皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 自分と母親は共闘して父親を糾弾し、最後に父親は土下座をして謝った (父の人生を聞く・2012年2月) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、35歳の自分が3年間に渡るトラウマ歩きを終え、その翌年に父親の人生を聞き始めた、という話でした。それはこのような思いからでした。「自分も妹も全く社会に適合出来ず、本当に闇が深い人生になってしまった。そして、明るかった母親もまた心をどんどん病んでいった。という事は、父親の人生もまた闇が深いものなのだろう。」
ここからしばらくは今回の記事の前提となる前フリ部分になります。いつもお読みの方は飛ばして下さい。
『今回記事の前フリ』
. 「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。
トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は3年間です。自分がこの行為の中で感じていたポジティブな感情とネガティヴな感情は以下の通りです。
そして、この行為を始めたのと同時期に「深夜2時近辺の戦い」が勃発し、自分の精神はさらに追い込まれていく事になりました。この事件のフローチャート(短縮ver)のリンクを貼りたいと思います。
上記のリンクの経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。
また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。
『前フリ終わり』
ここからは前回の記事をそのまま全て引用したいと思います。自分は2012年3月頃、父親の人生を聞き始めました。そして、父親の勤務医時代の話を聞いていき、結婚後の父親が家庭内で「音に対する病的な過敏さ」を発症していたという話を聞きました。そして、そんな父親の下で育った自分の話になります。
『前回記事からの引用』
このような理由で、自分は父親を責め始めたのでした。自分は「親父のせいで自分の人生は滅茶苦茶になった!!」と責め立てました。加えて、これに母親も乗ってきまして、自分と母親が共闘して父親を責める展開になったのです。
そう、何せうちの母親はそれまでの10年間延々と父親の事を激しく責め立ててきました。ですから、自分と母親の共闘は自然な流れだった記憶です。ではここで当時の母親が父親に対して感じていた莫大な怒りと不信感を振り返ってみたいと思います。
「開業から11年後、父親(当時50歳)が整体師に心酔していく事件が発生。この時に母親が父親に対して感じていた莫大な不信感と怒り❶〜❺(短縮ver)」
❶父は11年前に医院を購入した際、ボロボロの医院を購入して母を落胆させていた。
❷11年前に父の開業の話を聞いて、父方の祖母とニートの叔父が勝手に我が家の近所に住み着いてしまう事件が発生。
❸5年前には父が銀行の支店長に半ば騙される形で、中古のボロ家を買わされてしまう事件が発生。しかもそれは母親に全く相談なく行われた。
❹ボロ家を購入した際には気付かなかったそうだが、実は向かいの家の隣人が、うちの医院の会計を任している事務所で働いていた。それを知った母親がまたも激怒。
❺開業から11年後、我が家に新たな酷い火種が発生。父がとある整体師と出会い、その整体師に心酔し始めたのだった。母親は父親がこの整体師に洗脳されているのではないかと激しく疑い、父親の事を激しく糾弾した。
(フルverはこちら
このように自分と母親は父親に対して家庭内外での父親の冷酷と不甲斐なさと世間知らずを責め立てました。すると、父親は2vs1には勝てないと思ったのか、我々の言い分をすんなり認め、「これまですまなかった」と土下座したのでした。そして、「休学するのは分かったから、〇〇(自分の名前)はカウンセリングに行ってくれ。」と言ってきたのでした。自分としては、言われなくてもカウンセリングには行くつもりでしたので「分かった」と答えたのでした。
『引用終わり』
このように、自分は母親と共闘して、父親を激しく責め立てたのでした。その結果、父親は我々の言い分をすんなり認め、「これまですまなかった」、と土下座したのでした。そして、「休学するのは分かったから、〇〇(自分の名前)はカウンセリングに行ってくれ。」と言ってきたのでした。自分としては、言われなくてもカウンセリングには行くつもりでしたので「分かった」と答えたのです。
このようにして、自分は大学休学の承認を得る事が出来たのでした。この時の自分の心境は複雑だった記憶です。両親の前で号泣してしまうのが、まず想定外でしたし、その後母親と共闘して父親を責め立て、父親が土下座して謝る展開も全く想定外でした。
そもそもあの時の自分は両親に対して大学休学の承認を得に行ったはずです。ところが、そこから話の流れは全く思いもよらなかった方向に展開しき、母親と共闘して、父親を土下座させる事になってしまいました。これは当時の自分にとって本当に予想外の展開でした。
ですから、この事件後、自分は大学休学の承認を取れてとりあえずはホッとしましたが、後味の悪さもかなりあった記憶です。なにせ想定外の展開で自分と母親が共闘して、2vs1で父親を土下座させてしまったのですから。
また、土下座の前の話の流れで、自分は両親に対して自分が大学内で全く友達が作れていない事を告白し、号泣してしまいました。この展開ももちろん全く予想しなかった展開です。これによる精神的なダメージもかなりありました。両親にその事実を伝える事がまずかなりの「恥」でしたし、両親の前で号泣してしまった事もかなりの「恥」だったのです。
ただ、その後自分と母親は共闘して、父親を土下座させたのですが、その事で少し溜飲が下がった感じもあったとは思います。
このように事件後の自分はかなり複雑な気分でした。ただ、その中で最も大きい気持ちは「大学休学の承認を得れた事」であり、自分はその事にけっこうな安堵感を感じました。これでここから1年間は大学に通わなくても良いのです。そう、ここから1年間は大学生活の中で鬱の諸症状にのたうち回らなくても良いのです。(当時の「鬱の廃人」状態はこちら)
当時の自分はこらから先の日々にかなりの解放感と気楽さを感じた記憶です。当時の鬱の諸症状は主に大学生活の最中に感じていたものです。ですから休学してしまえばその辛さは1/3くらいに減少です。
自分は大学休学の承認を両親から得ることが出来、けっこうな解放感と安堵感を感じました。ところが、その1〜2週間後、さらに事件が起こりました。父親の胃に当然穴が開いて、入院する事になったのです。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
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