鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーションについて

15年間鬱と闘病した45歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

人生年表&鬱悪化のフローチャート

「人生年表」


1976・0歳 誕生
1977・1歳
1978・2歳
1979・3歳 妹誕生・この頃に喘息発症
1980・4歳
1981・5歳 幼稚園入園
1982・6歳
1983・7歳 小学校入学
1984・8歳
1985・9歳 父親が開業。ここから16年間に渡って家庭内が戦争状態。喘息が急激に悪化。この頃からスポーツ系の同性クラスメート及び異性と全く喋れなくなる。以降ずっとこの状況は続いていき、彼女いない歴45年。
1986・10歳
1987・11歳
1988・12歳 A先生怒鳴られ事件
1989・13歳 中学校入学
1990・14歳
1991・15歳
1992・16歳 高校入学・暴言事件により鬱発症・大人しめ系の同性クラスメートとのコミュニケーションも不可能に。高校内で透明人間化。
1993・17歳 寄せ書き事件
1994・18歳
1995・19歳 大学入学・空手部入部でさらに鬱は悪化
1996・20歳
1997・21歳 4月から大学内でカウンセリング開始
1998・22歳 空手部引退・鬱は高校時代の3倍に悪化
1999・23歳 1つ目の大学中退・2つ目の大学入学
2000・24歳 大学休学
2001・25歳 大学復帰するもまたもドロップアウト
2002・26歳 古本屋でバイト
2003・27歳 10月に尿管結石発症・鬱は高校時代の6倍に悪化
2004・28歳 4月に2つ目の大学中退・9月に部屋に引きこもり記憶のサルベージ(言語化)本格開始
2005・29歳 9月に記憶のサルベージ終了・カウンセリング&パチンコ生活開始
2006・30歳 3月 東○荘事件
6月 引っ越し 鬱は高校時代の18倍に悪化
2007・31歳 3月 花粉症発症→ぎっくり腰事件・鬱は高校時代の27倍に悪化
10月 母親と喋り始める



「鬱悪化のフローチャート(3歳〜30歳)」



このフローチャートは自分が幼い頃よりどのように「自分に対する自信(自己肯定感)」を失っていったのかを示しています。各項目後ろの数字は、自分の中の「自分という存在に対する自信(自己肯定感)」を数値化しています。この数値を「メンタル数値」と呼んでいます。この数値が下がれば下がる程、自分が「自分に対する自信(自己肯定感)」を失った事を示します。同時に「孤立感の悪化」「被害妄想の悪化」「睡眠の悪化」「体調の悪化」「背中の慢性的な疲労感の悪化」「冷え性の悪化」「両親への憎しみの悪化」も意味しています。(ただし親への憎しみを自覚し始めたのは、大学3年生でカウンセリングを受け始めて以降)



3歳くらいの時に起きたとある事件により、親に対して自分の感情や欲求を表現するのを諦める(プラスマイナス0)
(とある事件の概要は こちら)

小学校3年生の時の家庭環境の急激な悪化(0→マイナス5)
(詳細はこちら)


☆この事件におけるメンタル数値の減少「-5」、これがその後のメンタル数値の減少の基準値となっています。この事件とその後の事件を比べて、メンタルダメージが同程度なら「-5」、この事件と比べてメンタルダメージが軽そうなら「-3」という感じです。また、自己肯定感が「マイナス」というのは、自己肯定感が自己否定感に変化した、という事です。そして、自己否定感が増えれば増えるほど、自分は自分という人間を無意識的に軽視・否定するようになっていきました。そして、他人もまた自分という人間を無根拠に軽視・否定してくるように思えてきました。これが「被害妄想」です。この被害妄想の恐怖によって、自分は眠れなくなっていき、高校時代に鬱を発症、という流れになります。


小学校3、4年生の時のスイミングスクールにおける離人(マイナス5→マイナス5)
(詳細はこちら)



小学校6年生の時の「A先生怒られ事件」 (マイナス5→マイナス8) 被害妄想発症
(事件の概要はこちら・被害妄想についてはこちら)



中学入学時の「自己紹介事件」(マイナス8→マイナス10)
(概要はこちら)

中学校3年間の「ゲームボーイ依存」(マイナス10→マイナス10)
(概要はこちら)

中学校のクラスにおける「被害妄想的ないじめの予期不安」(マイナス10→マイナス10)
(概要はこちら)

高校入学時に起こった「歓迎会逃亡事件」(マイナス10→マイナス11)
(概要はこちら)

高校1年生の秋に起こった「暴言事件」(マイナス11→マイナス16)
(概要はこちら)



高校1年生の3月に起きた「寄せ書き事件」(マイナス16→マイナス21)
(概要はこちら)

高校2年生の4月に起きた「ホルンパートでの自己紹介事件」(マイナス21→マイナス22) 鬱を完全発症
(事件の概要はこちら・8個の鬱の諸症状はこちら)



高校時代の自分は自分が鬱を発症している事には全く気付いていなかった。しかし、自分が酷く虚しい高校生活を送っている事には気付いていた。そこで来るべき大学生活では高校生活の二の舞を舞いたくないと決意。そして、自分に自信を付けてコミュニケーション能力を改善させる為には、体育会系の部活しかないと考えた。自分は喘息児でスポーツは大嫌いだったのだが、それにあえて取り組む事で、自分が変わるのではないか、と。「荒療治」的な発想。(マイナス22→マイナス22) (詳しい話はこちら)



大学入学後空手部に入部。そして、そこでの稽古の厳しさを乗り越えようと必死に自主練を繰り返すが全く体力が付かない。自分の中で無力感がどんどん増えていき、「被害妄想」がさらに悪化。それにより、空手部の稽古に対して「殺される恐怖」を感じるようになり、夜眠れなくなってしまった。この生活を3年間続けた結果、鬱がさらに3倍に悪化。「鬱の廃人」状態に突入。(マイナス22→マイナス66)
(この時代の12個の鬱の諸症状はこちら)



大学3年生でカウンセリングを受け始めるも、鬱の諸症状の辛さをほとんど喋る事が出来ず、短期的には何のポジティブな効果も得られず。(マイナス66→マイナス66)(詳細はこちら)



大学空手部引退後も、トレーニングという名の「無意識の自傷行為」を続けてしまい、鬱が全く回復しない(マイナス66→マイナス66)(詳細はこちら・大学空手部引退後の「鬱の廃人」状態はこちら)



大学空手部引退後、自分の居場所を作ろうと、ロックダンス教室、タップダンス教室、ファミレスバイト、自動車教習所にチャレンジするも、全く周りとコミュニケーションが取れず、全て挫折(22歳)(マイナス66→マイナス71)(概要はこちら)



1つ目の大学を中退し、2つ目の大学で大学生活をやり直す。しかし、半年でクラスと手品サークルの人間関係から脱落。その後タップダンス教室や大学の体育の授業でも人間関係を作れず、大学生活が破綻(23歳)。(マイナス71→マイナス76)(概要はこちらこちら)



大学を1年間休学し、比較的穏やかに過ごす(24歳)。(マイナス76→マイナス76)
(概要はこちら)


大学休学中、家の中に「居場所」「安心」「暖かさ」を求め、15年間続く両親の喧嘩の仲裁に動く。しかし、母親の心の中には15年間に渡って蓄積した「父親への不信感」が膨大に存在し、説得が全く通じない。自分は次第に仲裁を諦め、無力感を感じるようになっていった。そして、いつまでも父親の糾弾を続ける母親に対して、憎しみがどんどん増えていった。(マイナス76→マイナス78)(概要はこちら)

2つ目の大学に復学し、和楽器サークルに居場所を作ろうとするも、やはり周りの学生と全くコミュニケーションが取れず、3ヶ月で大学生活から脱落(25歳)。(マイナス78→マイナス83)(概要はこちら)



2つ目の大学の復学に失敗後、再起をかけて古本屋バイトに取り組むも、「被害妄想」と「鬱の諸症状」が酷く、1年半で支店を撤退。その後、残った本店での人間関係もどんどん厳しくなっていった(27歳)。(マイナス83→マイナス88)(概要はこちら)



現実世界で挫折を重ねれば重ねる程、自分の心の中では家の中に「暖かな居場所」を求める気持ちが激しくなっていった。しかし、母親は相変わらず父への糾弾を続けており、家の中は相変わらず戦争状態。これにより母親への憎しみはさらに増大し、「殺したい」程の憎しみを感じるようになっていった。(マイナス88→マイナス93)
(詳細は こちら)


自分が大学復学に失敗し、古本屋バイトでも挫折し続ける間、妹の方は海外ホームステイに成功したり、新しい彼氏が出来たりで、充実した生活を送っているようだった。それに対する劣等感がすごい勢いで増大(27歳)。(マイナス93→マイナス98)(概要はこちら)



2003年10月のある日、尿管結石が発症し、あまりの痛みに父親に助けを求めるが、父親から「こんな時だけ頼りやがって!!」という血も凍るような暴言を吐かれる(27歳)。その後病院に担ぎ込まれ、そこでも甚大な精神的・肉体的苦痛を受ける事となった。この事件により、鬱は大学空手部時代の2倍にまで悪化。よってメンタル数値はマイナス66×2=マイナス132。(マイナス98→マイナス132)(ダメージの詳細はこちら)



2003年10月に起きた「尿管結石事件」により自分の中での父親な対する憎しみは「殺したい」程にまで悪化した。同様に妹に対する憎しみも「殺したい」程にまで悪化。母親に対しては元々「殺したい」程の憎しみを感じていた。よって、この事件によって自分は家族全員に対して「殺したい」程の憎しみを感じるようになっていた。(マイナス132→マイナス132)(詳細はこちら)



2004年の4月頃、最後の頼みの綱であった古本屋バイトからも脱落寸前になっており、いよいよ社会からの脱落が差し迫ってきていた(28歳)。そこで自分の中には以下の疑問が浮かび上がってきた。


「何故に自分の人生はどこにも居場所が作れず、社会から脱落する羽目になってしまったのか??」


自分はこの疑問の心の底から欲していた。そこで最初は親との会話の中でこの疑問を解こうと試みたが、すぐに挫折。そこで過去の記憶をノートに書く事で上記の謎を解く事を思い付いた。ここから自分は、バイトと並行して記憶の言語化作業をしていく事となった。この作業は大学時代の6年間に渡るカウンセリング受診経験を、セルフカウンセリングとして派生させたものでもあった。当時の自分はこの作業を「記憶のサルベージ」と呼んだ。(詳細は こちら )(マイナス132→マイナス132)



2004年9月、いよいよ社会生活から脱落し、引きこもり状態に陥った(28歳)。ここからは起きている時間の全てを記憶のサルベージに費やし、この作業を進めていった。しかし、記憶のサルベージはトラウマの再体験を意味しており、自分のこれまでの人生はトラウマまみれ。よってトラウマの再体験が延々と続き、その精神的苦痛はまるで拷問のようだった。(詳細はこちら)(マイナス132→マイナス132)




2005年1月、記憶のサルベージが折り返し地点に到達(29歳)。この時点で大学空手部時代と小学校3年生の頃の記憶はほぼ言語化完了。しかし、当時の自分は折り返し地点に到達している事に全く気付いておらず、先の見えない戦いに絶望感を感じていた。一方それまでの記憶のサルベージにおいて、自分に関する重大な発見が次々に見つかり、その一つ一つに目から鱗な感動と知的興奮を感じていた。(記憶のサルベージ前半戦における9個の発見はこちら) (マイナス132→マイナス132)



2005年1月頃、「父親突入事件」発生(29歳)。父親が無理矢理自分の部屋に突入してこようとしてきて、被害妄想による凄まじい精神的ダメージを受ける事となった。また、引きこもり中には、ワールドカップの日本代表戦が行われ、それを観戦する母親と妹に対して凄まじい殺意を感じていた。この2点を含む、引きこもり中の9個の鬱の諸症状はこちら(マイナス132→マイナス132)



2005年6月頃、記憶のサルベージの後半戦が終わる(29歳)。後半戦で言語化した記憶は、小学校3年生〜高校3年生までの記憶。ここでも自分に関する大きな発見が次から次に見つかっていった。後半戦で見つかった8個の発見はこちら (マイナス132→マイナス132)



2005年8月頃記憶のサルベージの終盤戦が終わる(29歳)。ここで言語化した記憶は、小学校3年生以前の記憶と喘息に関する記憶。終盤戦で見つかった5個の発見はこちら (マイナス132→マイナス132)



2005年8月頃、記憶のサルベージがいよいよ終わろうとしていた(29歳)。そもそも自分がこの記憶のサルベージを始めたきっかけは、以下の疑問の答えを心の底から欲していたからだった。

「何故に自分の人生はどこにも居場所が作れず、社会から脱落する羽目になってしまったのか??」


そして、自分は1年5ヶ月の間ひたすら自分の過去をノートに書き続け、上記の発見をしていった。そして、上記の発見の数々によって、上記の謎の答えが導かれていった。その答えとは


「小学校3年生以降、家庭環境が戦争状態に陥っていたから」。


自分はこの答えに大満足し、大納得していた。これによって自分は「自分に対する自信」を一部分大きく回復させる事となった。それはこのような感情によるものだった。


「自分の人生が28年目にして社会から脱落する羽目になってしまった原因は、『自分自身が生まれつき大幅に劣っている人間だったから』ではない!『小学校3年生以降家庭環境が戦争状態に陥ってしまったから』なんだ!!」(詳細はこちら)(マイナス132→マイナス132)



2005年8月頃、記憶のサルベージがいよいよ終わろうとしていた(29歳)。1年5ヶ月に及ぶ記憶のサルベージの結果、大満足で大納得な答えを手にしていたし、もはやまだ言語化していない記憶が思い出せなくなっていた。すると自分の心の中に、この1年5ヶ月に及ぶ記憶のサルベージの内容をカウンセラーの先生に聞いて貰いたいという衝動が生まれた。そこで、自分はカウンセリング代と生活費をパチンコで稼ぐ生活を思い付いた。自分がこれまでの人生において唯一自信とプライドを持っていたのが、パチンコのスキルだった。よってパチンコで稼いだお金でカウンセリングに通うというアイデアは、これ以上ないアイデアだった。自分はまず1年5ヶ月に及ぶトラウマまみれの生活から抜け出られる事が嬉しくてたまらなかったし、さらに新しい生活がカウンセリングとパチンコを組み合わせた生活である事も嬉しくてたまらなかった。(詳細はこちら) (マイナス132→マイナス132)



記憶のサルベージの1年5ヶ月を終えて、自分は「自分に対する自信」を限定的に回復させた。しかし、一方で以下の2つに関しては全く回復しなかったし、むしろ悪化してしまった印象すらある。


・病的(×6倍)な被害妄想と鬱の諸症状(引きこもり中の被害妄想と鬱の諸症状はこちら)


・家族に対する「殺したい」程の憎しみ


故に記憶のサルベージによるプラスの効用は上記の2つのマイナスの効用と打ち消しあってしまい、トータルで考えると「自分に対する自信」を回復させる事は出来なかった。つまり、記憶のサルベージを終えた時点でのメンタル数値は、記憶のサルベージ直前と同じ「マイナス132」のまま。(詳細はこちら)(マイナス132→マイナス132)



2005年の9月から再びカウンセリングに通い始めた。そこでこれまでの記憶のサルベージの話を馴染みのカウンセラーH先生に聞いて貰い続けた。カウンセリングは週に1回1時間ペースで行われたのだが、自分は次回のカウンセリングが毎回待ち遠しくてたまらなかった。(詳細はこちら)



自分はカウンセリングを再開させると同時にカウンセリング代と生活費を稼ぐ為にパチンコ稼業も復活させた。自分はここから毎日のようにパチンコ屋に通い、朝から晩までパチンコを打ち続けた。稼ぎの方は順調に推移し、ここから半年間でおよそ180万程稼ぐ事となった。このカウンセリング&パチンコ生活にはかつて無い程のやり甲斐と充実感があったのだが、一方で鬱の諸症状の辛さも半端では無かった。(当時の鬱の諸症状はこちら)自分の中では、鬱の諸症状の辛さより日々の充実感の方が辛うじて上回っていたので、ギリギリなんとかこの生活を続けていけていた。(マイナス132)



そんな日々が1〜2ヶ月続いた頃、急に父親が自分の部屋にやってきて、「もしかしたらこの先引っ越しをするかもしれないから、考えておいてくれ。」と言い出した。これにより自分の心の中には凄まじい憎しみの嵐と不安の嵐が発生。その嵐を構成する①〜⑥の理由は こちら (マイナス132→マイナス137)



そして、自分は暴力衝動をコントロール出来なくなり、家の中でモノに激しく当たるようになった。そんな状態が半年間続いた結果、「東○荘事件」が発生。(2006年3月頃・30歳)(東○荘事件の詳細な経緯はこちら )この事件により、自分の心の中には以下の2つの致命的な精神的ダメージが加わった。


❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪 (自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」をお読み下さい。)


❷ 「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想(詳細はこちら


(マイナス137→マイナス177)


さらに東○荘事件後、両親が引っ越しの決行を決めた事で、自分は以下の精神的ダメージも受ける事となった。


・東○荘事件の後、両親が引っ越しの決行を決めた事による、過去に例を見ない程の挫折感と虚無感。

(マイナス177→マイナス207)


つまり、自分は今回の引っ越し及び東○荘事件によって、上記①〜⑥+❶❷+1の9個の致命的な精神的ダメージを受けた、ということになる。この時の自分が受けた精神的ダメージ量は「中指の拷問」一回分を余裕で超える。(中指の拷問の詳細はこちら。) (マイナス207→マイナス217)



このように自分は引っ越し及び東○荘事件により、9個の致命的な精神的苦痛を受ける事となった。その後自分は断腸の思いで引っ越しについて行く事を決断したのだが、その準備の最中に、その余りの精神的苦痛で自分の正気が失われ、「自殺」すら出来なくなる事態を恐れた。そこで自分は自分の部屋に「首吊り装置」を設置し、自分が正気を失いそうになったら、これを使ってこの世から離脱する事を決意。この「首吊り装置」は自分にとっては「最終安全装置」の意味があった。(マイナス217→マイナス217)



その後自分はこの「最終安全装置」を唯一の心の支えにして、引っ越し準備を進めた。そう、家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪を必死に抑えて、引っ越し準備を進めたのだった。そして、とうとう引っ越し当日を迎え、その後引っ越し作業はほぼ完了。(引っ越し当日の経緯はこちら)これにより自分の心の中にはかなりの安堵感と達成感が発生した。「首吊り装置」を使わずに済んだのだから、かなりの安堵感が発生するのは当然の流れだった。(マイナス217→マイナス264)



一方で引っ越し後の自分は極度の虚脱状態と放心状態にも陥った。何故なら、引っ越し及び東○荘事件によって自分は上記9個(①〜⑥+❶❷+1)の致命的な精神的ダメージを受ける事となったから。これにより、自分の鬱はさらに2倍悪化。自分は引っ越しの前から「鬱の廃人」×2倍状態にあったのだが、これがさらに2倍に悪化。つまり、「鬱の廃人」×4倍状態に突入したのであった。



そして、「引っ越し及び東○荘事件」の経緯を端的にまとめるとこうなる。


引っ越し「以前」の状態


「鬱の廃人」×2倍状態
= 「引きこもり中の9個の鬱の諸症状」
=メンタル数値「132」



↓ 引っ越し及び東○荘事件による9個の(①〜↓⑥+❶❷+1)の致命的な精神的ダメージにより↓鬱がさらに2倍悪化


引っ越し「後」の状態


「鬱の廃人」×4倍状態
= 「引きこもり中の9個の鬱の諸症状」×2倍状態
=「極度の虚脱状態と放心状態 」
=メンタル数値「マイナス132×2=マイナス264」


そして、引っ越し後の自分が陥った「極度の虚脱状態と放心状態」、これを構成する8つの鬱の諸症状⑴〜⑻の詳細はこちら


(マイナス132→マイナス264)



引っ越し後の自分は、⑴〜⑻の鬱の諸症状によって「極度の虚脱状態と放心状態」に陥っていた。よって、引っ越しから1ヶ月後、自分がパチンコ稼業を再開出来る状態では全く無い事に気付いた。これにより月30万円の稼ぎが消滅。 (マイナス264)



そこで自分は両親にその補償(月6万円)を求める事を思い付くが、自分にとって両親は「殺しても殺し足りない」程の憎い存在。本来ならコミュニケーションは絶対的にあり得ない。しかし、両親に補償を求めなければ、自分の貯金を取り崩して生活費を捻出する事になり、それもまた気が狂う程の精神的苦痛。引っ越しの後の自分はこのような致命的な自己矛盾に陥った。(詳しい話はこちら) (マイナス264)




自分は上記の自己矛盾をノートに書き殴っていった。その結果、⑻「首吊り装置の作動」も視野に入れた上で、両親に対してパチンコ稼業の補償を求める事を決めた。(マイナス264)



さらに自分は両親のどちらに補償を求めるのか、それを考えていった。その思考の経緯はこちらの記事。その結果、導かれた最終結論は以下の通り。



「首吊り装置」の作動を念頭に置きながら、「母親」にパチンコ稼業の補償(月6万円)を求める。

(マイナス264)


何故月6万円だったのか、その理由は以下の通り。


・引っ越し後の自分の心身は「極度の虚脱状態と放心状態」に陥っていた。故に「働かずに食べて寝て」を繰り返しているだけの生活でも、⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛に襲われ続け、命懸けの生活だった。こんな状態ではお金を使う余裕は無く、使っても月1〜2万円。よって月6万円貰えば、とりあえずは満足という状態だった。


・自分は引っ越し前はパチンコ稼業で月30万円を稼いでいたのだが、その期間でさえ生活費は月4万円で足りていた。当時は月4万円で生活し、カウンセリング代に月4〜5万円、残りはすべて貯金してきた。よって、生活費は最大でも月4万円で足り、さらに2万円くらい貯金できれば満足という状態だった。



上記の最終結論に辿り着いてから4〜5日の間、自分は母親と交渉するにあたって、決死の覚悟を決めなければならなかった。もし母親との交渉が失敗すれば、「首吊り装置」の作動が目に見えていたし、他にも「家に灯油を撒いて放火する」、「母親に対して加害する」可能性も高かった。よって、交渉する為の覚悟を決めるのに4〜5日間かかった。(マイナス264)



そして、4〜5日後、自分は決死の覚悟で母親との交渉に臨んだ。これだけの覚悟が必要な交渉だったが、いざ交渉してみると、母親はあっさりと月6万円の補償を了承。自分は自分の部屋に戻ると、大きく息を吐き、かなりの安堵感に包まれたのだった。(マイナス264)



その後の自分は、ベッドで1日20時間磔(はりつけ)状態が続く生活を送っていった。それは⑴〜⑻の致命的な心身の苦痛と戦い続け、死に物狂いの日々。そして、残りの4時間はベットから出て、ラジオを聞いたり、ゲームをしていた。
(マイナス264)




仕事を一切せず、ただ食べて寝てだけを繰り返すだけの日々が過ぎていった。それは何の希望も展望もない日々であり、「自殺しないで生きる」だけで精一杯の日々。⑴〜⑻の苦痛の中でも⑻の苦痛は特に強く、自分は何度も自殺の誘惑に誘われ、その度ごとにノートにその気持ちを書いていった。そして、そこで「自殺するか」「生きるか」を天秤にかけていった。そして、辛うじて「生きる」選択をギリギリ選んでいる、そんな選択が続いていった。
(マイナス264)



この頃になるとカウンセリングには通うのは辞めてしまっていた。なぜなら⑴〜⑻の「極度の虚脱状態と放心状態」の前では、カウンセリングに行く気力さえ失われていた。代わりに心療内科にでも通って、抗うつ剤でも飲もうかと思ったが、結局は行かず。自分はどんなに自殺願望が強くなっても、それを薬で紛らわしたくないと考えていた。薬で紛らわせてしまうと、ノートにその気持ちを正確に書けず、正しい記録が残らないと考えていた。
(マイナス264)





引っ越ししてから9ヶ月間、上記のような「ベッドに磔(はりつけ)生活」が続いた。
(マイナス264)



2007年3月、「花粉症発症→ぎっくり腰事件」発生。この事件は、花粉症発症をきっかけにして、ぎっくり腰を発症した事件。(この事件の詳細なフローチャートこちら)これにより、自分の鬱状態はさらに1.5倍に悪化。これは引っ越し後の「極度の虚脱状態と放心状態」がさらに1.5倍悪化した事を意味する。

(マイナス264→マイナス396)



上記9つの精神的苦痛(①〜⑥+❶❷+1)も1.5倍に悪化。

(マイナス396)


引っ越し直後の『「鬱の廃人」×4倍状態』も『「鬱の廃人」×6倍状態』にまで悪化。


(マイナス396)



家族に対する憎悪も、「殺しても殺し足りない」「程」から「殺しても殺し足りない」「以上」にまで激化。

(マイナス396)



2007年10月、隣の家が犬を飼い始めた事で、自分の精神は過去最大に追い詰められる事となった。何せ当時の自分は病的(×18倍)な被害妄想に苦しんでいた。自分が苦しんでいた致命的な精神的苦痛は以下の3つ。


・「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×18倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)

・引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×18倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)


・両親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪

(マイナス396)



上記3つの精神的苦痛によって自分の精神は犬の鳴き声の幻聴が聞こえる程に追い詰められる事となった。そして、自分はその致命的な恐怖により睡眠をまともに取る事が出来ない。これによって、自分の心身は究極的に衰弱し、当然ながら「自殺」という選択肢が意識に登った。(マイナス396)



自分は幻聴による苦しみや自殺という選択肢についての思いをノートに書き殴った。するとこのような思いになっていった。「自殺する前に母親と喋ってみるのはどうだろう?」、と。(マイナス396)




さらに自分はノートを書いていった。

「どのようにして自分の精神を壊れていったのか、それまでの31年間のトラウマ全てを母親に洗いざらいぶち撒けてみるのはどうだろう?」


「どうせ自殺するなら、これまでなら絶対に不可能だった事に挑戦し、それで駄目ならその時こそ死ねばいいじゃん」

(マイナス396)


しかし、「母親と喋る」という選択肢は、当時の自分にとって三重の意味で狂った選択肢だった。その理由は以下の通り。


①当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。


②そこで喋ろうというのは、「自分のトラウマまみれの31年間」。自分は小、中、高、大学と、人間関係に挫折し続け、鬱を悪化させていった。そんな全くもって思い出したくもないトラウマ全てをよりによって母親に喋るという事。

③ 自分の全てのトラウマを母親に喋って聞かせるという事は、膨大な時間がかかる事も容易に想像出来た。少なく見積もっても2〜3ヶ月はかかる。「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じている人間と膨大な時間を過ごすという事。

(マイナス396)


自分は上記の気持ちを2週間かけてノートに書き殴っていき、どちらの選択肢を選ぶのか、考えていった。そして、最終的に辿り着いた結論は以下の通り。


「『母親に31年間のトラウマ全てをぶち撒ける』という選択肢は三重の意味で狂っている。しかし、どうせなら首を吊る前に、この気が狂いまくった選択肢を試してみてもいいかもしれない」

(マイナス396)


2007年10月、自分はとうとう母親と喋り始めた。自分は小学校時代のトラウマから始まり、中学、高校、大学のトラウマ事件の数々を母親に喋っていった。(それぞれの事件の詳細は、このブログのトップ記事「「人生年表と鬱のフローチャート」参照)

(マイナス396)


自分は最初の日は5〜6時間母親と喋り、その後も毎日2〜3時間母親と喋り、トラウマの数々をぶち撒けていった。

(マイナス396)


しかし、自分のトラウマエピソードを聞いている際の母親のリアクションは、期待していたものとは全くかけ離れていた。自分としては母親から「大変だったね。」や「すまなかったね。」というリアクションを期待していたのだが、実際には母親からこれらのリアクションは皆無。ほとんどの時間、母親は自分の話に対してノーリアクションだった。母親からの質問は全くなく、相槌さえない。自分は壁に向かって一人で喋っているような状態だった。

(マイナス396)


しかし、現在の自分(2022年7月)は、この時の母親のノーリアクションには仕方がない部分があったと考える。それは以下の3つ。


「母親のノーリアクションが仕方がなかった理由」


①2007年の自分は、現在の自分(2022年7月)と比べると、過去の記憶への理解の深さが50%程度しかなかった。


②2007年の自分は、母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。


③2007年の自分が感じていた母親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪、これは母親からすると「濡れ衣」であった。

(マイナス396)


このように自分はほぼ毎日2〜3時間を使い、8ヶ月間に渡って母親にトラウマを喋り続けた。自分は母親のノーリアクションに対してかなりの虚無感と悲しさを感じていたのだが、一方では以下の希望も抱いていた。


「ほんの1ミリでも当時の自分の悲しみが母親に伝われば、それで良い」


「もしかしたら母親は最初は全く理解出来なくても、話が進むにつれて、理解出来る様になるかも」

(マイナス396)


しかし、実際にはこの8ヶ月間で母親が自分のトラウマに感情移入する事は一切無かった印象。



2008年6月頃、自分は自分のトラウマを一通り喋り終えた。すると意外な事に、今度は自分の中に母親の人生への興味が湧いてくる事となった。自分はそれまでの32年間母親の人生に興味を持つ事など一切無かったのだが、ここに来てそれが猛然と沸き始めた。

(マイナス396)


母親の人生を聞く前、自分はこう予想していた。「自分は幼い頃から母親の暗い顔しか見た事がない。という事は母親という人間は、幼い頃から暗い人間だったのだろう。だから母親の子供の自分も、暗い少年時代を過ごす事になったのだ。」、と。

(マイナス396)


また、母親の人生を聞く前、自分は「家庭内の責任問題」について、こうも考えていた。「家庭内の責任問題」とは、自分が小学校3年生の時に家庭内が戦争状態に陥り、それが10年以上続いた事に対する責任問題。これが原因で自分は学校生活で挫折し続け、引きこもる事になってしまった。

(マイナス396)



自分はこの責任問題に関して父親と母親それぞれに50%ずつあると感じていた。この2人が作り上げた家庭環境なのだから、それぞれに50%ずつ責任がある、という考え方だった。

(マイナス396)


このような思いで自分は母親の人生を詳細に聞き始めた。するとそこには自分が全く予想していなかった人生が広がっていた。そう、母親の子供時代の話を聞いた所、それはとても無邪気で明るいものだった。子供時代の母親は、友達や姉と一緒に野山を駆け回り、周りの大人達に可愛がられ、絵に描いたような子供らしい子供時代を送っていた。そのような牧歌的な子供時代は、自分には全く無かったものだった。自分の子供時代と言えば、物心ついた頃には喘息を発症しており、全く運動が出来ず、友達と楽しく遊んだ記憶もほとんどない子供時代。

(マイナス396)



また、その後自分は母親の学生時代、社会人時代の話も詳細に聞いていったのだが、父親と結婚するまでは、闇の要素は特に無かった。

(マイナス396)



自分は母親の人生を一通り聞いた後、半年程時間を置き、今度は父親に自分の31年間のトラウマを喋り始めた。これも全て喋り終わるまでに半年間くらいかかった記憶。その後、今度は父親の人生を3〜4か月かけて詳細に聞いていった。すると、そこで語られた話は、自分の想定を上回る程の闇深い子供時代、学生時代、家庭環境の話だった。



つまり、自分が両親の人生を詳細に聞いていった結果、以下の結論に至った、という事になる。


母親の人生→予想に反してとても明るく、牧歌的な子供時代を送っていた。学生時代、社会人時代も父親と結婚するまでは、闇の要素は特に無し。


父親の人生→予想を超える闇深い人生。子供時代も学生時代も育った家庭環境も全てが闇深い。キーワードは「引きこもり」「超学歴偏重」「新興宗教」「オカルト」「大学を6年間休学」。



このような話を聞き続ける中で、徐々に先程の責任問題の考え方が変わっていった。それはどういう事かと言うと、自分が考える母親の責任の割合が50%から徐々に下がっていったのだった。今現在(2022年7月)それは10%まで下がっている。これは言い換えると2008年の自分が母親に対して感じていた「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪は、ほぼ見当違いの間違いだったという事。これが上記「母親のノーリアクションが仕方がなかった理由」の③に繋がっていく事になった。

(マイナス396)



今回の「犬の鳴き声の幻聴→母親と喋り始める事件」におけるメンタル数値の増減は「0」。これはメンタル数値の増減が無かったからではなく、増える要素と減る要素が同程度発生し、結果±0という結果となった。メンタル数値が増える要素と減る要素は以下の通り。



①メンタル数値が増える要素:トラウマの数々を母親に喋っている、という状態。何故なら自分は28歳〜29歳の時に1年間引きこもり、自分のトラウマをひたすらノートに書いていく作業をしていた。そして、全てのトラウマをノートに言語化し、その上でそれらのトラウマの因果関係を繋いでいく作業もしていた。これらの作業によって「自分の人生を誰かに喋りたい!!」という激しい衝動が生まれていた。そして、母親という存在はこの衝動をぶつけるのにこれ以上なく最適な存在だった。母親は自分の人生において最も近くにいた「当事者」であり、自分の人生を2度ぶち壊した「責任者」でもあった。



②メンタル数値が増える要素:自分は母親と喋る事で「もしかしたら母親は自分のトラウマを理解してくれるかもしれない」という「希望」を持つ事が出来た。「もしかしたら母親は最初は自分のトラウマを理解出来なくても、話が進むにつれて、理解出来る様になるかもしれない」、と未来に希望を持つ事が出来た。ただし実際にはこの半年間で母親が自分のトラウマに対して理解や同情や謝罪の言葉を発する事はただの一度も無かった。母親が自分のトラウマを理解するには、ここから15年の年月が必要だった。




③メンタル数値が減る要素:自分は母親に自分のトラウマを喋り続けたのだが、それに対する母親のリアクションはほぼ皆無。慰めや謝罪の言葉などは一切なく、質問や相槌さえない。自分は3〜4ヶ月間壁に向かって一人で喋り続けているようなものだった。当時の自分は母親のそんなリアクションに対して致命的な虚無感を感じていた。



④メンタル数値が減る要素:当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。故にその憎悪を母親と喋っている最中、必死に必死に抑えなければならなかった。これによる精神的消耗もかなりのものがあった。また、それを抑えきれず、母親と激しく喧嘩する事も多々あった。これによる精神的消耗もかなり激しかった。



このようにこの期間にはメンタル数値にプラスの要素、マイナス要素それぞれがあり、それぞれを差し引きすると「0」という事になる。つまり、「①+②-③-④=0」。


(マイナス396→396)