鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

学生時代のトラウマの数々を母親に洗いざらい喋っていくという狂気的な行為③(2023年1月・46歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 学生時代のトラウマの数々を母親に洗いざらい喋っていくという狂気的な行為②(2023年1月・46歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、自分が母親とコミュニケーションを再開させる際の葛藤について書いてみました。ではまずは前回の記事をそのまま引用したいと思います。



『前回記事からの引用』


このように自分は母親と喋り始めたのですが、それは致命的な精神的苦痛にのたうち回りながらの行為だったのです。何せ「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程憎い母親に、自分の挫折と恥と屈辱の黒歴史を喋っていくのですから。



ですから当時の自分は母親と喋っている最中に凄まじい暴力衝動に襲われ、それにも耐えねばならなかったのです。そして、それを耐える事もまた致命的な精神的苦痛を発生させました。



このように当時の自分は母親とコミュニケーションを取り始めたのですが、その最中には幾重にも致命的な精神的苦痛に襲われ続け、それに必死に耐えねばなりませんでした。




ではここで、当時の自分が耐えねばならなかった致命的な精神的苦痛をまとめたいと思います。


「母親とコミュニケーションを取り始めた際に、耐えねばならなかった致命的な精神的苦痛①②」


① 「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程憎い相手(母親)に、自分の挫折と恥と屈辱の黒歴史を喋っていかねばならない。


②①の最中には凄まじい暴力衝動が発生し、自分はそれにも耐えねばならなかった。



いいですね!よくまとりました。



『引用終わり』



このように31歳の自分は母親とのコミュニケーションを再開しました。しかし、それは上記①②の致命的な精神的苦痛にのたうち回りながらの行為だったのです。当時の自分は致命的な精神的苦痛にのたうち回りながら、自身の挫折と恥と屈辱の学生時代を母親に詳細に喋って言っていきました。



そう、かつての自分は母親とのコミュニケーションを絶対的に拒絶していました。しかし、1度喋り始めると、ダムが決壊したかのように自分の中からは過去のエピソードが溢れ出しました。ですから、最初の1ヶ月は1日5〜6時間喋る事もありましたし、連日に渡って平均2〜3時間喋り続けた記憶です。



そして、当時の自分としては、その最中に母親から「大変だったね」や「家庭環境のせいですまなかったね。」などの言葉が発せられる事を期待していました。母親から慰めや謝罪の言葉が発せられるのを心から期待していたのです。しかし、実際には慰めや謝罪の言葉など一切ありませんでした。それどころか母親から自分に対して質問や相槌すらない有様です。ですから、自分は壁に向かって一人でトラウマを喋り続けているような状態が続きました。(その理由はこちら→「 2008年当時の母親が自分のトラウマ話に一切感情移入しなかった、3つの理由(過去編・2008年夏頃・32歳) 」)




以前に書きましたように、「学生時代のトラウマを洗いざらい母親に喋る」という行為は、自分の心の中に致命的な精神的苦痛を発生させていました。加えて、当時の自分は母親の完全なノーリアクション状態に対して、かなりの虚無感と悲しさを感じていた記憶です。




そんな状態が3〜4ヶ月が過ぎ、とうとう自分は全てのトラウマを喋り終えたのでした。






今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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