皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 トラウマ歩きで鬱回復の実感は全く得られなかった(2011年6月・35歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、自分が3年間に渡って心血を注いだトラウマ歩きが終焉を迎えた、という話でした。自分はこのトラウマ歩きの最中に病的な冷え性に苦しんでいました。また、それと同時に「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」にも、のたうち回っていたのでした。
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「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。
トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも2年以上です。
では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。
次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。
「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」
2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。
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そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。
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このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。
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この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。
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それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。
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と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。
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このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。
このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。
また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。
ここからは前回の記事をそのまま全て引用したいと思います。当時の自分がトラウマ歩き3年間を終え、どのように感じていたのか、という話になります。
『前回記事からの引用』
このように当時の自分は、トラウマ歩きの3年間を終え、なんとも言えない感慨に浸ったのでした。そこには様々な感情が入り混じっていたように思います。前回の記事に書きました通り、まずはかなりの嬉しさがありました。明日からはもう外を歩かなくても良いという嬉しさです。
そう、当時の自分は、週3回、1回平均4時間のトラウマ歩きを3年間続けました。そして、当時の自分にとってこの行為はかなりの負担になっていたのです。何せトラウマ歩きの最中には以下の精神的苦痛が発生していましたから。
「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情❶〜❾ (ただし❾は冬限定)
もちろん、トラウマ歩きの最中にはポジティブな感情も発生していました。
「トラウマ歩きの最中に発生していたポジティブな感情①〜⑥」 「向かいの車のドア音との戦い」が始まりました。この戦いで自分が受けた心身のダメージは致命的であり、この戦いがきっかけで自分の心身は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまったのです。
これによって自分は自己肯定感をさらに失い、鬱がさらに1.25倍に悪化してしまいました。
今回の記事の冒頭で、自分はこのように書きました。
このように当時の自分は、トラウマの3年間を終え、なんとも言えない感慨に浸ったのでした。そこには様々な感情が入り混じっていたように思います。
この時の自分が感じた「様々な感情」、その感情の中には「トラウマ歩きの3年間でさらに鬱が悪化してしまった」、という悲しさもあったように思います。なんせこの3年間はナイフで心身をグサグサ刺され続けているような3年間でしたからね。特にみぞうちあたりを刺され続けたイメージです。
ただし、当時の自分(2011)は、トラウマ歩きの3年間によって鬱がさらに悪化してしまった事には気付いていません。それに自分が気付いたのは、現在の自分(2022年10月)がこのブログに当時の事を書いてみて、です。当時の自分は、まさかトラウマ歩きによって、新たなるトラウマが発生しているとは思ってもいませんでした。
ただ、当時の自分が気付いていた事もありました。それは「トラウマ歩きによって、鬱が全く回復していない。」です。そう、「鬱の悪化」には気付いていませんでしたが、「鬱が全く回復していない」事には気付いていました。
何故なら、トラウマ歩きの3年間において、日々の生活の中で感じる心身の苦痛が絶望的に辛くて辛くて仕方が無かったからです。自分はトラウマ歩きの日々の中で、以下の5つの致命的な苦痛にのたうち回り続けていました。
⑴ 「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情❶〜❾ (ただし❾は冬限定)
⑷「『殺しても殺し足りない』(×1.5倍)程憎い両親とのコミュニケーション」
⑸ ⑴〜⑷の致命的な心身の苦痛が原因で「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に。
これでは、「鬱の回復」を実感出来るはずがありません。もしかしたら当時の自分も、「もしかしたらトラウマ歩きによって、鬱が全く回復していないばかりか、むしろ悪化したかもしれない」と薄々気付いていたかもしれません。
しかし、当時の自分がそれを認める事は出来ませんでした。何故なら当時の自分はこの3年間に、膨大な時間とエネルギーと心身の健康を投入してしまったからです。それを認めるという事は「トラウマ歩きの失敗」を認める事に繋がります。トラウマ歩きを終えた直後の自分が、「トラウマ歩きの失敗」を認める事は、到底無理な所業でした。
このように当時の自分は、「トラウマ歩きの3年間で鬱が全く回復していない」事には気付いていました。ですから、そこに対する虚しさはかなり感じていた記憶です。
そもそもこのトラウマ歩きという行為は「トラウマの消化(=鬱の回復)」を目指した試みです。この3年間自分はそれを目指して、膨大な時間とエネルギーと心身の健康を投入しました。しかし、その結果鬱が回復したという実感は全く得られなかったのです。トラウマ歩き後の自分がそれに対してかなりの虚しさも感じたのは当然だったと思います。
『引用終わり』
このような当時の自分は、トラウマ歩きの3年間を終え、かなりの虚しさを感じた、という話しでした。何故なら、この3年間自分は「トラウマの消化(=鬱の回復)」を目指して、トラウマ歩きに膨大な時間とエネルギーと心身の健康を投入し続けました。しかし、3年間を終えてみると、鬱が回復した実感は全く得られなかったのです。日々の生活における致命的な心身の苦痛が和らいだ感覚は全くありませんでした。それははかなりの虚しさを感じるはずです。具体的にはこんな気持ちです。
「この3年間『トラウマの消化(=鬱の回復)』を目指して、必死に必死に必死にトラウマ歩きに取り組んできたけど、鬱が回復した実感が全く湧かない、、」
ここからがややこしい話なのですが、当時の自分は「鬱の回復」を全く実感していませんでした。しかし、一方では「トラウマの消化」に関しては、一定の成果を感じていたのです。
以前の記事に書きました通り、トラウマ歩きの3年間で「トラウマの消化」は確かに行われていました。何故なら、3年前の自分は、学生時代のトラウマ事件を詳細に思い出すと号泣せずにはいられませんでした。トラウマ事件を思い出すと、事件当時の「悲しさや辛さや惨めさや恐怖感」が脳内に鮮やかに蘇り、涙が止まらなくなっていたのです。自分はそれでも同じトラウマ事件を何度も何度も思い出し続け、何度も何度も号泣し続けました。
すると、トラウマ歩きが2年目に入る頃には、徐々に涙が枯れてきたのです。相変わらず、「悲しさや辛さや惨めさや恐怖感」の感情は残っていますが、涙は出なくなってきました。自分はかなりの苦悶の表情を浮かべながらトラウマ事件を何度も何度も思い出していきました。
トラウマ歩きが3年目の後半に突入すると、とうとう自分はトラウマ事件を詳細に思い出しても何のネガティヴな感情も湧かなくなっていました。トラウマ事件を詳細に思い出しても、号泣する事は無くなりましたし、苦悶の表情を浮かべる事ももはやありませんでした。淡々とトラウマ事件の事実だけを思い出せるようになっていたのです。これはトラウマ歩き初期の「号泣」を考えると、見違えるような変化でした。この変化は、「トラウマ歩きによって、トラウマが消化された」事を明確に示していました。
このようにトラウマ歩きの3年間で確かに「トラウマの消化」は行われていました。ただし、以前の記事に書きましたように、「トラウマの消化」は限定的なものだったのです。自分は確かにトラウマ歩きによってトラウマを消化していったのですが、それは「0歳〜27歳(学生時代)のトラウマ」でありました。一方、「27歳〜35歳のトラウマ」は全く消化されずに残ってしまっていたのです。
そして、この2つの期間のトラウマを比べますと、圧倒的に「27歳〜35歳のトラウマ」の方が酷いトラウマなのです。何故なら、「27歳〜35歳のトラウマ」によって、自分の鬱はさらに 5.625倍悪化してしまったからです。
では、ここで「0歳〜27歳(学生時代)のトラウマ」と「27歳〜35歳のトラウマ」がそれぞれどのようなトラウマ事件を含んでいるのか、羅列したいと思います。後半のトラウマ事件の後ろには、鬱が何倍に悪化したのか、記載しています。
「0歳〜27歳(学生時代)のトラウマ」
・小学校3年生の時の家庭環境の戦争状態突入
・小学校6年生の時のA先生怒鳴られ事件
・中学1年生の時の自己紹介事件
・高校1年生の時の歓迎会逃亡事件
・高校1年生の時の暴言事件
・高校2年生の時の寄せ書き事件
・大学空手部の3年間
・空手部引退後のダンス教室、ファミレスバイト、自動車教習所
・2つ目の大学の2年間
「27歳〜35歳のトラウマ」
・尿管結石事件
・記憶のサルベージ
・引っ越し及び東○荘事件(×2倍)
・花粉症発症→ぎっくり腰事件(×1.5倍)
・犬の幻聴→母親と喋り始める事件(×1.5倍)
・深夜2時近辺の戦い
・向かいの車のドア音との戦い
・「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情❶〜❾
・自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態(×1.25倍)
このように前者と後者のトラウマでは、後者のトラウマの方が圧倒的に酷い状態です。そして、この後者のトラウマは、トラウマ歩きでは全く消化出来ませんでした。それは「鬱の回復」を実感出来ないはずです。
ですから、トラウマ歩き後の自分は、「トラウマの消化」は実感出来たものの、「鬱の回復」は全く実感出来なかった、という事になります。
今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!
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