鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

「深夜2時近辺の戦い」をフローチャートにまとめてみる②(2008年5月・32歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 「深夜2時近辺の戦い」をフローチャートにまとめてみる(2008年5月・32歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、32歳の自分が「トラウマ歩き」に熱中しており、この最中に母親や妹に対する憎悪を考え、それを消化していた、という話でした。


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「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



「トラウマ歩き」を開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。




まずは今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。


「トラウマ歩きの前フリ」




ここからは前回の記事をそのまま引用したいと思います。「トラウマ歩き」の頃の自分が、両親より妹の方をより憎んでいた、という話になります。加えて、当時の妹への憎悪を象徴するエピソード「深夜2時近辺の戦い」、これについてフローチャートにまとめてみました。



『前回記事からの引用』



このようにトラウマ歩きの頃の自分は、「深夜2時近辺の戦い」において、毎夜毎夜断末魔の叫びをあげていた、という事になります。ではここからは、この「深夜2時近辺の戦い」の話をフローチャートでまとめてみたいと思います。



まず初めに、この戦いが発生したきっかけをまとめます。このきっかけは、2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」です。この事件により、自分は妹に対して致命的な「差」を感じるようになったのです。また、この事件以前にも様々な「差」が発生しており、その「差」の蓄積も重要でした。ではこの件りをまとめてみます。



2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して以下の致命的な「差」を感じる事となった。


「母親と喋り始める事件」における自分と妹との致命的な差


・自分は今回の引っ越しに際し、まず東○荘事件によって致命的な精神的苦痛を受け、さらに妹とのコミュニケーションを強制され、首吊り装置を設置する所まで精神的に追い詰められる事となった。


・一方の妹の方はと言えば、今回の引っ越しに際し、自分程精神的に追い詰められているとは到底思えなかった。何故なら妹は両親と良好な関係をずっと保ち続けていた。



そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は以下の事件それぞれで妹に対して致命的な「差」を感じていた。


⑴尿管結石事件における差

・当時の自分は高校時代以降、異性どころか同性とのコミュニケーションすら皆無の人生を送ってきていた。一方妹の方はというと、常に同性の趣味友達に恵まれていたし、彼氏もいた。当時の自分にとって、この同性・異性関係における「差」は、かなりの自己否定感を生じさせるものだった。そして、このかなりの自己否定感が病的(×6倍)な被害妄想を発生させ、これが尿管結石発症の引き金となったのであった。


⑵「引っ越し及び東○荘事件」における差

・自分は今回の引っ越しに際し、まず東○荘事件によって致命的な精神的苦痛を受け、さらに妹とのコミュニケーションを強制され、首吊り装置を設置する所まで精神的に追い詰められる事となった。


・一方の妹の方はと言えば、今回の引っ越しに際し、自分程精神的に追い詰められているとは到底思えなかった。何故なら妹は両親と良好な関係をずっと保ち続けていた。



上記の致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。



一方この時の自分が両親に対して感じていた憎悪は「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程だった。これは妹に対する憎悪に比べると少ない。つまり当時の自分にとって、家庭内において最も憎い人間は妹だったという事になる。



このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。



いいですね!次回の記事では、「深夜2時近辺の戦い」についてまとめてみようと思います。


『引用終わり』



では今回の記事では、上記のフローチャートの続きを考えていきます。



3年前に発生した「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、この問題は当時の自分が家庭内外で完全孤立状態に陥っていた事から始まっていた。当時の自分はこの頃から家族3人に対して「殺したい」程の憎しみを感じており、コミュニケーションが不可能な状態に陥っていた。



これにより引きこもりの自分は、家族から完全孤立状態に陥ったのだった。そして、この状態は当時の自分にとって本当に理不尽なものだった。自分としては絶対に正当な憎悪を家族3人に感じているのにも関わらず、家庭内においては1vs3の孤立無援状態なのだから。これは家庭内における圧倒的なマイノリティ状態。



さらに当時の自分は社会からも完全孤立しており、頼れる人間は家庭内外にただ一人もいなかった。これにより、当時の自分の精神状態は圧倒的に不安定になった。自分はその不安定さで何度も気が狂いそうになった。特に家庭内における圧倒的なマイノリティ状態は本当に発狂ものだった。



故に当時の自分は、深夜2時頃に妹が寝静まると本当に安堵していた。家族3人が全員寝てしまえば、家庭内における圧倒的なマイノリティ感覚は少し薄らぎ、自分の精神は束の間の休息を得られた。当時の自分は深夜2時以降になると、妹が寝付いた事を確認する為に、部屋の壁に耳を当て、隣の妹の部屋の物音を探ったりもしていた。



このように「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題 が3年前の引きこもり時期に発生していたのだが、その後の引っ越しを経て、この問題は一旦は沈静化していた。



しかし、2007年10月の「母親と喋り始める事件」によって、この問題は再び激しく燃え上がる事となった。この事件によってさらに致命的な「妹との差」が発生し、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていた。この憎悪は当時の自分が両親に対して感じていた憎悪(「殺しても殺し足りない」(×1.5倍))よりはさらに激しいもの。これによって、自分は深夜2時以降に妹が起きている事が、絶対に許せなかった。



と同時に当時の自分は家族3人に対して、このような被害妄想も発症していた。


「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×27倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)



この被害妄想により、ますます深夜2時以降の静寂が自分にとっての聖域になっていた。自分は深夜2時以降に家族3人が寝静まるのを確認すると、上記の被害妄想が和らぎ、心の安息を得られたのだった。



このように当時の自分は深夜2時以降に妹が寝付くかどうかに病的(×27倍)に敏感になっていた。自分の「生き死に」がかかってるくらいの超重要事項になっていた。故に「母親と喋り始める事件」の後、自分は妹に対して直接「深夜2時以降ドア音含めた物音を立てるんじゃねぇ!!!」とかなり強く言った記憶がある。これに対して妹はかなり不満気な様子だったが、これを了承した。




今回はここまでにしたいと思います。




今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!



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