鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

トラウマ歩き最終盤で東日本大震災が起こった②(2011年3月・35歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 トラウマ歩き最終盤で東日本大震災が起こった(2011年3月・35歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、トラウマ歩きが3年目に突入した、という話でした。このトラウマ歩きの最中に自分は病的な冷え性に苦しんでいました。また、それと同時に「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」にも、のたうち回っていたのでした。



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「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも2年以上です。



では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。


「トラウマ歩きの前フリ」



次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。



「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」


2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。



そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。



このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。



この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。



それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。



と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。



このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。



このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。




また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。


ここからは前回の記事をそのまま全て引用したいと思います。トラウマ歩き3年目の冬、トラウマ歩き最終盤という局面で、東日本大震災が起こった、という話でした。




『前回記事からの引用』




このように自分は「トラウマ歩き」最終盤に突入したのでした。この時期は2011年3月の頭のくらいです。自分の頭の中は『いよいよ「トラウマ歩き」が終わる!!』と、けっこうテンションが上がっていた記憶です。しかし、その最終盤で日本を揺るがす大災害が起こる事となりました。そう、東日本大震災です。


3月11日の昼、自分は大きな揺れで目覚めました。いつもの地震とは違う大きな揺れです。しかし、ベッドで横たわっていたせいか、そこまで酷い揺れには思えませんでした。自分は揺れが収まった後もしばらくベッドの中にいました。自分の身体は、睡眠途中で起こされ、ダルくてダルくて仕方がない状態だったのです。自分はあわよくばもう一眠りしたいと思っていましたが、もう眠気は無くなっており、渋々ベッドから出ました。



自分は階下に向かい、母親に先程の地震の話をしました。母親によるとこれまでに無い程の揺れが襲ってきて、かなり怖かったとの話でした。(場所は神奈川です。)自分は母親と一緒にTVを見まして、東北の方が凄まじい震度になっている事に驚愕しました。



それから1時間くらい経った頃でしょうか。東北ではこれまで見た事もない津波が起き、それが街を飲み込んでいきました。それはこの世のものとは思えない凄惨な場面でした。自分と母親はただただ呆然とTVでその場面を見るしかありませんでした。


『引用終わり』


このように2011年3月11日、東日本大震災が起きました。まず地震自体が凄まじい規模で起こりましたし、その後に起こった津波の被害は、この世のものとは思えないものでした。街が濁流に飲み込まれていき、街の人達が逃げ惑っていました。



夜になると、濁流に飲み込まれた街のあちらこちらで火事が起こっていました。自分は呆然としながら、その光景をTVで見ていました。


ここからは時系列が定かではないのですが、この後自分の家では停電が起こった記憶です(場所は神奈川)。TVが見れなくなってしまいましたので、ラジオで地震の情報を聞いていた記憶があります。また、部屋で暖房が使えなくなってしまいましたので、病的(×27倍)に冷え性な自分には部屋の寒さが厳しかった記憶です。自分は服を何枚も着まして、その上から布団を被って、寒さをやり過ごしていました。



また、部屋の灯りもつきませんでしたから、非常用の電気ランタンを部屋の中で点けていた記憶もあります。そして、試しに地震当日の夜に原付で外を走ってみると、街中の信号が全て消えていました。こんな光景は見た事がありません。これは明らかな「非日常」でした。自分はその非日常感に戦慄し、家に帰った後、興奮しながら母親にそれを喋った記憶があります。



この時の自分は、原付で街中を少し走り、すぐに家に帰ってきたのですが、今から考えると早めに原付にガソリンを入れておけば良かったのになぁと思います。何故ならこの時点で原付のガソリンが1/7くらいにまで減っていました。そして、この後ガソリンがなかなか手に入らない状況が1ヶ月くらい続いたのです。それは停電の影響もあったでしょうし、震災で物流が滅茶苦茶になり、ガソリンがガソリンスタンドに届かなくなってしまった、という要因もあった記憶です。



自分は残っていた1/7のガソリンでどうにかその1ヶ月を凌いだのですが、原付が全く思うように使えない状況は、かなりキツかった記憶です。原付は自分にとって唯一無二の足でしたから、それを使えない状況は、「翼をもがれた鳥」という状態でした。





今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!




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