鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

母親の人生はイメージしていたものより、格段に明るいものだった(2009年10月頃・33歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 母親の人生を聞いていった話(2009年10月頃・33歳) 」の続きを書かせて頂きます。


前回の記事は、32歳の自分が「トラウマ歩き」に熱中しており、その最中に病的な冷え性に苦しんでいた、という話でした。また、それと同時に「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」にものたうち回っていた、という話でした。自分がこれらの心身の苦痛に苦しんでいた時期は、トラウマ歩きの2年目になります。


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「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。



では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。


「トラウマ歩きの前フリ」



次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。



「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」


2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。



そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。



このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。



この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。



それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。



と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。



このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。



このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。




また、トラウマ歩き2年目の2008年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。



ここからは前回の記事を引用したいと思います。トラウマ歩き2年目の秋頃、自分が「父親に自分の人生を喋ってみる」という選択肢を思い付き、それを実行した、という話になります。また、自分が両親とのコミュニケーションを再開させた経緯を改めて振り返ってみました。



『前回記事からの引用』



このように当時の自分は父親に過去のトラウマを一通り喋り尽くしたのでした。この時期は2010年の春頃って感じです。トラウマ歩きが3年目に入る頃ですね。


さて、このような感じでトラウマ歩き2年目の秋から自分は父親と接触し、それは3年目の春頃に終わった、という事になります。いや〜、よくここまで書き終えました。このトラウマ歩きの時期は、自分が両親とのコミュニケーションを再開させて時期と重なっています。自分はトラウマ歩き開始の半年前に母親とコミュニケーションをとり始めました。そして、トラウマ歩き2年目の秋からは父親と接触し始めた、という事になります。



そう、振り返ってみますと、トラウマ歩き以前の自分は、両親それぞれに対して「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていました。これは両親とのコミュニケーションなど絶対に不可能な状態です。



ここからは自分が両親とのコミュニケーションをどのように再開させていったのか、改めて振り返ってみたいと思います。


2007年10月頃、斜め向かいの家が犬を飼い始めたのですが、これにより自分の精神は犬の幻聴が聞こえる所まで追い詰められる事となりました。その結果、「母親とのコミュニケーション再開」or「首吊り」という二択に追い込まれ、自分は母親とのコミュニケーションを8年ぶりくらいに再開する事となったのです。



それは血みどろの戦いの始まりでした。自分は母親とのコミュニケーションの最中、母親に対する「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を我慢する事が出来ませんでした。自分は幾度となく母親に激しい言葉をぶつけましたし、母親もそれに対して激しく言い返してきたのです。時には自分が激昂して、近くにあった机を思い切り蹴る事もありました。



そんな激しいぶつかり合いを何度も繰り返しつつも、自分は母親に対して自分の過去のトラウマをひたすら喋っていきました。しかし、それに対する母親からのリアクションはゼロでした。自分が期待したような「大変だったね」や「申し訳なかった」などの言葉は一切ありませんでしたし、相槌さえありません。しかし、自分はそれでもラジオの一人喋りのようにひたすら自分のトラウマを喋って行きました。



喋り始めの当初は1日5〜6時間喋り続けた事もありました。その後は1回平均30〜40分の一人喋りを週1〜2回繰り返しました。そして、開始から3〜4ヶ月が過ぎる頃には、自分は一通り自分のトラウマを喋り終えていました。しかし、自分は自分のトラウマが母親に伝わったという実感が一切持てませんでした。それはそうでしょう。母親から温かいリアクションは一切ありませんでしたし、相槌すら無かったのですから。



その後諦め切れない自分は、もう1度母親に対して自分のトラウマを最初から喋り始めました。今回は、トラウマ歩きの中で事前に喋る内容を組み立ててからのチャレンジです。前回と同様、自分は1回平均30〜40分の一人喋りを週1〜2回繰り返しました。そして、開始から3〜4ヶ月が過ぎる頃には、自分は一通り自分のトラウマを喋り終えていました。



しかし、今回も自分のトラウマが母親に伝わったという実感は一切持てませんでした。相変わらず、母親から温かいリアクションは一切ありませんでしたし、相槌すら無かったからです。自分はかなりの虚しさと悲しさを覚えました。


ところが、その後自分の中に劇的な変化が訪れました。自分は母親がどのような人生を送ってきたのか、猛烈に興味が湧いてきたのです。そこで、自分は母親の人生を詳細に聞き始めました。母親の生い立ちから始まり、家庭環境、学生時代、大学時代、社会人時代、結婚後、の話です。すると、そこには当時の自分が全く予想だにしなかった人生が広がっていたのでした。


『引用終わり』


このように当時の自分は母親の人生を聞き始めました。するとそこには思いがけない人生が繰り広げられていたのです。母親の人生は自分がイメージしていたものより、格段に明るいものだったのでした。



一旦話を自分が母親の人生を聞く前に巻き戻したいと思います。自分が母親の人生を聞く前、自分は母親に対してこのようなイメージを持っていました。


「自分は生まれてこの方母親の暗い顔しか見た事がない。小学校時代の母親は父親と激しい喧嘩を日々繰り返し、「離婚したい、離婚したい」と泣いていた。また、それ以降も両親の間の喧嘩は激化する一方で、母親の性格もますます暗くなっていった。という事は母親という人間は、生まれてからずっと暗い人間だったのだろう。」



しかし、実際に母親の人生を聞いてみると、その印象は180度変わりました。母親の育った家庭環境はとても明るく暖かいものでしたし、母親の子供時代もとても明るく牧歌的なものだったのです。これは自分の子供時代がひたすら暗く悲しいものだった事に比べると、180度真逆のものでした。自分は驚きましたし、母親の子供時代に嫉妬もしました。「なんで母親の子供時代はこんなに明るいのに、自分の子供時代はこんなに陰惨なのだろう」、と。



さらに自分は母親の学生時代、大学時代、社会人時代の話も詳細に聞いて行きました。これらの時代の母親は子供時代と比べると落ち着いていましたが、そこには闇の気配などまるでありませんでした。自分はここまで聞いてさらに驚きました。「なんで自分が知っている母親はあんなに暗かった訳??」、と。



話は先に飛ぶのですが、実はそれから4年後、自分は妹にも自分のトラウマを全て喋り、さらに妹の人生も聞いていきました。その中で自分はこの母親の話を妹にしました。すると、妹もこの凄まじい変化を不思議がっていました。自分達は考えました。「なんで我々が知っている母親はあんなに暗い人だったのだろう。我々が知っている暗い母親と、子供時代、学生時代、社会人時代の明るい母親と、まるで別人だ」、と。



そこで我々は一時期こう推測もしていました。「もしかしたら、母親は学生時代・社会人時代のどこかで、他人には言えないような性暴力を受けてしまい、それで性格が真逆に変わってしまったのではないだろうか。」と。




今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!




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