鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

父親の人生及び家庭環境を聞いていく中で、父親に対する憎悪も減少(2022年11月・45歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 母親に対する「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪は完全消滅(2022年11月・45歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、自分が3年間に渡るトラウマ歩きを終えた、という話でした。そして、同時期に妹と喋り始めた、という話でした。この時の自分の年齢は35歳です。


. 「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は3年間です。



では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。


「トラウマ歩きの前フリ」



次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。



「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」


2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。



そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。



このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。



この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。



それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。



と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。



このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。



このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。




また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。




ここからは前回の記事をそのまま全て引用したいと思います。自分が両親とのコミュニケーションを復活させた経緯について振り返ってみました。




『前回記事からの引用』



このように自分は母親の人生を詳細に聞いていく中で、母親へのイメージを根本から変えていく事になりました。そして、それによって、自分が考える「家庭内における責任問題の割合」に変化が生じてきたのです。それはこういう気持ちです。


「本当に責任問題は、父親:母親=50:50なのだろうか??『母親が元から暗い人間ではなかった』という事は、もしかしたら母親の責任の割合は、50より少ないのかもしれない。」



自分がそれまで考えていた責任の割合(「父親:母親=50:50」)、に変化が生じてきたのです。「もしかしたら母親の方の割合は50より少ないかもしれない」、と。



すると、母親に対する憎悪の気持ちも減少していったのです。何故なら、以前の自分は両親それぞれに対して等しく「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていました。この「等しく」という部分は、先程の責任問題の割合(「父親:母親=50:50」)に由来しています。という事は、母親の方の50が少なくなれば、母親に対して感じていた『「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪』も下がる、という流れになります。



そして、自分はここから4年後(2012年)に今度は父親の人生を詳細に聞いていく事になります。するとそこで語られた内容は、またも驚愕の内容だったのです。父親の人生は自分が予想していたより遥かに闇深いものでした。ここに至って、先程の責任問題はほぼ決着しました。母親の責任の割合はさらに下がり、「父親:母親=90:10」となりました。これにより、自分の中の母親に対する憎悪はさらに下がっていったのです。




それからさらに10年経った今現在(2022年10月)、自分の中の母親に対する憎悪は「0」となっています。過去の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていましたが、今ではその憎悪は嘘のように消滅している、という話になります。



『引用終わり』



このようにして、自分の中の母親に対する憎悪は収まっていったのでした。では一方の父親への憎悪はどうなったのでしょうか。責任の割合が「父親:母親=90:10」に変化した事で、当時の自分はさらに父親に対する憎悪を増幅させていったのでしょうか。「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪はさらに増幅したのでしょうか。答えは「NO」でした。



何故なら、自分は父親の人生を詳細に聞いていく中で、父親が育った家庭環境に関しても詳細に聞いていきました。すると、その家庭環境は予想より遥かに闇深いものだったのです。父親は闇深い家庭環境で育ったが故に、陰鬱で社会性に乏しい人間に育ちました。そして、そのような人間が結婚し、家庭を作ったからこそ、我が家は戦争状態に陥ったのです。そして、その子供である自分の人生も破壊されたのでした。




この因果関係が見えてきた事で、自分の中の父親に対する憎悪は減っていく事になったのです。何故なら「加害者」に見えた父親が実は「被害者」だったからです。そう、自分と同様に父親もまた闇深い家庭環境で育った子供であり、被害者だったのでした。こうなりますと、自分が真に憎悪を抱くべきなのは、「父親方の祖父と祖母」という事になります。




ところがさらに父親の話を聞いていきますと、「父親方の祖父」もまた闇深い家庭環境で育ったようなのです。もうこうなりますと、憎むべきは「父親方の家の闇そのもの」、という事になります。



ただし、この「家の闇」という言葉には、オカルト的な得体の知れない意味合いはありません。何故なら、父親から聞いた「家の闇」の話は、実際の具体的なエピソードの積み重ねだったからです。この具体的なエピソードの話は近いうちに書く事になると思います。このブログの大オチのような話になると思います。




このような経緯を経て、自分は両親それぞれの人生を知り、両親への憎悪が収まっていったのでした。そして、両親への憎悪が収まっていくにつれて、鬱の諸症状も改善していった印象です。





今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!




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