鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

トラウマ歩きの最中の歩く事による自己肯定感(2008年3月頃・32歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 トラウマ歩きの最中のポジティブな感覚(2008年3月頃・32歳) 」の続きを書かせて頂きます。



☆ここから先の話は3種類の時系列が存在し、それぞれの時代の自分が存在します。


①今現在のこのブログを書いている自分(2022年8月・45歳)

②トラウマ歩きを始めた頃の自分(2008年6月頃・32歳)←これが今回の記事のメインです。

③大学空手部時代の自分(1995年〜1998年・19歳〜21歳)


なるべくこの3種類を分かりやすいように書いていきますが、ややこしくてすみません。



前回の記事は、32歳の自分が「トラウマ歩き」を続行する事になった、という話でした。「トラウマ歩き」とは、歩きながらトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。ここからはただひたすら歩く日々の始まりでした。自分は週に3回のペースで歩く事になりました。 1回の歩き時間は平均4時間で、1回あたりの平均歩行距離は10kmです。いまから14年前の話になります。


自分は「トラウマ歩き」を続行するにあたり、まずは1つ目の大学に向かいました。この場所こそ、自分の鬱を象徴する場所であり、「トラウマ歩き」を本格化させるにはうってつけの場所だったのです。



自分は大学の学内を歩き回り、思考のアイドリングを40〜50分間しました。そして、大学の外に出まして、5分程歩きました。そこは空手部当時週3ペースでランニングしていた場所です。空手部当時のトラウマを思い出すのにうってつけの場所でした。



ここからは前回の記事をそのまま引用したいと思います。「トラウマ歩き」の苦しさと、そのポジティブな効用について書いてあります。前回の記事をお読みの方はスルーして下さい。



『前回記事からの引用』




このように自分が「トラウマ歩き」を始めると、まるで過去にタイムスリップしたかのような感覚に襲われました。その没入感は凄まじく、視界の色が一気に黒に限りなく近いグレーに変わりました。そして、思い出されたのは、当時ここをランニングしていた時代の凄まじい苦しみです。




この当時の苦しみですが、まず身体的には喘息を激しく発症しており、単純に呼吸の苦しさがありました。ただでさえランニングをすると呼吸が苦しくなると思いますが、自分の場合それに加えて喘息の苦しさもあったのです。ですから、空気を必死に吸っても吸っても苦しくてたまりませんでした。



一方、精神的には「この後の稽古で殺されるかもしれない恐怖感」と「孤独感」と「無力感」と「虚無感」と「絶望感」が発生しており、これが凄まじい精神的苦痛となっていました。



自分はこのような当時の苦しみを思い出しながら、当時のランニングルートを歩き続けました。自分の心の中は漆黒に染まり切っており、身体は鉛のように重くなっていました。



しかし、一方で自分の心の中には「懐かしさ」も発生していた記憶です。自分は当時のランニングルートを歩きながら以下のように感じていました。


「そうそう、当時の自分はまさにこの場所で凄まじい心身の苦痛に耐えていたんだよなぁ、、。頑張っていたよなぁ、、。」


こう考えると、当時の自分が感じていた心身の苦痛が1/500くらいですが、癒される気もしました。



また、もう一つのポジティブな効用として、単純に「歩く事自体の気持ち良さ」もあったように思います。そう、自分が行きたい場所に向かって、気の向くままに歩いていく、そんな行為自体に癒しの効果があったように思います。今回の場合ですと、自分は自らの意志で大学近辺に赴き、自らの意志でそこを歩いていました。その事自体が自分の中に微細な充実感を生んでいた、そんな感覚もあった記憶です。



『引用終わり』



このように「トラウマ歩き」は凄まじい精神的苦痛を発生させる行為でしたが、一方でポジティブな効用もありました。前回の記事に書きましたように、ほんの少しだけ癒される感覚がありましたし、単純に自由気ままに歩きたい場所を歩く事自体に充実感がありました。



そう、この充実感はけっこう重要だった記憶です。なんというか自分の足で、自分が行きたい場所に歩いていく、この事自体にけっこうな充実感がありました。事前にルートを設定し、そのルートを自分の足で実際に歩いていく事での充実感。事前に設定したルートが現実化する面白さ。大袈裟に言いますと、歩く事による自己実現、ですかね。もしくは歩く事による自己肯定感。



自分はそれまでの32年間の人生において自己肯定感を失っていく一方でしたから、この歩く事による自己肯定感は貴重な感覚だった記憶です。



このように自分は大学近辺を歩きながら過去のトラウマを思い出し続け、凄まじい精神的苦痛に襲われ続けました。しかし、一方ではそこにほんの少しのポジティブな感覚もあったのでした。



結局その日は大学近辺を2時間くらい歩いて帰路に着きました。「トラウマ歩き」の最中にはやはり凄まじい精神的苦痛が発生しましたが、一方ではそこにポジティブな感覚もありました。特に大学近辺を歩き回る事自体に妙な楽しさがありました。単純に懐かしい気持ちになりましたし、非日常的な楽しさもあったのです。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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