鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。ツイッターを@skipper1242でやってましたが凍結されましたので、現在は@skipper954954でやってます。

いつもと鼻水の出方が違う[花粉症発症→ぎっくり腰事件①](過去編・2007年3月・31歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 極度の虚脱状態が9ヶ月続いた結果、「花粉症発症→ぎっくり腰事件」発生(過去編・2006年6月・30歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事も、30歳の自分が母親と接触し、月6万円の補償を得る事に成功した、という話でした。そして、その後の自分がどのような生活を送っていたのか、という話でした。当時の自分は実家暮らしでしたが、両親が引っ越しを言い出した事により、自分の心が致命的な憎悪と被害妄想の嵐に巻き込まれる事となりました。それにより、パチンコ稼業の継続が不可能になり、母親にその補償を求めた、という話になります。



ではここで、「引っ越し及び東○荘事件」の経緯をフローチャートで示したいと思います。今回の記事では、このフローチャートに新たなフローチャートを付け加えたいと思います。それは前回の記事でまとめました「母親から補償を得た後の経緯」になります。かなり長いフローチャートになります。いつもこのブログをお読みの読者の方はスルーして下さい。



「引っ越し及び東○荘事件の経緯(2005年10月〜2006年6月・30歳)」


そもそも当時の自分は、引っ越し「以前」から「鬱の廃人」×2倍状態に陥っていた。引っ越し「以前」、自分は1年間部屋に引きこもり続け、過去のトラウマをひたすらノートに書いていた。この時点で自分の心の中の家族に対する憎悪は『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎悪になっていた。また、「被害妄想」も病的(×6倍)に酷くなっていた。


(引きこもり時期の9個の鬱の諸症状はこちら)


(自分が鬱を悪化させていく経緯は、このブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照)


(マイナス132)



自分は1年間かけて引きこもり状態をようやく脱し、カウンセリング&パチンコ生活を送り始めた。しかし、その2ヶ月後に両親が引っ越しを言い出し、それが原因で自分の精神は凄まじい憎悪と被害妄想の嵐に巻き込まれる事となった。(その憎悪と被害妄想の内訳①〜⑥はこちら) (マイナス132→132)



そして、自分は暴力衝動をコントロール出来なくなり、家の中でモノに激しく当たるようになった。そんな状態が半年間続いた結果、「東○荘事件」が発生。(2006年3月頃・30歳)(東○荘事件の詳細な経緯はこちら )この事件により、自分の心の中には以下の2つの致命的な精神的ダメージが加わった。


❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪 (自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」をお読み下さい。)


❷ 「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想(詳細はこちら


(マイナス132→132)


さらに東○荘事件後、両親が引っ越しの決行を決めた事で、自分は以下の精神的ダメージも受ける事となった。


・東○荘事件の後、両親が引っ越しの決行を決めた事による、過去に例を見ない程の挫折感と虚無感。

(マイナス132→132)


つまり、自分は今回の引っ越し及び東○荘事件によって、上記①〜⑥+❶❷+1の9個の致命的な精神的ダメージを受けた、ということになる。この時の自分が受けた精神的ダメージ量は「中指の拷問」一回分を余裕で超える。(中指の拷問の詳細はこちら。) (マイナス132→132)



このように自分は引っ越し及び東○荘事件により、9個の致命的な精神的苦痛を受ける事となった。その後自分は断腸の思いで引っ越しについて行く事を決断したのだが、その準備の最中に、その余りの精神的苦痛で自分の正気が失われ、「自殺」すら出来なくなる事態を恐れた。そこで自分は自分の部屋に「首吊り装置」を設置し、自分が正気を失いそうになったら、これを使ってこの世から離脱する事を決意。この「首吊り装置」は自分にとっては「最終安全装置」の意味があった。(マイナス132→132)



その後自分はこの「最終安全装置」を唯一の心の支えにして、引っ越し準備を進めた。そう、家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪を必死に抑えて、引っ越し準備を進めたのだった。そして、とうとう引っ越し当日を迎え、その後引っ越し作業はほぼ完了。(引っ越し当日の経緯はこちら)これにより自分の心の中にはかなりの安堵感と達成感が発生した。「首吊り装置」を使わずに済んだのだから、かなりの安堵感が発生するのは当然の流れだった。(マイナス132→132)



一方で引っ越し後の自分は極度の虚脱状態と放心状態にも陥った。何故なら、引っ越し及び東○荘事件によって自分は上記9個(①〜⑥+❶❷+1)の致命的な精神的ダメージを受ける事となったから。これにより、自分の鬱はさらに2倍悪化。自分は引っ越しの前から「鬱の廃人」×2倍状態にあったのだが、これがさらに2倍に悪化。つまり、「鬱の廃人」×4倍状態に突入したのであった。



そして、「引っ越し及び東○荘事件」の経緯を端的にまとめるとこうなる。


引っ越し「以前」の状態


「鬱の廃人」×2倍状態
= 「引きこもり中の9個の鬱の諸症状」
=メンタル数値「132」



↓ 引っ越し及び東○荘事件による9個の(①〜↓⑥+❶❷+1)の致命的な精神的ダメージにより↓鬱がさらに2倍悪化


引っ越し「後」の状態


「鬱の廃人」×4倍状態
= 「引きこもり中の9個の鬱の諸症状」×2倍状態
=「極度の虚脱状態と放心状態 」
=メンタル数値「132→264」


引っ越し後の「鬱の廃人」×4倍状態における8つの鬱の諸症状


⑴家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照)


⑵「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)


⑶引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×12倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)


⑷ベッドの中における「意識は覚醒しているのに、まぶたや身体が重くて動かない状態」(詳細はこちら)



⑸当時の自分の体調は、冷え性も病的に悪化しており、真夏日でも部屋の中でエアコンを付ける事が出来なかった。もしベッドで横になっている時にエアコンを付ければ、必ず寝冷えしてしまう。エアコンの設定温度を30度に設定したとしても、寝覚めると身体は氷のように凍え切っており、鼻水はダラダラ、身体は100kgの重りを背負っているかのよう。故に自分は真夏日でもエアコンや扇風機や窓を開けずに眠るしか無かった。(住んでいる場所は神奈川)


当時の睡眠時間は昼夜逆転していたので、自分は真夏日の昼間に室温50度くらいの中で汗をダラダラ流しながら、眠らざるを得ない。そして、2〜3時間寝れたとしても、意識が覚醒すると、⑷の状態に陥り、ベッドから身体を起こす事は出来ない。自分はそこからさらにダラダラ汗を流しながら、1〜2時間ベッドに磔状態。この時の虚脱感や消耗感や絶望感は致命的なものがあった。


⑹上記①〜⑥+1の致命的な精神的苦痛


⑺上記の「極度の虚脱状態と放心状態」で、パチンコ稼業を再開出来るはずも無く、自分は引っ越してから1ヶ月後にパチンコ稼業からの撤退を決意した。これにより、自分の中に筆舌に尽くし難いほどの無力感が発生。これにより「極度の虚脱状態」はますます悪化していった。


⑻上記の7つの諸症状は耐え難い心身の苦痛を常に自分に発生させていた。故にこのような日々の唯一の心の支えが、「首吊り装置」という名の「最終安全装置」だった。この時の具体的な気持ちは以下の通り。


当時の自分は、余りの憎悪や被害妄想や肉体的苦痛に耐えられず、自我を失いそうになったら、さっさと首を吊ってこの世から離脱する事を決意していた。何故なら当時の自分が最も恐れていた事態は以下の事態。


自分の自我が憎悪と被害妄想に飲み込まれてしまい、正気を完全に失い、「自殺」という現実離脱手段すら使えなくなる事態。(具体的には、自分が気が狂った末に、精神病院の閉鎖病棟に隔離され、死ぬまでそこで苦しみ続けるような状態を想定)


⑴〜⑻まとめ:自分は引っ越し後、上記⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛にのたうち回る生活を送り続る事となった。自分は仕事は一切せずにただただ食べて寝るを繰り返すだけの日々を過ごしていった。それは何の希望も展望もない日々であり、「自殺しないで生きる」だけで精一杯の日々だった。




引っ越し後の自分は、⑴〜⑻の鬱の諸症状によって「極度の虚脱状態と放心状態」に陥っていた。よって、引っ越しから1ヶ月後、自分がパチンコ稼業を再開出来る状態では全く無い事に気付いた。これにより月30万円の稼ぎが消滅。 (マイナス264)



そこで自分は両親にその補償(月6万円)を求める事を思い付くが、自分にとって両親は「殺しても殺し足りない」程の憎い存在。本来ならコミュニケーションは絶対的にあり得ない。しかし、両親に補償を求めなければ、自分の貯金を取り崩して生活費を捻出する事になり、それもまた気が狂う程の精神的苦痛。引っ越しの後の自分はこのような致命的な自己矛盾に陥った。(詳しい話はこちら) (マイナス264)




自分は上記の自己矛盾をノートに書き殴っていった。その結果、⑻「首吊り装置の作動」も視野に入れた上で、両親に対してパチンコ稼業の補償を求める事を決めた。(マイナス264)



さらに自分は両親のどちらに補償を求めるのか、それを考えていった。その思考の経緯はこちら記事。その結果、導かれた最終結論は以下の通り。



「首吊り装置」の作動を念頭に置きながら、「母親」にパチンコ稼業の補償(月6万円)を求める。

(マイナス264)


何故月6万円だったのか、その理由は以下の通り。


・引っ越し後の自分の心身は「極度の虚脱状態と放心状態」に陥っていた。故に「働かずに食べて寝て」を繰り返しているだけの生活でも、⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛に襲われ続け、命懸けの生活だった。こんな状態ではお金を使う余裕は無く、使っても月1〜2万円。よって月6万円貰えば、とりあえずは満足という状態だった。


・自分は引っ越し前はパチンコ稼業で月30万円を稼いでいたのだが、その期間でさえ生活費は月4万円で足りていた。当時は月4万円で生活し、カウンセリング代に月4〜5万円、残りはすべて貯金してきた。よって、生活費は最大でも月4万円で足り、さらに2万円くらい貯金できれば満足という状態だった。



上記の最終結論に辿り着いてから4〜5日の間、自分は母親と交渉するにあたって、決死の覚悟を決めなければならなかった。もし母親との交渉が失敗すれば、「首吊り装置」の作動が目に見えていたし、他にも「家に灯油を撒いて放火する」、「母親に対して加害する」可能性も高かった。よって、交渉する為の覚悟を決めるのに4〜5日間かかった。(マイナス264)



そして、4〜5日後、自分は決死の覚悟で母親との交渉に臨んだ。これだけの覚悟が必要な交渉だったが、いざ交渉してみると、母親はあっさりと月6万円の補償を了承。自分は自分の部屋に戻ると、大きく息を吐き、かなりの安堵感に包まれたのだった。(マイナス264)



その後の自分は、ベッドの上で1日20時間磔(はりつけ)状態が続く生活を送っていった。それは⑴〜⑻の致命的な心身の苦痛と戦い続け、死に物狂いの日々。そして、残りの4時間はベットから出て、ラジオを聞いたり、子供の頃楽しんだTVゲームをしていた。(マイナス264)




自分は、仕事は一切せずにただ食べて寝てだけを繰り返すだけの日々を過ごしていった。それは何の希望も展望もない日々であり、「自殺しないで生きる」だけで精一杯の日々。⑴〜⑻の苦痛の中でも⑻の苦痛は特に強く、自分は何度も自殺の誘惑に誘われ、その度ごとにノートにその気持ちを書いていった。そして、そこで「自殺するか」「生きるか」を天秤にかけていった。そして、辛うじて「生きる」選択をギリギリ選んでいる、そんな選択が続いていった。(マイナス264)



この頃になるとカウンセリングには通うのは辞めてしまっていた。なぜならあ⑴〜⑻の「極度の虚脱状態と放心状態」の前では、カウンセリングに行く気力さえ失われていた。代わりに心療内科にでも通って、抗うつ剤でも飲もうかと思ったが、結局は行かず。自分はどんなに自殺願望が強くなっても、それを薬で紛らわしたくないと考えていた。薬で紛らわせてしまうと、ノートにその気持ちを正確に書けず、正しい記録が残らないと考えていた。(マイナス264)





引っ越ししてから9ヶ月間、上記のような「ベッドに磔(はりつけ)生活」が続いた。(マイナス264)


フローチャート終わり』



このように引っ越し後の自分は「極度の虚脱状態と放心状態」に陥り、毎日意識朦朧とした状態で過ごしていきました。自分は仕事を一切せず、ただただ食べて寝るを繰り返すだけの日々を過ごしていったのです。それは何の希望も展望もない日々であり、「自殺しないで生きる」だけで精一杯の日々でした。
そんな日々が2006年6月〜2007年3月まで続き、自分の心身はさらに衰弱していきました。



そして、その衰弱の積み重ねが新たな事件を引き起こす事になったのです。事件の名前は「花粉症発症→ぎっくり腰事件」。2007年3月に起こった事件です。この事件は自分が生まれて初めて花粉症を発症し、そのストレスでぎっくり腰を発症した、という事件になります。



自分はその時31歳だったのですが、それまで花粉症には一切ならずに生きてきました。自分は幼い頃から喘息に苦しみ続けていましたが、花粉症には縁のない人生を送ってきていたのです。しかし、2006年6月に新しい家に引っ越しをしたのが運の尽きでした。翌年の3月初旬、自分はこれまでにない鼻水の出方を感じたのです。では、ここからは花粉症発症の話を書いていこうと思います。



そう、当時の自分は上記の⑸にありますように、冷え性が病的(×12倍)に悪化していました。真夏でもエアコンを付ける事が出来なかったですし、扇風機を使ったり、窓を開けるのすら躊躇われる程でした。(神奈川県在住)ですから、鼻水がズルズル出ているのは日常茶飯事ではありました。



しかし、3月初旬の鼻水の出方はいつもの冷え性の鼻水とは何かが違う感じでした。鼻水が妙に水っぽいのです。いつものような粘り気がありません。しかも妙に鼻の外側も痒い状態です。風邪の症状とも違います。 自分は不思議に思いながらも、1〜2週間その状態で過ごし続け、様子を見ました。すると、その間にも鼻水の出方と痒みは酷くなっていきました。



そして、3月中旬のある日、自分はふと気付いたのです。「あれ?この鼻水の出方ってもしかして、花粉症ってやつか??」、と。自分は花粉症の発症を疑い始めました。自分には花粉症発症に思い当たる節があったのです。そう、自分は前年の6月に新しい家に引っ越していました。しかも新しい家の真裏は「森」だったのです。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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