鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

ぎっくり腰事件の序盤をフローチャートにまとめてみる②[花粉症発症→ぎっくり腰事件⑨]

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 事件の序盤をフローチャートにまとめてみる[花粉症発症→ぎっくり腰事件⑧] 」の続きを書かせて頂きます。




前回の記事も、自分が31歳の春に花粉症を発症し、頭を鈍器で思い切り殴られたかのようなショックを受けた、という話でした。自分は前年の6月に新しい家に引っ越しをしていました。そして、その真裏には青々とした杉林が茂っていたのです。花粉症発生の原因が裏の杉林にある事は明白でした。そして、この花粉症発症により、自分はぎっくり腰を発症する事となりました。このブログではこの一連を「花粉症発症→ぎっくり腰事件」と呼んでいます。




まずはこの「花粉症発症→ぎっくり腰事件」に至るまでの「前フリ」部分を確認したいと思います。



「花粉症発症→ぎっくり腰事件」の前フリ



この前フリは「花粉症発症以前」の自分の憎悪と絶望をまとめてあります。その憎悪と絶望とは、 「引っ越し及び東○荘事件」で最大化した絶望と憎悪です。この憎悪と絶望は9個に分かれます(①〜⑥+❶❷+1)。そして、それらによって引っ越し後の自分は「極度の虚脱状態と放心状態」に陥りました。この「極度の虚脱状態と放心状態」の説明が次に続きます。この説明は8個に分かれています(⑴〜⑻)。これらは以前の記事でまとめたモノです。



「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その6つの理由」(前提として当時の自分は実家暮らし)



①そもそも当時の自分は両親に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照。) よって自分と両親とはこの1年以上全くコミュニケーションが無い状態が続いていた。そんな状態で両親が急に「引っ越し」という一大イベントを言い出してきたことが許せない。自分には「引っ越しをしたい」という気持ちが1㎜もない。



②もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、家族とのコミュニケーションは避けられない。そして、当時の自分は家族に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。よって、家族とコミュニケーションを取らざるを得ない状況を強制的に作り出された事に対する凄まじい憎しみ。




③もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、そこに自分の時間やエネルギーを割かなければならなくなる。その事に対する凄まじい憎しみ。何故なら、当時の自分はそれまでの29年間の人生を、両親によって全て搾取されたような感覚を持つに至っていた。よって、両親に人生を搾取された上に、さらに引っ越しで時間とエネルギーを搾取されそうな事が気が狂いそうな程の憎悪を発生させていた。




④当時の自分の心身は長年の孤独によって、「鬱の廃人」×2倍状態に陥っていた。「被害妄想」は病的(×6倍)に悪化していたし、日々の心身の辛さも半端ではなかった。(当時の鬱の諸症状はこちら)当時の自分はカウンセリング&パチンコ生活をしていたが、それは心身ともにギリギリな状態でなんとか日々を過ごしている状態。こんな状態で「望まない引っ越し」や「望まない一人暮らし」をするエネルギーがあるはずもなく、それに対する凄まじい不安と憎しみも発生していた。



⑤当時の自分は1年間の引きこもり生活を終え、ようやく外の世界に出れるようになっていた。そこで新しく始まった生活は、週1回カウンセリングを受け、そのカウンセリング代と生活費を稼ぐ為に週4〜5回パチンコで稼ぐ生活。この生活は「鬱の廃人」状態に陥っていた自分にとってかなりの心身の苦痛を伴うものだったが、一方でそれ以上のやり甲斐と希望もこの生活に感じていた。それは自分が29歳にしてようやく掴んだ自分らしい日々だった。しかし、両親が引っ越しを言い出した事で、この明るい日々はたった2ヶ月で終わってしまった。自分は引っ越しがもたらす凄まじい憎しみと絶望と不安と悲しみに打ちひしがれ、再び人生の先行きが全く見えない状態に陥ってしまった。これによる、恨みも凄まじいものがあった。




⑥当時の自分は自分の部屋に並々ならぬ愛着を感じていた。故に引っ越しにより、この部屋を離れなければならない事に対して、身を裂かれるような精神的苦痛を感じていた。自分の部屋への愛着の理由は以下の3つ。


⑴28〜29歳の自分は1年間部屋に引きこもり続けており、病的(×6倍)な被害妄想を発症していた。その被害妄想とは家族に向けられたものであり、「父親に殺されるのではないか?」「妹の出すドア音で眠る事が出来ず、衰弱死させられるのでは??」といったもの。そして、「自分の部屋」だけが、「父親」や「妹の出すドア音」から自分を1年間守り続けてくれた、そんな感覚を持っていた。


⑵引きこもりの1年間を経て、自分は限定的にだが、「自分に対する自信」を大きく取り戻す事に成功していた。それは引きこもり前の状態と比べると生まれ変わったかのようなポジティブな変化だった。そして、その生まれ変わりが起きた場所は「自分の部屋」に他ならなかった。つまり「自分の部屋」とは、自分が自分の手で自分の精神を生まれ変わらせた場所。当時の自分にとって自分の部屋は「聖地」のような意味合いを持っていた。


⑶自分はこの部屋には中学2年生の時に引っ越してきて、17年間の時間をこの部屋で過ごしてきた。そして、この17年間はただひたすら孤独と挫折が続き、心身が壊れて行くだけの17年間だった。高校時代の暴言事件によって、日曜夜ごとに激しい喘息に苦しんだのもこの部屋であり、大学空手部の恐怖で夜眠れなかったのもこの部屋。そして、「尿管結石事件」が起きたのもこの部屋。この部屋で自分は17年間孤独と恐怖に苦痛にのたうち回り、心身を壊していった。つまり、30歳の自分は、この部屋に対して「自分の17年間分の悪戦苦闘の歴史が刻み込まれている」という意味での愛着も感じていた。


・❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪 (自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」をお読み下さい。)


・❷ 「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想(詳細はこちら



・東○荘事件の後、両親が引っ越しの強行を決めた事による、過去に例を見ない程の挫折感と虚無感(東○荘事件の詳細はこちら)



上記の憎悪と絶望の中、引っ越しが強行されることとなり、自分はそれに付いていく事となりました。(一人暮らしが出来なかった理由はA Href="https://www.asitaba.work/entry/2022/05/23/一人暮らしという選択肢が絶望的に不可能(過去編">こちら)自分は「首吊り装置」を唯一の心の支えにして、引っ越し作業を進めていき、引っ越しは終わったのでした。



自分は一連の「引っ越し及び東○荘事件」によって、上記8つの精神的苦痛を受け続ける事となりました。その結果引っ越し後の自分は「極度の虚脱状態と放心状態」に陥りました。この「極度の虚脱状態と放心状態」を鬱の諸症状に分解すると以下の8個になります。


「極度の虚脱状態と放心状態」における8個の鬱の諸症状


⑴家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照)


⑵「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)


⑶引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×12倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)


⑷ベッドの中における「意識は覚醒しているのに、まぶたや身体が重くて動かない状態」(詳細はこちら)




⑸当時の自分の体調は、冷え性も病的に悪化しており、真夏日でも部屋の中でエアコンを付ける事が出来なかった。もしベッドで横になっている時にエアコンを付ければ、必ず寝冷えしてしまう。エアコンの設定温度を30度に設定したとしても、寝覚めると身体は氷のように凍え切っており、鼻水はダラダラ、身体は100kgの重りを背負っているかのよう。故に自分は真夏日でもエアコンや扇風機や窓を開けずに眠るしか無かった。(住んでいる場所は神奈川)


当時の睡眠時間は昼夜逆転していたので、自分は真夏日の昼間に室温50度くらいの中で汗をダラダラ流しながら、眠らざるを得ない。そして、2〜3時間寝れたとしても、意識が覚醒すると、⑷の状態に陥り、ベッドから身体を起こす事は出来ない。自分はそこからさらにダラダラ汗を流しながら、1〜2時間ベッドに磔状態。この時の虚脱感や消耗感や絶望感は致命的なものがあった。

(⑷、⑸の症状は、引っ越し前の引きこもり時期にも発症。)


⑹上記①〜⑥+1の致命的な精神的苦痛


⑺上記の「極度の虚脱状態と放心状態」で、パチンコ稼業を再開出来るはずも無く、自分は引っ越してから1ヶ月後にパチンコ稼業からの撤退を決意した。これにより、自分の中に筆舌に尽くし難いほどの無力感が発生。これにより「極度の虚脱状態」はますます悪化していった。


⑻上記の7つの諸症状は耐え難い心身の苦痛を常に自分に発生させていた。故にこのような日々の唯一の心の支えが、「首吊り装置」という名の「最終安全装置」だった。この時の具体的な気持ちは以下の通り。


当時の自分は、余りの憎悪や被害妄想や肉体的苦痛に耐えられず、自我を失いそうになったら、さっさと首を吊ってこの世から離脱する事を決意していた。何故なら当時の自分が最も恐れていた事態は以下の事態。


自分の自我が憎悪と被害妄想に飲み込まれてしまい、正気を完全に失い、「自殺」という現実離脱手段すら使えなくなる事態。(具体的には、自分が気が狂った末に、精神病院の閉鎖病棟に隔離され、死ぬまでそこで苦しみ続けるような状態を想定)



まとめ:自分は引っ越し後、上記⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛にのたうち回る生活を送り続る事となった。自分は仕事は一切せずにただただ食べて寝るを繰り返すだけの日々を過ごしていった。それは何の希望も展望もない日々であり、「自殺しないで生きる」だけで精一杯の日々だった。



『前フリ終わり』



以上が「花粉症発症→ぎっくり腰事件」の前フリという事になります。 引っ越し後、上記の「極度の虚脱状態と放心状態」が9ヶ月続きました。そして、翌年の3月、「花粉症発症→ぎっくり腰事件」が起きたのです。ではここからは、前回の記事でまとめた「花粉症発症」のフローチャートを貼りたいと思います。


2007年2月下旬、自分は普段と違う鼻水の出方に気付いた。当時の自分は極度の冷え性に陥っており、普段から鼻水は常にダラダラ。そして、その鼻水は粘着性があるのが普通だった。ところが最近の鼻水は妙に水っぽくサラサラ。そして、鼻の外側が妙に痒い。自分は不思議に思ったが、しばらく様子を見る事に。



1〜2週間後の3月中旬。未だに水っぽい鼻水と鼻の痒みが止まらなかった。自分は気付いた。「あれ?この鼻水の出方ってもしかして、花粉症ってやつか??」自分は花粉症の発症を疑い始めた。そこには思い当たる節があった。自分は前年の6月に新しい家に引っ越していた。しかも新しい家の真裏は「森」だった。



それに気付いた自分は青ざめた顔で、家の真裏を見に行った。果たしてそこには「杉林」が青々と茂っていた。家の真裏から5mくらいのところに見えるだけでも杉が20本ほど生えている。しかも、その杉の先には茶色っぽい実が付いており、そこから黄色い花粉が撒き散らかされているのが見えた。それは自分にとって絶望的に信じたくない光景だった。




その光景を見た自分は、頭を鈍器で思い切り殴られたかのようなショックを受けた。よりにもよって、引っ越し先の新しい家の真裏が杉林だったとは。この花粉症発症の原因が前年の引っ越しにある事は明白だった。何故なら、それまで16年間住んでいた家の周りには杉は1本も生えておらず、その間自分は花粉症とは無縁だった。自分が前年の引っ越しによって花粉症を発症したのは明白だった。



この「引っ越しによって花粉症を発症した」という事実、この事実はさらに激しく自分を打ちのめした。何故なら自分は前年の引っ越しが原因で、すでに上記⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛の数々を9ヶ月間受け続けていた。




実はこの時発症した花粉症の症状自体はそんなにシリアスなものでは無かった。水っぽい鼻水が止まらなくなっていただけであり、「ちょっとうざいなぁ」くらいの症状。しかし、当時の自分にとっては花粉症の症状の辛さ云々よりも、「引っ越しによって新たな病気を発症した事実」の方が何千倍もの精神的ダメージになっていた。何故なら、自分はすでに引っ越しが原因で⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛の数々を受け続けていたのだ。




つまり、自分は引っ越しによって⑴〜⑻の致命的な精神的を受けた上に、花粉症発症の精神的ダメージまでも負う事になった。



自分は新しい家の裏山に杉林を確認すると、自分の部屋に戻った。自分の心は上記の甚大な精神的ショックで茫然自失状態となっていた。そして、その精神的ショックは程なくして果てしない量の両親への憎悪へと変化した。両親が引っ越しを強行したせいで、自分は花粉症を発症してしまったのだった。



自分の心の中は両親への憎悪で溢れ返り、それは身体の外まで余裕で溢れ出していた。もはや憎悪の量が心身の許容量を大幅に超えていた。そして、その憎悪はノートに書き殴っても全く減る事が無かった。



フローチャート終わり』



今回の記事では、以前の記事を参考にして上記のフローチャートの続きを書いていきたいと思います。こんな感じになります。



このように自分は花粉症を発症し、両親への憎悪がさらに激化する事となった。自分は「花粉症発症『以前』」から両親に倒して「殺しても殺し足りない」程の憎悪を感じていたのだが、それがさらに激化する事となった。



しかし、自分はその溢れ出す憎悪をかつてのようにモノにぶつけたり、両親にぶつける気にはなれなかった。例え憎悪をモノや両親にぶつけたとしても、また「父親突入事件」や「東○荘事件」のような事件が起こり、憎悪が結局は自分の元に跳ね返ってくる、そんなイメージを 感じていた。



故に自分はその溢れ返る憎悪を何一つ消化する事が出来ないままだった。花粉症発症に気付いた後、溢れ返る憎悪をノートに2〜3時間書き殴ったが、それで憎悪が減る事は全く無かった。自分は仕方なくその精神状態のままベッドに入る事となった。(朝5時頃)


しかし、こんな精神状態で眠れるはずがなかった。頭の中が憎悪で溢れ返り、覚醒しまくっている。自分はベッドに入ったものの、いつも以上に寝付きが酷くなり、寝付くまで3〜4時間かかった記憶。



その後自分は朝9時頃何とか寝付いた。しかし、眠りは極めて浅かった。その後昼の1時頃起きたものの、まるで身体の疲れは取れていない。むしろさらに身体が重くなったかのようだった。



自分の身体は⑷の症状が起こり、覚醒したもの瞼が全く開かない。自分は仕方なくそこから2〜3時間ベッドの上で磔(はりつけ)状態に。そして、その間も自分の心の中では憎悪が溢れ返っており、その精神的苦痛は筆舌に尽くし難いものがあった。



夕方4時頃、自分はベッドから出たものの、意識はいつも以上に朦朧としていた。故に1〜2時間で体力は尽き、すぐにベッドに逆戻り。そしてそこからまた溢れ返る憎しみで1〜2時間眠る事が出来ない。その後、1〜2時間仮眠を取るものの、起きたら起きたでまたそこから2〜3時間ベッドの上で磔(はりつけ)状態。自分の心身にはさらに疲労感が溜まっていった。



自分は寝れば寝るほど心身が絶望的に疲れていく状態に陥っていた。そして、疲労感が溜まれば溜まるほどベッドの外には出れなくなっていった。そして、花粉症によって生活が壊されれば壊される程、自分の中の両親への憎悪は煮えたぎっていき、さらに眠りは浅くなっていった。




このような日々が花粉症発症から2〜3日間続いていった。その間自分はほとんどの時間をベッドの上で過ごす事となった。そして、寝れば寝るほど疲労感はさらに溜まっていき、両親への憎悪は煮えたぎり、意識は朦朧としていったのだった。




いいですね!ようやく「花粉症序盤」のフローチャートがまとまりました。次回の記事はぎっくり腰発症の流れを思い出していきます。



今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!



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