鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。ツイッターを@skipper1242でやってましたが凍結されましたので、現在は@skipper954954でやってます。

自分が1つ目の大学を中退し、2つ目の大学に移った経緯(父の人生を聞く・2012年2月)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 自分は両親の喧嘩の仲裁に挫折し、凄まじい無力感を感じた(父の人生を聞く・2012年2月) 」の続きを書かせて頂きます。




前回の記事は、35歳の自分が3年間に渡るトラウマ歩きを終え、その翌年に父親の人生を聞き始めた、という話でした。それはこのような思いからでした。「自分も妹も全く社会に適合出来ず、本当に闇が深い人生になってしまった。そして、明るかった母親もまた心をどんどん病んでいった。という事は、父親の人生もまた闇が深いものなのだろう。」



ここからしばらくは今回の記事の前提となる前フリ部分になります。いつもお読みの方は飛ばして下さい。



『今回記事の前フリ』



. 「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は3年間です。自分がこの行為の中で感じていたポジティブな感情とネガティヴな感情は以下の通りです。



「トラウマ歩きの前フリ」



そして、この行為を始めたのと同時期に「深夜2時近辺の戦い」が勃発し、自分の精神はさらに追い込まれていく事になりました。この事件のフローチャート(短縮ver)のリンクを貼りたいと思います。


「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)




上記のリンクの経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。




また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。



『前フリ終わり』


ここからは前回の記事をそのまま全て引用したいと思います。自分は2012年3月頃、父親の人生を聞き始めました。そして、父親の勤務医時代の話を聞いていき、結婚後の父親が家庭内で「音に対する病的な過敏さ」を発症していたという話を聞きました。そして、そんな父親の下で育った自分の話になります。



『前回記事からの引用』



このように当時の自分(2000年頃)は、10年以上続いてきた両親の喧嘩の仲裁に動いたのでした。自分は母親から父親に対する怒りや不信感を聞き、それをなんとかなだめようとしました。しかし、母親の怒りや不信感は全く収まりません。何故なら、母親の心の中には上記の❶〜❺のように10年間に渡って莫大な量の怒りや不信感が蓄積していました。自分の言葉が届くような状態ではなかったのです。



また、自分の方にも問題がありました。当時の自分の精神状態では、母親の怒りや不信感をほとんど理解出来ていなかったのです。何故なら、当時の自分はカウンセリングを受け始めてからまだ2年くらいです。2年くらいのカウンセリングでは自己表現や自己認識レベルが上がるはずもありませんでした。



何故なら当時のカウンセリングのペースは1週間に1度、1回1時間です。そして、自分がカウンセリング受け始めてから半年くらいは、一言喋ると15分間は黙ってしまうような状態が続いたのです。こんな状況ではカウンセリングをいくら重ねても、自己表現や自己認識レベルは急には上がりませんでした。



このようにカウンセリングを2年間受け続けてもなお、自分の自己表現や自己認識は小学生レベルでした。こんな状態で10年に渡り複雑に絡み合いまくった母親の怒りと不信感❶〜❺を理解出来るはずがありません。


ですから、自分がいくら母親の話を聞いても、母親の怒りや不信感が減る事はありませんでした。故に家の中の戦争状態は全く収まる気配がありません。自分は徐々に母親への働きかけに凄まじい無力感を感じるようになっていきました。そして、その凄まじい無力感は母親へのムカつきに変わり、憎悪へと変化していったのです。


『引用終わり』


このように当時の自分(2000年頃)は、10年以上続いてきた両親の喧嘩の仲裁に動いたのでした。しかし、母親の心の中には10年以上に渡って父親に対する怒りと不信感が莫大に蓄積しており、自分の言葉が通じるような状態ではありませんでした。



また、当時の自分(24歳)はカウンセリングを受け始めてからまだ2年です。今だに自己認識レベルが小学生で止まっていました。故に、10年に渡り複雑に絡み合いまくった母親の怒りと不信感を❶〜❺を理解する事など不可能でした。



このように自分の仲裁は全く功を奏さず、家の中の戦争状態は継続していきました。このように自分が夫婦喧嘩の仲裁に動いた時期は、2つ目の大学を休学していた頃(24歳)です。



ここで自分が1つ目の大学から2つ目の大学に移った経緯を思い出したいと思います。当時の自分は1つ目の大学を4年生で退学し、1999年に2つ目の大学に移り、大学生活をやり直していました(23歳)。そもそも自分は1つ目の大学で鬱をさらに3倍に悪化させていました。1つ目の大学における空手部の3年間が自分には厳し過ぎたのです。自分は「稽古に殺される」恐怖にひたすら耐えたのですが、3年間が終わると鬱が3倍に悪化していました。



また、このような精神状態で人間関係を作れるはずもなく、大学内では完全に孤立していました。


このような状況で就職活動が出来るはずもありません。そこで自分は4年生の時に大学生活をもう1度やり直したいと思い、1つ目の大学を中退。2つ目の大学に移ったのです。しかし、やはりここでも人間関係を作る事が全く出来ません。自分は2つ目の大学に1年間通った後、またも大学を休学する事になったのです。そして、自分は両親に休学の申し出をしたのですが、ここで自分が父親を土下座させる事件が起こりました。しかもその直後に父の胃に穴が空き、入院するという事件も起こってしまったのです。




次回の記事ではこれらの事件を振り返っていきます。





今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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