皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「花粉症発症によって、両親に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪がさらに激化[花粉症発症→ぎっくり腰事件④](過去編・2007年3月・31歳)」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事も、自分が31歳の春に花粉症を発症し、頭を鈍器で思い切り殴られたかのようなショックを受けた、という話でした。自分は前年の6月に新しい家に引っ越しをしていました。そして、その真裏には青々とした杉林が茂っていたのです。その杉林が花粉症発生の原因である事は明白でした。
ここからは前々回の記事をそのまま引用したいと思います。当時の自分の絶望と憎悪、そして鬱の諸症状の説明になっています。
『前々回記事からの引用』
そう、自分は以前の家では花粉症とは全く無縁の暮らしを16年間送っていました。以前の家は住宅地の中の一軒家でしたから、周りには杉は一本もありませんでした。そして、新しい家に引っ越した途端の花粉症発症です。原因が真裏の杉林にある事は明白でした。現に新しい家の玄関はそこから飛んできた花粉症でまっ黄色になっていたのです。
そして、前回の記事に書きました通り、この花粉症の症状自体はシリアスなものではありませんでした。水っぽい鼻水が止まらず、鼻の周りが痒いくらいの軽い症状だったのです。しかし、この花粉症の発症は自分にとって頭を鈍器で思い切り殴られたかのようなショックがありました。その原因は「引っ越し」です。自分は前年の6月に強行された両親の引っ越しによって、以下の8つの致命的な精神的苦痛を受け続ける事となったのです。この8つの致命的な精神的苦痛は「①〜⑥+❶❷+1」、という構成です。
「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その6つの理由」(前提として当時の自分は実家暮らし)
①そもそも当時の自分は両親に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照。) よって自分と両親とはこの1年以上全くコミュニケーションが無い状態が続いていた。そんな状態で両親が急に「引っ越し」という一大イベントを言い出してきたことが許せない。自分には「引っ越しをしたい」という気持ちが1㎜もない。
②もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、家族とのコミュニケーションは避けられない。そして、当時の自分は家族に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。よって、家族とコミュニケーションを取らざるを得ない状況を強制的に作り出された事に対する凄まじい憎しみ。
③もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、そこに自分の時間やエネルギーを割かなければならなくなる。その事に対する凄まじい憎しみ。何故なら、当時の自分はそれまでの29年間の人生を、両親によって全て搾取されたような感覚を持つに至っていた。よって、両親に人生を搾取された上に、さらに引っ越しで時間とエネルギーを搾取されそうな事が気が狂いそうな程の憎悪を発生させていた。
④当時の自分の心身は長年の孤独によって、「鬱の廃人」×2倍状態に陥っていた。「被害妄想」は病的(×6倍)に悪化していたし、日々の心身の辛さも半端ではなかった。(当時の鬱の諸症状はこちら)当時の自分はカウンセリング&パチンコ生活をしていたが、それは心身ともにギリギリな状態でなんとか日々を過ごしている状態。こんな状態で「望まない引っ越し」や「望まない一人暮らし」をするエネルギーがあるはずもなく、それに対する凄まじい不安と憎しみも発生していた。
⑤当時の自分は1年間の引きこもり生活を終え、ようやく外の世界に出れるようになっていた。そこで新しく始まった生活は、週1回カウンセリングを受け、そのカウンセリング代と生活費を稼ぐ為に週4〜5回パチンコで稼ぐ生活。この生活は「鬱の廃人」状態に陥っていた自分にとってかなりの心身の苦痛を伴うものだったが、一方でそれ以上のやり甲斐と希望もこの生活に感じていた。それは自分が29歳にしてようやく掴んだ自分らしい日々だった。しかし、両親が引っ越しを言い出した事で、この明るい日々はたった2ヶ月で終わってしまった。自分は引っ越しがもたらす凄まじい憎しみと絶望と不安と悲しみに打ちひしがれ、再び人生の先行きが全く見えない状態に陥ってしまった。これによる、恨みも凄まじいものがあった。
⑥当時の自分は自分の部屋に並々ならぬ愛着を感じていた。故に引っ越しにより、この部屋を離れなければならない事に対して、身を裂かれるような精神的苦痛を感じていた。自分の部屋への愛着の理由は以下の3つ。
⑴28〜29歳の自分は1年間部屋に引きこもり続けており、病的(×6倍)な被害妄想を発症していた。その被害妄想とは家族に向けられたものであり、「父親に殺されるのではないか?」「妹の出すドア音で眠る事が出来ず、衰弱死させられるのでは??」といったもの。そして、「自分の部屋」だけが、「父親」や「妹の出すドア音」から自分を1年間守り続けてくれた、そんな感覚を持っていた。
⑵引きこもりの1年間を経て、自分は限定的にだが、「自分に対する自信」を大きく取り戻す事に成功していた。それは引きこもり前の状態と比べると生まれ変わったかのようなポジティブな変化だった。そして、その生まれ変わりが起きた場所は「自分の部屋」に他ならなかった。つまり「自分の部屋」とは、自分が自分の手で自分の精神を生まれ変わらせた場所。当時の自分にとって自分の部屋は「聖地」のような意味合いを持っていた。
⑶自分はこの部屋には中学2年生の時に引っ越してきて、17年間の時間をこの部屋で過ごしてきた。そして、この17年間はただひたすら孤独と挫折が続き、心身が壊れて行くだけの17年間だった。高校時代の暴言事件によって、日曜夜ごとに激しい喘息に苦しんだのもこの部屋であり、大学空手部の恐怖で夜眠れなかったのもこの部屋。そして、「尿管結石事件」が起きたのもこの部屋。この部屋で自分は17年間孤独と恐怖に苦痛にのたうち回り、心身を壊していった。つまり、30歳の自分は、この部屋に対して「自分の17年間分の悪戦苦闘の歴史が刻み込まれている」という意味での愛着も感じていた。
・❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪 (自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」をお読み下さい。)
・❷ 「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想(詳細はこちら
・東○荘事件の後、両親が引っ越しの決行を決めた事による、過去に例を見ない程の挫折感と虚無感
自分は「引っ越し及び東○荘事件」によって、上記8つの致命的な精神的苦痛を受け続ける事となりました。そして、引っ越し後の自分は「極度の虚脱状態と放心状態」に陥ったのです。ではこの「極度の虚脱状態と放心状態」を8つの鬱の諸症状で説明したいと思います。
「極度の虚脱状態と放心状態」における8つの鬱の諸症状
⑴家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照)
⑵「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)
⑶引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×12倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)
⑷ベッドの中における「意識は覚醒しているのに、まぶたや身体が重くて動かない状態」(詳細はこちら)
⑸当時の自分の体調は、冷え性も病的に悪化しており、真夏日でも部屋の中でエアコンを付ける事が出来なかった。もしベッドで横になっている時にエアコンを付ければ、必ず寝冷えしてしまう。エアコンの設定温度を30度に設定したとしても、寝覚めると身体は氷のように凍え切っており、鼻水はダラダラ、身体は100kgの重りを背負っているかのよう。故に自分は真夏日でもエアコンや扇風機や窓を開けずに眠るしか無かった。(住んでいる場所は神奈川)
当時の睡眠時間は昼夜逆転していたので、自分は真夏日の昼間に室温50度くらいの中で汗をダラダラ流しながら、眠らざるを得ない。そして、2〜3時間寝れたとしても、意識が覚醒すると、⑷の状態に陥り、ベッドから身体を起こす事は出来ない。自分はそこからさらにダラダラ汗を流しながら、1〜2時間ベッドに磔状態。この時の虚脱感や消耗感や絶望感は致命的なものがあった。
⑹上記①〜⑥+1の致命的な精神的苦痛
⑺上記の「極度の虚脱状態と放心状態」で、パチンコ稼業を再開出来るはずも無く、自分は引っ越してから1ヶ月後にパチンコ稼業からの撤退を決意した。これにより、自分の中に筆舌に尽くし難いほどの無力感が発生。これにより「極度の虚脱状態」はますます悪化していった。
⑻上記の7つの諸症状は耐え難い心身の苦痛を常に自分に発生させていた。故にこのような日々の唯一の心の支えが、「首吊り装置」という名の「最終安全装置」だった。この時の具体的な気持ちは以下の通り。
当時の自分は、余りの憎悪や被害妄想や肉体的苦痛に耐えられず、自我を失いそうになったら、さっさと首を吊ってこの世から離脱する事を決意していた。何故なら当時の自分が最も恐れていた事態は以下の事態。
自分の自我が憎悪と被害妄想に飲み込まれてしまい、正気を完全に失い、「自殺」という現実離脱手段すら使えなくなる事態。(具体的には、自分が気が狂った末に、精神病院の閉鎖病棟に隔離され、死ぬまでそこで苦しみ続けるような状態を想定)
自分は引っ越し後、上記⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛にのたうち回る生活を送り続けた。自分は仕事は一切せずにただただ食べて寝るを繰り返すだけの日々を過ごしていった。それは何の希望も展望もない日々であり、「自殺しないで生きる」だけで精一杯の日々だった。
そして、そんな日々が9ヶ月続き、今度は引っ越しが原因で花粉症を発症する事となりました。先程も書きました通り、自分の心はすでに引っ越しによって、「極度の虚脱状態と放心状態」に陥っていました。そして、そこにさらに引っ越しが原因で花粉症が発症したのです。当時の自分にとっては花粉症の症状の辛さ云々よりも、「引っ越しによって新たな病気を発症した事実」の方が何千倍もの精神的ダメージになってしまったのでした。つまり、自分は⑴〜⑻の致命的な精神的に加えて、花粉症発症の精神的ダメージまでも負う事になったのです。
『引用終わり』
なるほど〜。ここから先は前回記事をそのまま引用したいと思います。花粉症発症によって両親に対する憎悪がさらに激化した、という話になります。
『前回記事からの引用』
このように自分は「花粉症発症前から」引っ越しが原因で、ただでさえ⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛に苦しみ抜いていました。そこにきて、さらに引っ越しが原因で花粉症が発症したのです。この花粉症自体は軽微でしたが、当時の自分にとっては「引っ越し」が原因で花粉症を発症した事自体が、筆舌に尽くし難い精神的苦痛であったのです。ですから、自分は家の裏山に杉林を確認した途端、鈍器で思い切り頭を殴られたかのような甚大な精神的ショックを受けたのでした。
これによって自分が両親に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪がさらに激化した事は言うまでもありません。何故ならこの前の引っ越しは両親が強行したものだったからです。
先程の話に戻りますと、自分は新しい家の裏山に杉林を確認すると、自分の部屋に戻ってきました。自分の心は甚大な精神的ショックで茫然自失状態となっていました。その精神的ショックはほとんど全てが両親に対する憎悪です。自分の心の中では両親への憎悪が溢れ返り、もはやそれは余裕で心の器から溢れ返っていました。それどころか、身体の外までも余裕で溢れ出してもいたのです。もはや憎悪の量が自分の心と身体の許容量を大幅に超えていました。 そして、憎悪はノートにその気持ちを書き殴っても全く減る事はありませんでした。
『引用終わり』
なるほど。このように自分は花粉症を発症し、両親への憎悪がさらに激化する事となりました。そう、自分は「花粉症発症以前」から両親に倒して「殺しても殺し足りない」程の憎悪を感じていましたが、それがさらに激化する事となったのです。前回の記事に書きましたように、自分の心の中では両親への憎悪が溢れ返り、もはやそれは余裕で心の器から溢れ返っていました。それどころか、身体の外までも余裕で溢れ出してもいたのです。もはや憎悪の量が自分の心と身体の許容量を大幅に超えていました。
しかし、自分はその溢れ出す憎悪をかつてのようにモノにぶつけたり、両親にぶつける気にはなりませんでした。例え憎悪をモノや両親にぶつけたとしても、また「父親突入事件」や「東○荘事件」のような事件が起こり、憎悪が結局は自分の元に跳ね返ってくる、そんなイメージを 感じていたように思います。
ですから、自分はその溢れ返る憎悪を何一つ消化する事が出来ないままです。花粉症発症に気付いた後、自分は溢れ返る憎悪をノートに2〜3時間書き殴りました。しかしそれは全く減る事はありませんでした。自分は仕方なくその精神状態のままベッドに入る事となりました。しかし、こんな精神状態で眠れるはずがありません。頭の中が憎悪で溢れ返り、覚醒しまくっているのです。自分は朝の5時頃ベッドに入りましたが、いつも以上に寝付きが酷くなり、寝付くまで3〜4時間かかった記憶です。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
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