鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

家族に対する殺しても殺し足りない程の憎悪をトラウマ歩きの中で消化していく(2008年4月頃・32歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 トラウマ歩きは辛い事だけでは無かった。(2008年4月頃・32歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、32歳の自分が熱中していた「トラウマ歩き」、この「トラウマ歩き」の1年目におけるポジティブな感覚を考えてみました。「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



「トラウマ歩き」を開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間、平均移動距離は10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。



ここからは今回の記事の前提となる「前フリ」部分となります。いつもこのブログをお読みの方はスルーして下さい。



『前フリ』


ではまずは、これまでの記事でまとめた「トラウマ歩き」の最中のポジティブな感覚とネガティヴな感覚を確認したいと思います。



「トラウマ歩きの最中に発生していたポジティブな感情①〜⑥」


「トラウマ歩きの最中のネガティヴな感情❶〜❽」




そして、この①〜⑥のポジティブな感覚と❶〜❽のネガティヴな感覚、これらをトータルで差し引きしますと、「プラス」という感じです。ただこれは「トラウマ歩き1年目」の評価であり、2年目以降はまだ評価出来ません。またこれは今現在(2022年8月)の評価です。今後変わる可能性もあります。




次に、「トラウマ歩き1年目」において自分がよく歩いていたルートを確認したいと思います。そのルートは以下の4つになります。



・東京都心ルート

・鉄道沿線ルート(2種類)

・駄菓子屋ルート



ここまでの話をまとめますと、当時の自分は「トラウマ歩き」の最中に、①〜⑥のポジティブな感覚と❶〜❽のネガティヴな感覚、両方を同時に感じていた、という事になります。なんというか凄まじく自己矛盾した状態で上記の4つのルートを歩いていた、という感じです。



『前フリ終わり』



そして、前回の記事では、上記のポジティブな感覚について考えてみました。「トラウマ歩き」の最中にこのようなポジティブな感覚が発生していたとは、このブログを書くまでほとんど忘れていた、という話でした。



さて、「トラウマ歩き1年目」の話に関しては大分整理されてきたな、という感じです。素晴らしい。上記のような状態で、自分は2008年4月から2009年4月までの1年間をトラウマ歩きしていった、という話になります。



そして、2008年4月頃といえば、忘れてならないのは自分が母親とコミュニケーションを取り始めていた、という事です。正確には前年の2007年10月頃から母親とコミュニケーションを取り始めていました。その中で自分は自分の過去のトラウマを母親にひたすら聞かせていったのです。



しかし、この行為は当時の自分にとって三重の意味で気が狂っていました。その理由は以下の3つになります。以前の記事でまとめたものです。



①当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」×1.5倍の憎悪を感じていた。


②そこで喋ろうというのは、「自分のトラウマまみれの31年間」。自分は小、中、高、大学と、人間関係に挫折し続け、鬱を悪化させていった。そんな全くもって思い出したくもないトラウマ全てをよりによって母親に喋るという事。

③ 自分の全てのトラウマを母親に喋って聞かせるという事は、膨大な時間がかかる事も容易に想像出来た。少なく見積もっても2〜3ヶ月はかかる。「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じている人間と膨大な時間を過ごすという事。



このように当時の自分が母親とコミュニケーションをとる事など絶対的にあり得ない状態でした。しかし、当時の自分は病的(×18倍)に被害妄想を悪化しており、近所の犬の鳴き声が原因で、首吊り寸前まで追い詰められていました。そこで自分はノートに自分の気持ちを書き殴り、「首吊り」or「母親と喋る」どちらを選ぶが考えました。そして、最終的には「母親と喋る」を選んだのです。



自分はこのようにして母親とコミュニケーションを取り始めたのですが、この行為は致命的な精神的ストレスを自分にもたらしました。そりゃそうです。当時の自分にとってこの選択肢は三重の意味で狂った選択肢なのですから。ですから自分は母親と喋っている最中に何度ブチ切れたか分かりませんし、母親と何度激しくぶつかったか分かりません。



ここまで書いて思い出したのですが、自分はこの母親とのコミュニケーションで発生した致命的なストレスを「トラウマ歩き」の中で消化していた記憶です。これまでの記事の中で、トラウマ歩きの歩き始めの40分くらいは深夜アニメの感想を思い出していた、という話を書いてきましたが、それ以外にもこの母親に対する凄まじいストレスも思い出して歩いていた記憶です。



そう、母親に対する凄まじいストレスを歩きながら思い出すと、それが消化されていく感覚がありました。他にも当時の自分は妹に対しても致命的なストレスを感じていたのですが、これも歩きながら思い出して、消化していた記憶です。




今回の記事はここで失礼致します。お読み頂きありがとうございました!




にほんブログ村 メンタルヘルスブログ うつ病(鬱病)へ
↑クリックして頂くとランキングアップ&アクセス数アップします。ご協力よろしくお願いします。











PVアクセスランキング にほんブログ村