります。そして、2008年4月頃(32歳)から自分は母親の人生を聞いていく事になります。そして、これと全く同じ時期に自分の生活はさらに大きく変化する事となりました。そう、母親と喋り始めた事も本当に大きな変化でしたが、その半年後くらいから更なる大きな変化が自分の中に訪れる事となったのです。



その変化が何だったのか、という話ですが、それは自分が「外を歩き始めた」、という事です。しかも、「トラウマを思い出しながら」。これは本当に大きな変化でした。



振り返ってみますと、引っ越し以降、自分が生活の中で身体を動かす事はたまにはありました。そして、たまに運動を思い付いては家の周りを歩いたり、走ったりはしていました。この運動は、大学空手部時代の名残と言えました。自分は大学空手部引退後も「自主練」を続けてしまっていたのです。



この大学空手部引退後の自主練の名残りについて、過去記事で詳しくまとめていますので、引用したいと思います。



⑨自分は大学空手部の3年間でさらに「自分に対する自信」をさらに3倍失った。そして、自分の頭の中には依然として「トレーニング=体力が付く=自信が付く」という図式が色濃く残っており、この図式が自分にも当てはまると相変わらず信じていた。そこで、空手部を引退し、人間サンドバッグの恐怖が無くなったにも関わらず、「自分に対する自信」を回復させる為に自主練をを続けてしまった。(トレーニングの内容は、ランニング、坂道ダッシュ、縄跳び、筋トレなどで、1時間程度のトレーニング。頻度は週3回。)


しかし、空手部の頃と同様、トレーニングを積み重ねても一向に体力が増える実感が得られない。トレーニング翌日に体調が滅茶苦茶に崩れるだけ。翌日目が覚めると自分の身体はとても重くてダルく、身体は冷え切っていて、鼻水はダラダラ。食欲は当然全く無く、背中の疲労感は疲労感というより激痛。故にトレーニングすればする程、自分の中にはさらに「孤独感」「脱力感」「無力感」「虚無感」が増えていき、これが更なる自殺願望へと繋がっていった。そして当時の自分はトレーニングをすればする程心身が衰弱していく悪魔のからくりに全く気付いていない。体調が少し回復すると、またトレーニングをしてしまう。このトレーニング行為は「無意識的な全力の自傷行為」とも言える。


(「 大学空手部引退後も挫折は続く 」からの引用)



このように自分は大学空手部引退後も断続的に自主練という名の「無意識の自傷行為」を続けてしまいました。そしてそれは引っ越し後も変わりませんでした。自分はたまに思い付いては新しい家の周りを散歩したり、走ったりして、翌日体調を崩していました。そして、懲りずにまた2日後くらいにまた身体を動かし、また体調を崩してしまいます。こんな事が1ヶ月くらい続き、体調はどん底です。ここでようやく自分は運動を一切辞めるのでした。こんな不毛な運動が引っ越し後も半年に一度ペースで続いていた記憶です。




今回の記事はこれで失礼します。ありがとうございました!




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