鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

「尿管結石事件」の原因は、短期的な目線と長期的な目線で全く違う

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 今現在(2022年9月)も色濃く残る妹への嫉妬心② 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、32歳の自分が「トラウマ歩き」に熱中しており、この最中に母親や妹に対するストレスを考え、消化していた、という話でした。そして、当時の自分が抱えていた妹への憎悪の歴史、それを振り返ってみました。「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



「トラウマ歩き」を開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。




ここからは今回の記事の前提となる「前フリ」部分となります。いつもこのブログをお読みの方はスルーして下さい。



『前フリ』


まずはこれまでの記事でまとめた「トラウマ歩き」の最中のポジティブな感覚とネガティヴな感覚を確認したいと思います。



「トラウマ歩きの最中に発生していたポジティブな感情①〜⑥」


「トラウマ歩きの最中のネガティヴな感情❶〜❽」




そして、この①〜⑥のポジティブな感覚と❶〜❽のネガティヴな感覚、これらをトータルで差し引きしますと、「プラス」という感じです。ただこれは「トラウマ歩き1年目」の評価であり、2年目以降はまだ評価出来ません。またこれは今現在(2022年8月)の評価です。今後変わる可能性もあります。




次に、「トラウマ歩き1年目」において自分がよく歩いていたルートを確認したいと思います。そのルートは以下の4つになります。



・東京都心ルート

・鉄道沿線ルート(2種類)

・駄菓子屋ルート



ここまでの話をまとめますと、当時の自分は「トラウマ歩き」の最中に、①〜⑥のポジティブな感覚と❶〜❽のネガティヴな感覚、両方を同時に感じていた、という事になります。なんというか凄まじく自己矛盾した状態で上記の4つのルートを歩いていた、という感じです。



『前フリ終わり』





ここからは前回の記事をそのまま引用したいと思います。現在の自分(2022年8月)が感じる妹への憎悪めいた気持ち、これは20年以上に渡る我が家の激し過ぎるボタンのかけ違いによるものだろう、という話になります。そして、そのボタンのかけ違いの背景には、父親の育った家庭環境が存在している、という話です。



『前回記事からの引用』



なるほど〜。このように「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×3.375倍)程の憎悪を抱いていました。これによって当時の自分は妹の存在を激しく呪っていたのです。そう、何度ノートに「妹死ね!!」と書き殴ったか分かりません。そして、この呪いは今現在現在の自分(2022年8月)の中にも色濃く残っているものであります。



それにしましても、今回妹に関する憎悪についてブログに書いてみて驚いた事があります。それは「トラウマ歩き」の時代の妹への憎悪が両親への憎悪を上回っていた事です。これは驚きました。具体的にそれぞれの憎悪を書きますと以下の通りです。


「トラウマ歩きの時代に家族に感じていた憎悪」


・妹に対して感じていた憎悪→ 「殺しても殺し足りない」(×3.375倍)程

・父親と母親に対して感じていた憎悪→ 「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)


こんな差が生じていたのは驚きでした。まさか妹に感じていた憎悪が、両親に感じていた憎悪を上回っていたとは。



「トラウマ歩き」の時代の自分にとって、両親に対する憎悪は当然のものでした。何故ならこの両親が作った戦争状態の家庭環境によって、自分の人生はぶち壊され、2度殺されるくらいの致命的な心身のダメージを負う事となったのです。



一方妹の方はと言えば、そんな家庭環境を作った事に対する責任は全くありませんでした。何故なら我が家が戦争状態に陥ったのは、自分が小学校3年生、妹が小学校1年生の時です。小学校1年生の妹が家庭環境をコントロール出来るはずがありません。むしろ、妹も自分同様、戦争状態の家庭環境に巻き込まれていった、と言えるでしょう。それは「トラウマ歩き」の時代の自分も頭の片隅では分かっていました。しかし、頭で分かっていても、それが憎悪の減少には全く繋がらなかったのです。



このように両親が戦争状態の家庭環境を作った事で、自分の人生はぶち壊され、2回殺される程の心身のダメージを負う事となったのでした。ですから、「トラウマ歩き」の時代の自分が両親を致命的な憎悪を感じるのは当然の流れでした。ところが、当時の自分は両親だけでなく妹に対しても致命的な憎悪を感じていたのです。妹には家庭環境を戦争状態に悪化させた責任は無いというのに。しかも当時の自分は両親より妹の方により激しい致命的な憎悪を感じていたのです。



ここからは現在の自分(2022年8月)の見解になります。この35年以上続いている激し過ぎるボタンのかけ違い。この全ての責任は父親及び父親の育った家庭環境にあると言って良いでしょう。そして、自分はここ10年に渡って、父親の育った家庭環境を詳しく聞いているのですが、話を聞けば聞く程、父親自身には責任が無かったような印象になっています。全ての責任は、父親の育ってきた家庭環境そのものにあると言っても良さそうです。つまり、この激し過ぎるボタンのかけ違いの全ての責任は、父親の育った家庭環境にあるという事です。



今回の一連の話を通じて、父親の育った家庭環境がどれだけ多くの闇(病み)を作り出してきたのか、その闇の深さを改めて認識出来た気がします。


『引用終わり』


なるほど〜。このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じていた、という事になります。何度も書いていますが、まさか当時の自分が感じていた憎悪が、両親に対するものより妹のに対するものの方がより激しかったとは思いませんでした。これは意外過ぎる展開で、このブログを書いてみての新たな大発見といった印象です。



ただし、こうやって大きい発見が出来たからと言って、今現在(2022年8月)自分が妹に感じている憎悪めいた気持ちがただちに減少される事は無さそうです。ここが難しい所なのですが、論理的にそれを理解出来たとしても、それを感情が理解するのかどうかはまた別次元という感じなのです。


☆ご注意:今回の記事の中には4つの時系列があり、それぞれの時代の自分が出て来ます。4つの時系列は以下の通りです。



①今現在のブログを書いている自分(2022年8月・45歳)

②今から10年以上前の「トラウマ歩き」をしている自分(2008年4月〜・32歳)


③今から18年前の部屋に引きこもり、記憶のサルベージ(言語化)をしている自分(2004年10月〜2005年10月・28歳〜29歳)

④今から19年前の「尿管結石事件」の時の自分(2003年10月頃・27歳)


この4つがなるべく分かりやすいように書いていきますが、ややこしくてすみません。



そう、そもそも自分は28歳の時に行った記憶のサルベージ(言語化)の中ですでに「自分が妹に感じている凄まじい憎悪、もしかしたらこれは筋違いなのでは??」という考えに至っていました。当時の自分はそれまでの人生において、どこにも居場所を作れず、孤独と恐怖でただただ心身が壊れていくだけの人生を送っていました。当時の自分は部屋に引きこもり、その挫折とトラウマしかない人生を全てノートに書いていき、1年間かけてその詳細と因果関係をまとめていきました。その結果出た結論は、「自分が小学校3年生の時に起きた家庭環境が戦争状態に突入した事件、この事件こそが全ての元凶だった。」だったのです。



この結論により、自分が両親に感じる憎悪は増えこそすれ減る事はありませんでした。そりゃそうです。全ての元凶は家庭環境にあったのですから。そして、自分はこの事件において妹にはなんの責任も無い事も認識していたのです。何故なら妹はこの時小学1年生です。小学校1年生の妹が家庭環境をコントロール出来るはずがありません。



しかし、当時の自分はこの結論を頭では理解出来ていましたが、感情的には全く理解出来ませんでした。そう、当時の自分は引きこもりになった時点で、妹に対して「殺したい」程の憎しみを感じていたのですが、この結論が出たからといって、憎しみが減少する事は無かったのです。



ここで、妹に対する憎悪が増大していった経緯を改めて思い出してみたいと思います。その増大の大きなきっかけの一つは「尿管結石事件」があります。尿管結石が発症した原因は、妹との激しい口論にありました。ですから、事件後の自分は妹に対して「殺したい」程の憎しみを感じるようになっていたのです。(事件の詳細はこちら)



しかし、俯瞰的に考えてみますと、この尿管結石事件にはもう一つ別の側面があります。それは当時の自分(27歳)が病的(×6倍)な被害妄想を発症していた、という事です。自分は幼い頃から家庭環境と学校生活における挫折とトラウマの積み重ねが原因で、自己肯定感がどんどんマイナスになっていきました。この原因は、自分の周りに信頼出来る人間関係が家庭内外を含め全く無く、挫折やトラウマを喋れる場所が皆無だったからです。



そして、自己肯定感がマイナスになるという事は逆に自己否定感が増えていくという事です。自分は自分という存在にどんどん自信を無くしていき、自分という存在を自分自身が軽視するようになっていったのです。



そして、高校時代に入るとさらに重大な挫折が続き、さらに自己否定感は増大していきました。これによって自分は自分という存在をますます否定していくようになりました。と同時に「他人もまた自分の事を軽視し、否定し、もしかしたら攻撃してくるかもしれない」という妄想に囚われるようになっていったなです。そこに根拠などありません。妄想が発生したのです。



この高校時代の病的な被害妄想により、自分は夜眠れなくなり、酷い睡眠不足で高校生活を送る事になりました。その結果、鬱を発症し、6つの鬱の諸症状に苦しむ事になりました。(6つの鬱の諸症状の詳細はこちら)



その後自分は自分自身を変えようと荒療治的に大学で空手部に入部しますが、そこでの稽古の厳しさを乗り越えられず、「稽古に殺されてしまう」という被害妄想に日々のたうち回る事となりました。これにより、さらに睡眠が取れなくなり、鬱はさらに3倍に悪化。自己否定感もさらに3倍に増大しました。



その後自分は大学4年生で2つ目の大学に移り、大学生活をやり直します(23歳)。しかし、病的(×6倍)な被害妄想を発症している自分が周りの学生とまともなコミュニケーションを取れるはずがありません。自分はさらに挫折を繰り返し、自己否定感を増大させていきました。



そして、27歳の10月に尿管結石を発症したのです。まずこの尿管結石発症の直接的なきっかけになったものは、当時の自分が発症さていた『病的(×12倍)な被害妄想』です。ではこの『病的(×12倍)な被害妄想』を発症した原因を考えてみたいと思います。そのきっかけを「短期的な目線」で見ると、「妹の出したドア音」です。このドア音が原因で自分は夜眠れない日々が続き、激しく心身を衰弱させていきました。その結果の尿管結石発症です。



しかし、長期的な目線で考えますと、『病的(×12倍)な被害妄想』を発症した原因は、それまでの学校生活における数々の挫折により、自己否定感が凄まじく増大していた事にあるのです。そして、その根本的な原因は小学校3年生の時に起こった家庭環境の戦争状態化にあります。こう考えると、妹には全く責任はありません。何故ならこの時の妹は小学校1年生で、家庭環境をコントロール出来る立場ではないからです。



このように「尿管結石事件」の原因を考えてみますと、「短期的な目線」と「長期的な目線」では原因が全く異なっているのです。これがこの問題のややこしい所です。「長期的な目線」で見ると妹には責任が無い事は理論的には分かっています。しかし、「短期的な目線」で見ると妹に重大な原因があるように感じてしまい、「トラウマ歩き」の頃の自分は、「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じていたのです。



ここら辺の目線の違いによる解釈の違いが、今でも現在の自分(2022年8月)の心の中にかなり残っています。そして、今現在も未だに妹に対する憎悪めいた気持ちが残っている原因になっているように思います。




今回の記事はここで失礼致します。お読み頂きありがとうございました!




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