皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 「もしかしたら自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」という病的な被害妄想(過去編・2006年3月・30歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、自分の鬱が「東○荘事件」後にさらに2倍悪化した、という話でした。「東○荘事件」とは自分が29歳の時に起きた事件です。自分はこの事件をきっかけに両親に対して「殺しても殺し足りない」程の憎悪を抱くようになっていきました。
「東○荘事件」の大まかな流れを以下のフローチャートにまとめてあります。各項目後ろの数字は、自分の中の「自分という存在に対する自信」を数値化しています。
自分は2005年の9月から再びカウンセリングに通い始めた(29歳)。そこでこれまでの記憶のサルベージの話を馴染みのカウンセラーH先生に聞いて貰い続けた。カウンセリングは週に1回1時間ペースで行われたのだが、自分は次回のカウンセリングが毎回待ち遠しくてたまらなかった。(詳細はこちら)(マイナス132→132)
↓
自分はカウンセリングを再開させると同時にカウンセリング代と生活費を稼ぐ為にパチンコ稼業も復活させた。自分はここから毎日のようにパチンコ屋に通い、朝から晩までパチンコを打ち続けた。稼ぎの方は順調に推移し、ここから半年間でおよそ180万程稼ぐ事となった。このカウンセリング&パチンコ生活にはかつて無い程のやり甲斐と充実感があったのだが、一方で鬱の諸症状の辛さも半端では無かった。(当時の鬱の諸症状はこちら)自分の中では、鬱の諸症状の辛さより日々の充実感の方が辛うじて上回っていたので、ギリギリなんとかこの生活を続けていけていた。(マイナス132→132)
↓
そんな日々が1〜2ヶ月続いた頃、急に父親が自分の部屋にやってきて、「もしかしたらこの先引っ越しをするかもしれないから、考えておいてくれ。」と言い出した。これにより自分の心の中には凄まじい憎しみの嵐と不安の嵐が発生。その嵐を構成する5つの理由はこちら。 (マイナス132→132)
↓
父親から引っ越しの話を聞いて以降、自分は母親とコミュニケーションを取らざるを得なくなっていった。何故なら我が家の決定権は100%母親にあり、その母親の引っ越しへの本気度を確かめる必要があった為。また、その母親に対して自分の立場「引っ越しに絶対反対」を示す必要もあった。(詳細はこちら。)しかし、自分にとって母親は「殺したい」程の憎い人間であり、母親とのコミュニケーションは凄まじい精神的苦痛を意味していた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこちら。) (マイナス132→132)
↓
父親から引っ越しの話を聞いてから2週間後、自分は意を決して母親に引っ越しの話をしに行った。(2005年11月)母親とのコミュニケーションは2年ぶり。そこで自分は憎悪を必死に抑えて、引っ越しについて聞いてみたのだが、母親はかなり引っ越しに対して本気な様子だった。自分は自分の立場「引っ越しに絶対に反対」を表明するも、母親は全く意に介していないようだった。これにより、自分の中の両親に対する憎悪はさらに激しくなっていった。(詳細はこちら) (マイナス132→132)
↓
その後、両親は着々と引っ越しの話を進めている様子だった。これにより自分の両親に対する憎悪はますます悪化。それはもはや理性でコントロールが効かないレベル。その憎悪は暴力衝動を引き起こし、自分はそれを我慢が出来なかった。自分はここから事あるごとにその暴力衝動を家の中でぶつけていく事になった。例えば玄関や家の中のドアをこれ以上なく思い切り閉めたり、自分の部屋の壁や床を思い切り殴ったり、蹴ったり。この時自分が引っ越しに対して感じていた凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由はこちら。(マイナス132→132)
↓
そんな日々が3〜4ヶ月続いた頃、重大事件が発生。事件の名前は「東○荘事件」。自分がいつものように家の中で暴力衝動を発散していると、それに憎しみを募らせていたらしい父親が自分に掴みかかってきた。そこに母親と妹も加わり、1vs3の袋叩き状態。20分くらいで母親が警察を呼び、その場に警察が駆けつけ、とりあえずその場は収まった。(この事件の詳細なフローチャートはこちら) (マイナス132→132)
↓
その後自分は、カウンセリングに向かい、先程の事件の話を聞いて貰った。また地元の元バイト先の古本屋でも話を聞いて貰った。そして、その日は家に帰る気が全くせず、地元の繁華にあるホテル、「東○荘」に泊まる事となった。(マイナス132→132)
↓
自分は東○荘の一室にチェックインすると、その日起こった出来事をノートに書き殴った。そして、3時間後ノートを書き終えた。時刻は朝の5時頃。そこでベッドに入り眠ろうとするとするも、頭の中は圧倒的な負の感情で溢れ帰り、パニック状態。その中で最も酷い感情は家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪。そして、身体も酷い冷え性で凍えるようだった。自分はベッドに入ったものの全く眠る事が出来ずこの状態で3時間くらい悶絶し、ようやく朝8時くらいに寝付く事が出来たのだった。この夜は自分の人生の中で最も辛い夜となった。(マイナス132→132)
↓
翌日自分は昼の2時くらいに目を覚ました。しかし、睡眠は極めて浅く断続的だった為、前日の極限を超えた疲労感は全く癒えていなかった。そこから自分は再び3時間程ノートを書いた。そして、断腸の思いで家に帰る事を決意。もはや自分の身体はこのホテルのベッドで寝る事を拒絶していた。自分は極限を超えた疲労困憊状態に必死に抗い、東○荘をチェックアウトした。(マイナス132→132)
↓
東○荘を出ると地元に戻ったのだが、すぐには家に帰る気が全くしない。そこでまたも元バイト先の古本屋を訪ね、そこで2時間程話を聞いて貰った。(マイナス132→132)
↓
時刻は夜8時。自分はとうとう家に帰ってきた。玄関の鍵は開き、途中で父親に襲われる事もなく、自分の部屋に戻ってこれた。この時の自分は極限を超えた疲労状態にあり、しかも病的(×12倍)な被害妄想状態にあった。故に「もしかしたら、自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」という被害妄想が発生し、その恐怖で気が狂いそうだった。この時感じていた精神的苦痛の量は「中指の拷問」一回分。(マイナス132→132)
↓
自分の部屋に戻ると、自分はまたもノートに自分の気持ちを書き続けた。そして、2時間後ようやく気持ちを書き終えた。ベッドに入った自分の心の中は「寝てしまったら激昂した父親が部屋に突入してきて、殺されてしまうかも」という恐怖心でいっぱいだったが、一方では疲労感も極限を超えていた。自分は「寝付いた後自分が殺されるのなら、もはやそれは仕方がない」という覚悟のような諦めを感じつつ、寝付いたのだった。(マイナス132→132)
↓
翌日、昼の12時頃に目を覚ますもやはり極限を超えた疲労感はほとんど回復していなかった。昨日から自分の中には選択肢「1度家には帰るものの、本当に無理そうなら再び東○荘に戻る」もあった。しかし、今後この極限を超えた疲労感がほとんど回復していない状態で再び東○荘に戻り、再びベッドの上で凍え続ける気力は毛頭残っていなかった。よって自分は以下の3つの凄まじい精神的苦痛に心を引き裂かれながらも、家に居続ける選択をしたのだった。
・家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪
・「もしかしたら、自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」という病的な(×12倍)被害妄想
・ 引っ越しに対して感じていた凄まじい憎悪と絶望感、その5つの理由
↓
この「東○荘事件」によって自分は「中指の拷問」一回分の精神的苦痛を受ける事となった。(中指の拷問の詳細はこちらの記事の中盤以降。)この事件を「中指の拷問」の例えに倣って表現するとこうなる。
「自分の心が両親によって本来あり得ない方向に曲げられ、折られてしまった。そして、心が折られた箇所は激しい外傷となり、酷いトラウマになっていった。」
(マイナス132→132)
↓
よって自分が両親に感じる憎悪は以下のように変化。
・『「殺したい」程の憎しみ』以上の憎しみ
⇩
・「殺しても殺し足りない」程の憎悪
(マイナス132→132)
↓
そして、鬱の諸症状もさらに2倍悪化。
「鬱の廃人」×2倍状態(当時の鬱の諸症状はこちら)
⇩
「鬱の廃人」×4倍状態
よって、メンタル数値も2倍に悪化。(マイナス132→264)
↓
この東○荘事件から3ヶ月後に引っ越しが決行され、自分はさらなる精神的苦痛を受ける事となった。これによりパチンコで稼ぐ気力を完全に失い、稼ぐ手段が完全消滅。そこで自分は母親に対して月6万円の生活費を補償するよう要求し、それは認められた。しかし、本来自分にとって母親は「殺しても殺し足りない」程憎い人間であり、生活費を求めるコミュニケーションすらも気が狂うような精神的苦痛。故にここからの5年間は自分の鬱が最も酷かった期間になるのだが、その5年間を例えるとこうなる。
「ボットン便所(汲み取り式便所)の底を這いずり回り、そこの汚物を食って生活していたような5年間」
(マイナス264→264)
『フローチャート終わり』
さて、チャートの最後にありますように、東○荘事件によって自分の鬱はさらに2倍に悪化してしまいました。自分は「事件前」の時点で「被害妄想」が病的(×6倍)だったのですが、それが「事件後」には病的(×12倍)にまで悪化してしまったのです。これによりただでさえ酷かった寝付きの悪さがさらに2倍酷くなったのです。ではここでまずは「事件前」の寝付きの酷さを振り返ってみたいと思います。
「カウンセリング&パチンコ生活中の鬱の諸症状①」より
①当時の自分は睡眠を取っても取っても酷い疲労感が全く取れず、睡眠への欲求が底無しになっていた。自分にとって睡眠は、自分の生命と同じ価値を持っており、「睡眠を妨害される」=「生命を激しく傷付けられる」となっていた。故に自分の睡眠を妨害する可能性のある音に対して、「病的(×6倍)な怯え」と「病的(×6倍)な憎しみ」を感じる事に。
そして、実際に自分が睡眠を取ろうと布団の中に入ると、瞼を閉じた途端、上記の怯えと憎しみに襲われてしまい。全く眠る事が出来ない。実際にはまだ「睡眠を妨害する音」は発生していないのだが、その発生を先取りして考えてしまい、予期不安(予期憎悪)が発生。これにより自分の身体は恐怖と緊張でガチガチに強ばり、冷や汗ダラダラで覚醒してしまう。睡眠を取る際には毎回1時間、この恐怖と緊張に必死に耐え続けないと、寝付く事が出来なかった。
また、当時の自分は睡眠への欲求が底無しになっており、身体が無限に睡眠を要求していた。しかし、いざ実際に睡眠を取ろうとすると、上記の如く「病的(×6倍)な怯え」と「病的(×6倍)な憎しみ」に襲われ、全く寝付く事が出来ない。身体は無限に睡眠を欲しているにも関わらず、いざ睡眠を取ろうとすると、耐え難い精神的苦痛に襲われてしまう。これは自分の身体の中で起こっていた「激し過ぎる自己矛盾」であり、これによるメンタルダメージも甚大だった。
上記の寝付きの酷さが「東○荘事件」によってさらに2倍悪化した、という事になります。つまりこれは寝付く際の「被害妄想」がさらに2倍に悪化した、という事です。その2倍に悪化した寝付きの酷さが以下の通りになります。
ただでさえ当時の自分は「被害妄想」が病的(×6倍)に酷くなっており、街中で普通にパチンコを打っているだけでも周りから無根拠に迫害されるような被害妄想に怯えていた。こんな精神状態で自分は、明らかに自分に激しい敵意を持ち、自分に対して暴力を振るった他者(家族)3人の中に1人戻ってきてしまった。これは完全に「殺人犯3人の中に孤立無援状態で突入してしまった」ような精神状態。よって自分の心の中では、「もしかしたら、自分は家族に殺されてしまうかもしれない。」という病的(×12倍)な被害妄想が暴れ回り、凄まじい恐怖が発生していた。こんな状態でベッドに入り眠れるはずがない。何故なら「もしベッドに入り、寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」から。
上記の寝付きの酷さは東○荘事件2日目の夜の状態になります。このように事件以降、自分は下記のような病的(×12倍)な被害妄想に襲われる状態で寝付かねばなりませんでした。
「もしベッドに入り、寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」
そう、自分は「東○荘事件」以降、「寝付いたら自分は家族に殺される」という恐怖感を感じながら寝付く事になったのです。当然ベッドに入ったって簡単に寝付けるはずがありません。思い返してみますと、自分は「事件前」の時点ですでに「睡眠を妨害する音」に対して、病的(×6倍)な被害妄想を感じ、眠れなくなっていました。そして、「東○荘事件」後は、「家族に殺されるかも」という病的(×12倍)な被害妄想によって、ますます寝付けなくなっていったのです。そう、自分にとっては「睡眠を妨害する音」も凄まじい恐怖でしたが、「家族に殺されるかも」と言う恐怖はその2倍の恐怖量がありました。
よって自分は「東○荘事件」後ますます寝付けなくなっていったのです。「家族に殺されるかも」という精神状態で安眠出来るはずがありません。ですから5〜6時間眠れたとしてもその眠りはかなり浅く、疲労感はほとんど解消されませんでした。これにより自分の心身はさらに壊れていく事となります。そして、これによってパチンコ稼業を続ける気力もどんどん失われていき、消滅する事になります。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
↑クリックして頂くとランキングアップ&アクセス数アップします。ご協力よろしくお願いします。