鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

ようやくトラウマ歩き終了(2011年6月・35歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 トラウマ歩きによって学生時代のトラウマは消化出来たが、鬱はさらに悪化した②(2011年6月・35歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、トラウマ歩きが3年目の最終盤に突入し、そのタイミングで東日本大震災が起こった、という話でした。自分はこのトラウマ歩きの最中に病的な冷え性に苦しんでいました。また、それと同時に「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」にも、のたうち回っていたのでした。



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「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも2年以上です。



では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。


「トラウマ歩きの前フリ」



次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。



「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」


2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。



そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。



このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。



この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。



それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。



と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。



このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。



このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。




また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。


ここからは前回の記事をそのまま引用したいと思います。トラウマ歩き3年間を総括してみました。




『前回記事からの引用』



このように自分は3年間のトラウマ歩きによって「0歳〜27歳(学生時代)のトラウマ」を消化する事には成功したのでした。一方、「27歳〜35歳のトラウマ」を消化する事は一切出来ませんでした。これまで「27歳〜35歳のトラウマ」は一度も言語化された事がありませんでしたから、全くもって整理整頓されておらず、超カオス状態に陥っていたからです。



そして、「0歳〜27歳のトラウマ」と「27歳〜35歳のトラウマ」を比べますと「27歳〜35歳のトラウマ」の方が圧倒的に酷いトラウマでした。そして、トラウマ歩きの期間は32歳〜35歳であり、この期間には以下の4つのトラウマが新たに発生していました。


「トラウマ歩きの3年間における4つの致命的なストレス」


「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情❶〜❾ (ただし❾は冬限定)

「深夜2時近辺の戦い」

「向かいの車のドア音との戦い」


⑷「『殺しても殺し足りない』(×1.5倍)程憎い両親とのコミュニケーション」


もちろん、この4つの致命的なトラウマもトラウマ歩きでは全く消化出来ませんでした。そして、この4つの致命的な精神的苦痛によって当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまいました。この状態は、自分のこれまでの45年間の人生の中で最も酷かった鬱状態です。これにより鬱はさらに1.25倍に悪化してしまいました。



そもそも当時の自分はトラウマ歩きによって「トラウマの消化」を目論んでいたのです。そして、「トラウマの消化」によって「鬱の回復」を狙っていました。しかし、トラウマ歩きによって新たなトラウマが発生し、さらに鬱が悪化してしまったのは、なんとも皮肉な結果になってしまいました。



しかし、だからといってこの3年間が無駄だったとは思いません。何故なら、「学生時代のトラウマ」を消化する事には成功したからです。これは大きかったと思います。トラウマ歩きの初期においては、自分は「学生時代のトラウマ」を思い出すと号泣していたのです。しかし、3年間のトラウマ歩きを経て、「学生時代のトラウマ」から「悲しさや辛さ」の感情は消滅していました。これはトラウマ歩き3年間の最大の収穫だったと思います。


まとめますと、自分はトラウマ歩きによって、トラウマを消化し、鬱を回復させようと 試みました。それから3年後、自分は「0歳〜27歳(学生時代)のトラウマ」を消化する事には成功していました。しかし、「27歳〜35歳のトラウマ」に関しては全く消化する事が出来ませんでした。しかもトラウマ歩きの3年間(32歳〜35歳)の中では新たなトラウマが発生してしまったのです。これにより、自分の心身は過去最悪の「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥りました。よって自分はさらに自己否定感を増幅させ、鬱がさらに1.25倍悪化してしまったのでした。



いいですね!よくまとまりました。



『引用終わり』



このように当時の自分は3年間のトラウマ歩きを終えようとしていました。もはや、「0歳〜27歳(学生時代)のトラウマ」を思い出しながら外を歩いても、ネガティブな感情が何も湧かなくなっていたのです。自分は「0歳〜27歳(学生時代)のトラウマ」を一つ一つ丁寧に丁寧に思い出していき、その事を最終確認していきました。ネガティヴな感情が完全消滅した後に残っていたのは、トラウマ事件の「ストーリー」だけでした。



このように自分はトラウマ歩き終了に向けて最終確認をしていきました。時期は2011年の6月頃だったと思います。この頃になると、放射能の恐怖は薄れてきており、再びトラウマ歩きに集中出来るようになっていました。自分はトラウマ歩きの最終確認を進めていき、全てのトラウマ事件からネガティブな感情が完全消滅している事を確認していきました。



そして、2011年6月の終わり頃だったでしょうか。全てのトラウマからネガティヴな感情が完全消滅している事を確認し終えたのです。当時の自分は、トラウマ歩きの最終回を終え、なんとも言えない感慨に浸った記憶です。そう、あれはなんとも言えない感慨でした。そこには様々な感情が入り混じっていたように思います。まずはトラウマ歩きの3年間が終わり、明日からはもう外を歩かなくても良いというのはかなり嬉しかった記憶です。



そう、自分はこのトラウマ歩きの中で以下の致命的な心身の苦痛に3年間のたうち回り続けてきました。


「トラウマ歩きの最中のネガティヴな感情❶〜❾」


これらの心身の苦痛が一因となり、自分の身体は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥りました。そして、鬱がさらに1.25倍悪化してしまったのです。



ですから、トラウマ歩きが終わるという事は、上記❶〜❾の苦痛から解放されるという事でもありました。これは当時の自分にとって完全にポジティブな出来事でした。



単純に言いますと、当時の自分はトラウマ歩きからようやく解放され、かなり嬉しかった記憶です。だってもう❶〜❾の致命的な心身の苦痛を週3回も感じなくても良いのですから。これは本当に嬉しかった記憶です。



そう、もうこれからは雨や台風の中を、靴の中をぐちゃぐちゃにしながら4時間歩き回らなくても良いのです。そして、真冬に暴風の中を凍えながら歩き回る必要もありません。 防寒着の着替えの為に5分おきにコンビニのトイレに駆け込まなくても良いですし、臭くて汚くて暗くて狭い公衆トイレで着替える必要もありません。そして、号泣が止まらずいつ歩き終えれるか分からないような状況に陥る事もありませんし、お金にも社会経験にも全くならない事に膨大な時間とエネルギーを賭ける必要もないのです。



一方、当時の自分は、トラウマ歩きによって、ポジティブな感情を感じていたのも事実です。


「トラウマ歩きの最中に発生していたポジティブな感情①〜⑥」



ただし、トラウマ歩きの3年間は、トータルで考えると圧倒的に辛い事の方が多い行為でした。上記の❶〜❾の致命的な苦痛もありましたし、トラウマ歩きをしていない時間にも、致命的な心身の苦痛が発生していたからです。トラウマ歩きの3年間で発生していた心身の苦痛は以下の通りになります。


「トラウマ歩きの3年間で発生していた致命的な精神的苦痛⑴〜⑹」


「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情❶〜❾ (ただし❾は冬限定)

「深夜2時近辺の戦い」

「向かいの車のドア音との戦い」


⑷「『殺しても殺し足りない』(×1.5倍)程憎い両親とのコミュニケーション」


⑸ ⑴〜⑷の致命的な心身の苦痛が原因で「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に。


⑹トラウマ歩きという行為がいつ終わるのか全く見通せない。上記の致命的な精神的苦痛の数々がまだまだ続く事を考えると絶望的な気持ちに。



ですから、自分の鬱はトラウマ歩きの3年間で1.25倍に悪化してしまったのです。



このようにトラウマ歩きという行為は、致命的な精神的苦痛を発生させる行為でありました。ですから、この行為から解放されるという事は当時の自分にとって、かなりポジティブな出来事だった印象です。




今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!




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