鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

冬のトラウマ歩き(雨の日ver) (2008年12月・32歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 冬のトラウマ歩きは防寒着の調整が死ぬ程面倒臭かった(2008年12月・32歳) 」の続きを書かせて頂きます。




前回の記事は、32歳の自分が「トラウマ歩き」に熱中しており、その最中に病的な冷え性に苦しんでいた、という話でした。また、同時に「深夜2時近辺の戦い」にも苦しんでいた、という話でした。


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「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



「トラウマ歩き」を開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。



まずは今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。


「トラウマ歩きの前フリ」





ここからは最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。



「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」


2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。



そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。



このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。



この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。



それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。



と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。



このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。



このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。



ここからは前回の記事を引用したいと思います。トラウマ歩き1年目の冬の話を書いています。当時の自分は、病的(×27倍)な冷え性を発症しており、その着替えの為に何度もトイレを借りなければならなかった、という話になります。



『前回記事からの引用』


このように当時の自分は病的(×27倍)な冷え性を発症しており、それによって冬のトラウマ歩きが更なる苦行になっていた、という話になります。そう、冬のトラウマ歩きを始める際、自分は防寒着として以下の服を着ていました。



・股引3枚

・股引の上に「貼るホッカイロ」各足2枚ずつ

・フリースズボン1枚

・ジャージ3枚

・太いGパン

・防風用のレインコート2枚(この2枚は原付から降りたら脱いでいた)


(場所は神奈川で季節は冬・上半身にも上記と同等の服の量が必要)


自分はこのような超着膨れ状態でトラウマ歩きを始めるのですが、歩き出して10分もすると、身体が熱くなり、汗が出て来てしまいます。こうなると汗が冷えて身体が冷えますから、すぐにでも上記の防寒着を脱がねばなりません。自分は以下のトイレの中から近い場所にあるトイレを探し、そこに向かいます。


「コンビニ」「パチンコ屋」「スーパー」「公衆トイレ」


これらのお店に着くと自分はトイレを借り、そこで上から順番に防寒着を脱いでいき、一番下の股引を脱ぎます。何故股引なのかと言いますと、一番下の股引が一番肌に近く、そこに熱がこもりがちだったのです。そして、自分は股引を脱ぎ、再び防寒着を着直し、トイレから出て、再び歩き出します。



ここからが厄介なのですが、股引を一枚脱いだにも関わらず、結構な割合でまだ暑い場合があったのです。一体何枚脱げば適当なのかは、脱いで再び歩き出してみないと分からないのです。こうなりますと、自分は5分もしないうちに先程のトイレに逆戻りです。自分はまた防寒着を脱ぎ直し、そして、さらに股引を1枚脱ぎます。そこからまた他の防寒着を着直しです。脱ぎ着が2回目となると、消耗感もキツく、時間を浪費している感もあり、けっこうなストレス状態になっていました。



こうして自分は2回目の脱ぎ着を終え、3たびトラウマ歩きに復帰するのですが、滅多に無い事ですが、それでもまだ暑い時もありました。こうなると3回目の脱ぎ着の試行です。このように防寒着の脱ぎ着だけでも30分かかる時もあり、このような時の自分の心の中は消耗感と時間の浪費感で気が狂いそうになっていました。



これまで書いてきた脱ぎ着の試行パターンは「脱いだけどまだ暑い」ですが、もちろん「脱ぎ過ぎて寒くなった」パターンもありました。例えば股引を思い切って2枚脱いだものの、いざ歩き出してみると、肌寒く、再びトイレに戻るパターンです。このパターンもよくあり、本当に面倒臭かった記憶です。



このように当時の自分は病的(×27倍)な冷え性を発症していましたから、冬のトラウマ歩きの中での防寒着の調整が本当に困難でした。先程書きましたように、歩き始めの時間帯の調整が2〜3回ありましたし、さらにそこからも20分くらいおきにトイレを借りて、防寒着の脱ぎ着をせねばならなかったのです。トラウマ歩きは1回の平均時間が4時間でしたが、平均6〜7回はトイレを借りて、防寒着を調整していましたからね。



そして、以前の記事に書きました通り、トイレを借りる場所によっては、その場所ならではのストレスも更に発生し、それも当時の自分を苦しめました。以下トイレの場所ごとの特徴になります。


・コンビニのトイレ:最も使う頻度が高かったトイレだが、トイレを借りる為には店員さんとコミュニケーションを取らなければならず、それは病的(×27倍)な被害妄想を発症している自分にとって、決死の覚悟が必要な行為だった。また、トイレを借りた後は何か買い物をし、店員さんにお礼を言った方が良い事は分かってはいたが、毎回モノを買う程の経済的余裕はなく、また店員さんにお礼を言うコミュニケーションですら、当時の自分には厳し過ぎる苦行だった。


よって、自分は買い物も何もせず、お礼を言う事もなくコンビニを出る事もあった。しかし、これはこれでコンビニを出た後自分は凄まじい被害妄想に襲われてしまう。「あの店員さんは自分の事を酷く悪く思ったに違いない。今度行ったら何か酷い嫌がらせをしてくるに違いない。」、と。自分はコンビニでトイレを借りるたびにこのような被害妄想と戦わねばならなかった。


・パチンコ屋のトイレ:コンビニのトイレに比べるとかなり快適だった。店員さんに声を掛ける必要が無いし、お店によってはトイレの中が高級ホテルのように綺麗だった。過去にパチンコで稼いでいた自分にとって、パチンコ屋は心安らぐホームグラウンドであり、それによるリラックス感もかなりあった。


・公衆トイレ:臭くて汚いトイレが多く、使う時は気が重かった。中には臭くて汚くて暗くて狭いトイレもあり、そのような和式トイレで防寒着を脱ぎ着する際は、かなりのストレス状態に陥っていた。また、トラウマ歩きは夜7時〜11時くらいの間に行う事が多く、この時間に人気の無い公衆トイレを使うのは、防犯的な面で怖い所もあった。ただし、パチンコ屋のトイレと同様、店員さんに声を掛ける必要が無いのは気が楽な部分であった。


・スーパーのトイレ:トイレは普通に綺麗だし、店員さんに声を掛ける必要もなく、使い易かった。




いいですね!冬のトラウマ歩きの辛さがよくまとまりました!


『引用終わり』



このように当時の自分は冬のトラウマ歩きの中で、病的(×27倍)な冷え性七転八倒していた、という話になります。



ではここでこれまで書いてきた冬のトラウマの歩きをまとめた上で、「トラウマ歩きの最中のネガティブな感情❾」として付け加えたいと思います。ただまとめると言いましても、新たな文は書きません。前回の記事の内容(上記の引用です。)がいい感じでまとまっていますので、内容はそのままにして、語尾だけ変えたいと思います。


「トラウマ歩きの最中のネガティブな感情❾」


当時の自分は病的(×27倍)な冷え性を発症しており、それによって冬のトラウマ歩きが更なる苦行になっていた。冬のトラウマ歩きを始める際、自分は防寒着として以下の服を着ていた。



・股引3枚

・股引の上に「貼るホッカイロ」各足2枚ずつ

・フリースズボン1枚

・ジャージ3枚

・太いGパン

・防風用のレインコート2枚(この2枚は原付から降りたら脱いでいた)


(場所は神奈川で季節は冬・上半身にも上記と同等の服の量が必要)


自分はこのような超着膨れ状態でトラウマ歩きを始めるのだが、歩き出して10分もすると、身体が熱くなり、汗が出て来てしまう。こうなると汗が冷えて身体が冷えるので、すぐにでも上記の防寒着を脱がねばならない。自分は以下のトイレの中から近い場所にあるトイレを探し、そこに向かった。


「コンビニ」「パチンコ屋」「スーパー」「公衆トイレ」


これらのお店に着くと自分はトイレを借り、そこで上から順番に防寒着を脱いでいき、一番下の股引を脱いだ。何故股引なのかと言うと、一番下の股引が一番肌に近く、そこに熱がこもりがちだったから。そして、自分は股引を脱ぎ、再び防寒着を着直し、トイレから出て、再び歩き出す。



ここからが厄介だったのが、一枚脱いでも結構な割合でまだ暑い場合があったのだ。一体何枚脱げば体温的に適当なのかは、脱いで再び歩き出してみないと全く分からなかった。こうなってしまうと、自分は1分もしないうちに先程のトイレに逆戻り。自分はまた防寒着を脱ぎ直し、そして、さらに股引を1枚脱が事に。そこからまた他の防寒着を着直し。このように脱ぎ着が2回目となると、体力的な消耗感がキツく、時間を浪費している感もあり、けっこうなストレス状態に陥っていた。



こうして自分は2回目の脱ぎ着を終え、3たびトラウマ歩きに復帰するのだが、滅多に無い事だったが、それでもまだ暑い時もあった。こうなると3回目の脱ぎ着の試行をせねばならない。このように防寒着の脱ぎ着が3回もかかるとそれだけで30分かかる時もあり、このような時の自分の心の中は、消耗感と時間の浪費感で気が狂いそうになっていた。



これまで書いてきた脱ぎ着の試行パターンは「脱いだけどまだ暑い」だが、もちろん「脱ぎ過ぎて寒くなった」パターンもあった。例えば股引を思い切って2枚脱いだものの、いざ歩き出してみると、肌寒く、再びトイレに戻るパターン。このパターンもよくあり、本当に面倒臭かった記憶。



このように当時の自分は病的(×27倍)な冷え性を発症していたので、冬のトラウマ歩きの中での防寒着の調整が本当に困難だった。先程書いたように、まず歩き始めの時間帯に調整が2〜3回せねばならなかったし、さらにそこからも20分くらいおきにトイレを借りて、防寒着の脱ぎ着をせねばならなかった。トラウマ歩きは1回の平均歩き時間が4時間だったが、その中で平均6〜7回はトイレを借りて、防寒着を調整していた印象。



加えて、トイレを借りる場所によっては、その場所ならではのストレスも更に発生し、それも当時の自分を苦しめたのだった。トイレの場所ごとの特徴は以下の通り。


・コンビニのトイレ:最も使う頻度が高かったトイレだが、トイレを借りる為には店員さんとコミュニケーションを取らなければならず、それは病的(×27倍)な被害妄想を発症している自分にとって、決死の覚悟が必要な行為だった。また、トイレを借りた後は何か買い物をし、店員さんにお礼を言った方が良い事は分かってはいたが、毎回モノを買う程の経済的余裕はなく、また店員さんにお礼を言うコミュニケーションですら、当時の自分には厳し過ぎる苦行だった。


よって、自分は買い物も何もせず、お礼を言う事もなくコンビニを出る事もあった。しかし、これはこれでコンビニを出た後自分は凄まじい被害妄想に襲われてしまう。「あの店員さんは自分の事を酷く悪く思ったに違いない。今度行ったら何か酷い嫌がらせをしてくるに違いない。」、と。自分はコンビニでトイレを借りるたびにこのような被害妄想と戦わねばならなかった。


・パチンコ屋のトイレ:コンビニのトイレに比べるとかなり快適だった。店員さんに声を掛ける必要が無いし、お店によってはトイレの中が高級ホテルのように綺麗だった。過去にパチンコで稼いでいた自分にとって、パチンコ屋は心安らぐホームグラウンドであり、それによるリラックス感もかなりあった。


・公衆トイレ:臭くて汚いトイレが多く、使う時は気が重かった。中には臭くて汚くて暗くて狭いトイレもあり、そのような和式トイレで防寒着を脱ぎ着する際は、かなりのストレス状態に陥っていた。また、トラウマ歩きは夜7時〜11時くらいの間に行う事が多く、この時間に人気の無い公衆トイレを使うのは、防犯的な面で怖い所もあった。ただし、パチンコ屋のトイレと同様、店員さんに声を掛ける必要が無いのは気が楽な部分であった。


・スーパーのトイレ:トイレは普通に綺麗だし、店員さんに声を掛ける必要もなく、使い易かった。



いいですね!よくまとまりました。現在の自分(2022年9月)は14年ぶりくらいに冬のトラウマ歩きの記憶を思い出して言語化したのですが、こうやって言語化してみますと、本当に当時はよくやっていたなぁ、と思います。14年ぶりに当時の記憶を思い出して、こうやって書いてみますと、当時の気が狂いそうな面倒臭さが鮮明に脳内に蘇り、現在の自分も苦しくなりましたからね。



そう、このトラウマ歩きという行為は、ただでさえネガティヴな感情❶〜❽が発生し、致命的に辛い行為でした。( 「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情❶〜❽ )しかし、冬にはさらなる辛さ❾が発生していた、という事になります。



ここで❶〜❼の中から❻をピックアップしたいと思います。


❻トラウマ歩きは依存性がかなり高い行為だったので、自分は雨の日にもこの行為を行っていた。雨の日に外を歩き続けて1時間も経つと靴の中に雨水が侵入してきて、靴の中はぐちゃぐちゃ。靴の中が冷たいやら気持ち悪いやらで最悪の気分。しかし、自分はそんな日でも「トラウマ歩き」を平均4時間続けた。


また、時には台風の日でも「トラウマ歩き」をしていた。こんな日は傘を差していても雨は防ぎきれず、靴の中だけでなく、服の中までびしょ濡れ。自分は絶望的な気分だった。「俺こんな日に何やってるんだよ、、」、と。しかし、自分はそれでもトラウマを思い出しながら歩き続けた。それ程の依存性の高さが「トラウマ歩き」にはあった。



このように❻は雨の日や台風の日のトラウマ歩きの辛さとなっています。そして、当然「冬のトラウマ歩き」を「雨」の中行う事もありました。このような時、自分の心の中のストレスは、ピークに達していた記憶です。ただでさえ冬のトラウマ歩きは致命的に面倒なのに、それを雨の中行うのですから。



ですから当時の自分がトラウマ歩きをしている時、天気模様にも病的(×27倍)に敏感になっていました。雲行きが怪しい時は、10分おきくらいにケータイで天気予報を見ていましたからね。そして、雲行きが怪しくなってくればくるほど、自分のストレスも上がっていき、雨が降り出すとそれはピークを迎えるのです。自分は❻のストレスで頭がおかしくなりそうでした。しかし、それでもトラウマ歩きを続行したのです。



ですから、冬のトラウマの最中に雨が降り出しますと最悪の最悪です。ただでさえ防寒着の脱ぎ着が致命的に面倒なのに、さらにここに雨のストレス❻が加わるからです。



当時の記憶で印象深いシーンがあります。このように冬のトラウマ歩きの最中に雨が降り出すと、自分は用意していた折り畳み傘を差して、トラウマ歩きを続行しました。そして、そのような状態で防寒着の脱ぎ着の為にお店のトイレに出入りせねばなりません。そうしますと、お店に入るたびに傘を閉じたり、開けたりせねばなりませんし、トイレに入る時も傘を持って中に入ります。この傘を持っている事による余計動作一つ一つ、これが1日の中で5〜6回積み重なっていくとかなりのストレスになっていきました。



簡単に言いますと、あの時の自分は傘が超邪魔だったのです。ただでさえ、防寒着の脱ぎ着を繰り返すだけでも、気が狂いそうに辛いのに、さらにそこに❻のストレスが加わり、さらにさらに傘による余計な動作が加わるのですから。そうなりますと、そこで発生する消耗感は致命的なものがあったのでした。




今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!



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