皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 「父親に自分のトラウマを全て喋る」という選択肢(2009年7月頃・33歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、32歳の自分が「トラウマ歩き」に熱中しており、その最中に病的な冷え性に苦しんでいた、という話でした。また、それと同時に「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」にものたうち回っていた、という話でした。自分がこれらの心身の苦痛に苦しんでいた時期は、トラウマ歩きの2年目になります。
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「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。
トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。
では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。
次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。
「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」
2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。
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そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。
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このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。
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この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。
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それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。
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と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。
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このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。
このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。
また、トラウマ歩き2年目の2008年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。
ここからは前回の記事を引用したいと思います。トラウマ歩き2年目の秋頃、自分が「父親に自分の人生を喋ってみる」という選択肢を思い付いた、という話になります。
『前回記事からの引用』
このように当時の自分は「父親に自分の人生を喋ってみる」という選択肢に少しずつ傾いていきました。
とは言いましても、この選択肢を選ぶ事は容易な事ではありませんでした。何故なら当時の自分は父親に対して「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていたのです。こんな人間とコミュニケーションを取るという事は、三重の意味で狂った選択肢でした。
どうしてこの選択肢が「三重の意味で狂った選択肢」だったのかを、以前の記事から引用して説明したいと思います。以下の記事は、2年前に自分が母親とのコミュニケーションを再開させる際に感じていた苦悩です。当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていました。ですから、母親とのコミュニケーションを再開させるという選択肢は三重の意味で気が狂った選択肢だったのです。
『過去記事からの引用』
これは当時の自分からしたら三重の意味であり得ない選択肢でした。母親とコミュニケーションをとる事自体があり得ませんし、さらにそこで自分のトラウマまみれの31年間を喋ろうと言うのです。自分は小、中、高、大学と、人間関係に挫折し続け、鬱を悪化させていったのですが、その思い出したくもない挫折全てを母親にぶち撒けようというのです。
また、自分の全てのトラウマを母親に喋って聞かせるという事は、膨大な時間がかかる事も容易に想像出来ました。「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じている人間と膨大な時間を過ごすのです。こんな事は三重の意味で気が狂っている選択肢でした。
『引用終わり』
このように2年前の自分にとって、「母親とのコミュニケーションを再開させる」という選択肢は、三重の意味で気が狂った選択肢だったのです。そして、当時の自分が父親、母親、それぞれに感じていた憎悪は「=」です。
ですから、「父親とのコミュニケーションを再開させる。」という選択肢もまた三重の意味で狂った選択肢だったのです。
話は2年前に戻ります。2年前の自分はその狂った選択肢「母親とのコミュニケーション再開」を首吊りを覚悟しつつ、選びました。そして、本当にゆっくりとですが、自分と母親との関係は日常化していったのです。血みどろの2年間を経て、自分は母親とのコミュニケーションにポジティブなものを感じるようになっていました。
すると、今度は自分の中に「父親とのコミュニケーションを再開する」という選択肢が生まれたのでした。しかし、先程説明しましたように、この選択肢もまた三重の意味で狂っていました。ですから、当時の自分はそう簡単にこの選択肢を選べません。
しかし、当時の自分はこの2年間での母親とのコミュニケーションに手応えめいたものを感じていました。確かにこの2年の間、母親との間には血みどろの戦いが幾度も繰り返されました。しかし、それらを幾度も乗り越え、母親とのコミュニケーションが日常化していたからです。自分は母親とのコミュニケーションにポジティブなものを感じるようになっていました。
自分は「父親とのコミュニケーションの再開」に徐々に傾いていきました。確かにこの選択肢は相変わらず三重の意味で狂ってはいました。しかし、母親とのコミュニケーションが日常化した今、この選択肢を選ぶ際の精神的苦痛は以前ほど酷くは無いように思えてきたのです。
そう、2年前に母親とのコミュニケーションを再開する際、自分は「首吊り」を覚悟せねば、それを実行する事は出来ませんでした。しかし、今回の選択(「父親とのコミュニケーションの再開」)にはそこまでの覚悟は必要無いような気がしてきたのです。
そう、自分が2年前に母親とのコミュニケーションを再開した際、自分は家族内で完全孤立状態に陥っていました。当時の自分は両親と妹、それぞれに「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていたからです。しかし、あれから2年経ち、少なくとも自分は家庭内における完全孤立状態からは脱していました。自分はこの2年の間に母親とのコミュニケーションを日常化させていました。
ですから、この時の自分は、父親とのコミュニケーションを再開させるに当たり、「首吊りの覚悟」まではしなくて済みそうな印象を持ちました。そう、この先父親とのコミュニケーションを再開し、精神的苦痛が発生した時には、その話しを母親に喋れば、その苦痛は緩和されるように思えたのです。これは当時の自分にとってかなりポジティブな変化だったと思います。
そう、2年前に自分が母親とのコミュニケーションの再開させた際、自分は家庭内で完全孤立状態に陥っていました。ですから、そこで発生する致命的な精神的苦痛を一人で背負わざるを得なかったのです。自分はその精神的苦痛を誰にも喋る事が出来ませんでした。その結果自分はさらに鬱を1.5倍悪化させてしまったのでした。
しかし、今回は2年前と状況が違います。自分は家庭内での完全孤立状態を脱していました。ですから、2年前と同じ三重の意味での狂った選択肢を選ぶにしても、そこで受ける精神的苦痛は2年前より少ない事が予想出来ました。今回は「首吊り」までの覚悟は必要無いように思えたのです。
自分は「父親に自分の人生を喋る」という選択肢にいよいよ傾いていったのでした。
『引用終わり』
このように当時の自分は、「父親に自分の人生を喋る」という選択肢に傾いて行きました。そして、自分は母親にこの選択肢の実行を悩んでいる事を相談しました。すると具体的な言葉は覚えていないのですが、母親からはポジティブなリアクションが返ってきた記憶です。自分はこの選択肢の実行を決断しました。
2009年の秋頃、自分は父親とコミュニケーションを取る事となりました。自分が父親とまともに喋るのは、2003年秋の「尿管結石事件」以来です。つまり6年ぶりのコミュニケーションでした。しかし、コミュニケーションと言っても自分は父親と対話する気には一切なれませんでした。自分は6年前の「尿管結石事件」において、父親から血も凍るような暴言を投げつけられたからです。
また、「尿管結石事件」以前から自分は父親とのコミュニケーションに凄まじい無力感を感じていました。6〜9年前、自分と父親はたまにご飯を食べに行く関係性ではありました。そして、この頃の自分は2つ目の大学生活やバイトにおいて、人間関係が全く作れず、その苦しさにのたうち回っていました。ですから、この頃の自分はご飯の時に父親にその辛さを喋ったのですが、父親からは何の実のあるリアクションも返ってこなかったのです。
一方そんな父親が嬉々として喋る場面もあったりもしました。しかし、それは「ユダヤ人の陰謀論」だの「気功」だのと言った、オカルト話です。この頃の自分はそんな身のない話を嬉々として喋る父親にかなりげんなりさせられていました。
ですから、この頃の自分が父親に自分の苦しみを話しても、それはまるで壁に一人で喋っているようなものでした。そこにあったのは凄まじい「虚無」だけでした。自分は父親とのコミュニケーションを諦めていき、父親との接触は無くなりました。その2〜3ヶ月後に起こったのが「尿管結石事件」です。この事件で自分は父親から血も凍るような暴言を投げつけられる事になりました。
それから6年が経ち、 自分は父親とのコミュニケーションの再開を思い付きました。しかし、自分が6年前の絶望を忘れた訳ではありません。父親から人間的なリアクションを期待する事など出来ません。どうせ返ってくるのは現実離れした頓珍漢なリアクションだけですから。
そして、「尿管結石事件」以前の自分は父親に対して憎しみは感じていませんでした。しかし、事件から6年が経ち、自分は父親に対して「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じるに至っていました。この6年の間に「尿管結石事件」、「引っ越し事件」、「ぎっくり腰事件」、「母親と喋り始める事件」と、父親に対する憎悪が倍々ゲームで増大していったからです。こんな精神状態で、父親が頓珍漢なリアクションをしてきたら、自分は殺意でブチ切れ、暴力衝動でどんな行動に出るか分かりません。
そこで、自分は父親とのコミュニケーションを再開させるにあたり、父親に一つの注文を付ける事にしました。それは「自分が話をしている際に、一切のリアクションをするな」です。自分がただただ自分の過去を喋っていくので、それを父親はただただ黙って聞け、と。
そう、自分は母親に自分のトラウマを喋っていく際、母親からの暖かいリアクションを期待していました。「大変だったね」、「済まなかったね」というリアクションを期待していたのです。しかし、実際にはそれらのリアクションは皆無でした。
そして、今回の場合、自分は鼻からそういうリアクションを期待していなかった、という事になります。それを期待するのは無駄であると、6〜9年前の経験から知っていたのです。とにかく父親の空気の読めなさは折り紙付きです。それどころか、「尿管結石事件」のような致命的な暴言を吐く恐れすらありました。ですから、自分は父親からのリアクションを一切禁止したのです。
自分はこの注文を母親を通じて、父親にしました。そして、父親からはそれで良いとの返答がありました。これで条件は整いました。自分は6年ぶりに父親と接触する事になったのでした。
今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!
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