皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 トラウマ事件を思い出しても、ネガティブな感情か湧かなくなってきている(2010年3月頃・34歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、トラウマ歩きが3年目に突入した、という話でした。このトラウマ歩きの最中に自分は病的な冷え性に苦しんでいました。また、それと同時に「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」にも、のたうち回っていたのでした。
.
「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。
トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。
前回の記事は、トラウマ歩きが3年目に突入した、という話でした。このトラウマ歩きの最中に自分は病的な冷え性に苦しんでいました。また、それと同時に「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」にも、のたうち回っていたのでした。
.
「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。
トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも2年以上です。
では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。
次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。
「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」
2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。
↓
そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。
↓
このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。
↓
この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。
↓
それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。
↓
と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。
↓
このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。
このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。
また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。
ここからは前回の記事をそのまま全て引用したいと思います。トラウマ歩き3年目の自分がどのような状態だったのか、という話になります。
『前回記事からの引用』
このようにトラウマ歩き3年目の自分は、トラウマ歩きという行為が一向に終わる気配のない事に絶望感を感じていました。「記憶のサルベージ」は1年間で終わりましたが、「トラウマ歩き」は3年続けても全く終わる気配がありません。
また、そもそもこのトラウマ歩きは「トラウマの消化(鬱回復)」を目的として続けていた行為でした。しかし、その目的は3年目に入っても全く達成されている気配がありません。
ただ、それは仕方のない事でありました。当時の自分は全く気付いていませんでしたが、トラウマ歩きが始まった事で鬱をさらに1.25倍悪化させていたのですから。トラウマ歩きや様々な致命的な精神的苦痛によって、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥っていました。これによって自分はさらに自己否定感を増大させ、鬱が悪化していたのです。
つまり当時の自分としてはトラウマ歩きをする事で、「トラウマの消化(鬱回復)」を目論んだのですが、実際にはトラウマ歩きによって、さらに鬱は悪化していたのです。それは「トラウマの消化」を実感出来るはずがありません。
しかし、トラウマ歩きが3年目に入った頃から、トラウマに対する心のリアクションが僅かずつですが、変化し始めた記憶もあったりします。それは例えば高校1年生の時に起きた「暴言事件」を思い出して歩いている時です。「暴言事件」とは自分が鬱を発症するきっかけとなった代表的なトラウマ事件です。(詳しい経緯は、このブログのトップ記事「「人生年表と鬱のフローチャート」をご覧下さい。)
トラウマ歩きを始めたての頃の自分は、この事件を思い出すのが辛くて辛くて仕方ありませんでした。「高1の自分があの事件で感じた凄まじい恐怖と不安感」、これを歩きながら思い出すと、視界からは一気に色が失われ、モノクロに変わりました。また身体は一気に重くなり、高齢者の方に後ろから抜かされる事もよくありました。
さらに自分は以下を歩きながら思い出していきました。
・あの事件で発生した恐怖感と不安感によって、喘息が悪化し、夜眠れなくなった事
・一睡もせずに高校に向かい、凄まじい疲労感と眠気で意識朦朧とした状態で高校生活をおくり続けた事
・あの事件によって自分の高校生活の3年間が、ただただ恐怖と孤独で塗り潰され、酷く虚しくて悲しいものになってしまった事
これらの記憶を思い出すと、さらに視界は黒くなり、身体は重くなりました。加えて、急激に悲しくなり、号泣していた記憶です。
自分はこのようにトラウマ歩きの初期には号泣しながら「暴言事件」を思い出していました。そして、自分はこの「暴言事件」を事あるごとにトラウマ歩きの中で思い出していきました。そうですね、3ヶ月にいっぺんくらいのペースで思い出していった記憶です。何せこの事件は自分の人生の中で代表的なトラウマ事件ですから、思い出す事も多かった印象です。
すると、2年目に入った頃から、「暴言事件」をトラウマ歩きの中で思い出しても、号泣はしなくなっていた記憶です。そう、相変わらず思い出すと悲しくて仕方がないのですが、涙目になるくらいで号泣はしなくなっていたと思います。自分はここからも3ヶ月にいっぺんのペースで「暴言事件」を思い出していきました。
すると3年目に入った頃には、暴言事件を思い出しても、涙が全く出なくなっていました。そう、この事件を詳細に思い出しても「悲しさや辛さ」の感情があまり湧かなくなってきたのです。この事件のストーリーを詳細に思い出していっても、そこにネガティブな感情があまり湧いて来なくなっていました。
当時の自分はこの事を不思議に思いながらも肯定的には捉えていた記憶です。「あれ?最近暴言事件を思い出しても感情が動かなくなってきているぞ」、と。しかし、それを「トラウマの消化」とは結びつけていませんでした。何故なら、当時の自分はトラウマ歩きによって鬱をさらに悪化させていたからです。それにより「トラウマ消化の実感」は全くありませんでした。
ここら辺の話は複雑なので、次回の記事で改めて書きたいと思います。
『引用終わり』
このようにトラウマ歩き3年目の自分は、歩きながら「暴言事件」を詳細に思い出しても、「悲しさや辛さ」の感情があまり湧かなくなって来ていました。これはトラウマ歩き1年目の自分が、号泣しながら「暴言事件」思い出していた事を考えると、ポジティブな変化と言えました。しかし、当時の自分はこの変化を「トラウマの消化」と捉える事にかなり躊躇していた記憶です。
何故ならトラウマ歩き3年目の自分は、以下の5つの致命的な精神的苦痛にのたうち回っていたからです。
「トラウマ歩き2年目以降の5つの致命的なストレス」
⑴ 「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情❶〜❾ (ただし❾は冬限定)
⑷「『殺しても殺し足りない』(×1.5倍)程憎い両親とのコミュニケーション」
⑸トラウマ歩きという行為がいつ終わるのか全く見通せない。上記の致命的な精神的苦痛の数々がまだまだ続く事を考えると絶望的な気持ちに。
そして、自分は上記の致命的な苦痛が原因で、自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥っていました。これにより自己否定感がさらに増大し、鬱はさらに1.25倍悪化してしまいました。
ですから、当時の自分は先程の肯定的な変化を「トラウマ消化」と結びつける事は出来ませんでした。もし当時の自分がトラウマ歩きを始めてからというもの、「日々の心身の苦痛が楽になったな」と感じていたなら、先程のポジティブな変化を「トラウマ消化」と結びつける事が出来たでしょう。
しかし、実際にはトラウマ歩きを始めてからというもの、日々の心身の苦痛はさらに1.25倍悪化していたのです。これでは「トラウマの消化」を実感出来るはずがありません。
また、トラウマ歩き3年目の自分は、1年目の頃の「号泣」を忘れかけていたようにも思います。そう、この2年間の間には致命的な事件が数々の起こりました。そして、それらの事件の情報は何一つ言語化も整理整頓もされていなかったのです。ですから、当時のトラウマ歩きの記憶は超カオス状態に陥っており、1年目の「号泣」の記憶がどこかに紛れかけていたような印象もあります。
ただし、現在の自分(2022年10月)はこうも思います。当時の自分は、あのポジティブな変化を「トラウマの消化」とは捉えられていませんでしたが、現在の自分(2022年10月)の見解では、あのポジティブな変化は「トラウマの消化」だったと思います。
何故ならトラウマ歩きの1年目の自分は、「暴言事件」のを思い出すと号泣していました。しかし、トラウマ歩きが3年目に入ると、それを思い出しても泣かなくなっていましたし、「悲しさや辛さ」の感情があまり湧かなくなっていたなです。これは明らかに当時の自分が2年かけて「暴言事件」のトラウマを消化しつつあった証だと思います。
そして、この現象は「暴言事件」以外の全てのトラウマにも起こっていました。自分は学生生活の中で様々なトラウマや挫折をしていったのですが、トラウマ歩き1年目の自分号泣しながらそれらを詳細に思い出し続けました。そして、「暴言事件」と同様に2年目に入ると、それらを思い出しても、号泣はしなくなっていたのです。さらにトラウマ歩き3年目に入る頃には、それらのトラウマや挫折を思い出しても「悲しさや辛さ」をあまり感じなくなっていました。これはやはりポジティブな変化だったと思います。現在の自分(2022年10月)はこの変化は「トラウマの消化」だったと思います。
しかし、これまで書いています通り、当時の自分はこの変化を「トラウマの消化」とは捉えていませんでした。日々の生活の中での致命的な苦痛は全く減っていませんでしたし、逆に1.25倍に増えているくらいだったからです。ではどうして当時の自分は、トラウマ歩きによって「トラウマの消化」を成し得ていたにも関わらず、それを全く感じられなかったのでしょう。次回の記事ではここを考えてみたいと思います。
今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!
↑クリックして頂くとランキングアップ&アクセス数アップします。ご協力よろしくお願いします。