皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 「花粉症発症→ぎっくり腰事件」のここまでの経緯をフローチャートにまとめる[花粉症発症→ぎっくり腰事件15] (過去編・2007年3月・31歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事も、自分が31歳の春に花粉症を発症し、頭を鈍器で思い切り殴られたかのようなショックを受けた、という話でした。自分は前年の6月に新しい家に引っ越しをしていました。そして、家の真裏には青々とした杉林が茂っていたのです。花粉症発生の原因がの杉林にある事は明白でした。そして、その花粉症発症により、自分はぎっくり腰を発症する事となりました。このブログではこの一連を「花粉症発症→ぎっくり腰事件」と呼んでいます。
まずはこの「花粉症発症→ぎっくり腰事件」に至るまでの「前フリ」部分を確認したいと思います。かなり長い前フリになります。いつもこのブログをお読みの方はスルーして下さい。
「花粉症発症→ぎっくり腰事件」の前フリ
この前フリは「花粉症発症以前」の自分の憎悪と絶望をまとめてあります。その憎悪と絶望とは、 前年の「引っ越し及び東○荘事件」で最大化した絶望と憎悪です。この憎悪と絶望は9個に分かれます(①〜⑥+❶❷+1)。そして、それらによって引っ越し後の自分は「極度の虚脱状態と放心状態」に陥りました。この「極度の虚脱状態と放心状態」の説明が次に続きます。この説明は8個に分かれています(⑴〜⑻)。これらは以前の記事でまとめたモノです。
「引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その6つの理由」(前提として当時の自分は実家暮らし・年齢30歳・2006年6月)
①そもそも当時の自分は両親に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照。) よって自分と両親とはこの1年以上全くコミュニケーションが無い状態が続いていた。そんな状態で両親が急に「引っ越し」という一大イベントを言い出してきたことが許せない。自分には「引っ越しをしたい」という気持ちが1㎜もない。
②もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、家族とのコミュニケーションは避けられない。そして、当時の自分は家族に対して「殺したい」程の憎しみを感じていた。よって、家族とコミュニケーションを取らざるを得ない状況を強制的に作り出された事に対する凄まじい憎しみ。
③もし引っ越しをするとなると、「引っ越しについて行く」にしろ「一人暮らしする」にしろ、そこに自分の時間やエネルギーを割かなければならなくなる。その事に対する凄まじい憎しみ。何故なら、当時の自分はそれまでの29年間の人生を、両親によって全て搾取されたような感覚を持つに至っていた。よって、両親に人生を搾取された上に、さらに引っ越しで時間とエネルギーを搾取されそうな事が気が狂いそうな程の憎悪を発生させていた。
④当時の自分の心身は長年の孤独によって、「鬱の廃人」×2倍状態に陥っていた。「被害妄想」は病的(×6倍)に悪化していたし、日々の心身の辛さも半端ではなかった。(当時の鬱の諸症状はこちら)当時の自分はカウンセリング&パチンコ生活をしていたが、それは心身ともにギリギリな状態でなんとか日々を過ごしている状態。こんな状態で「望まない引っ越し」や「望まない一人暮らし」をするエネルギーがあるはずもなく、それに対する凄まじい不安と憎しみも発生していた。
⑤当時の自分は1年間の引きこもり生活を終え、ようやく外の世界に出れるようになっていた。そこで新しく始まった生活は、週1回カウンセリングを受け、そのカウンセリング代と生活費を稼ぐ為に週4〜5回パチンコで稼ぐ生活。この生活は「鬱の廃人」状態に陥っていた自分にとってかなりの心身の苦痛を伴うものだったが、一方でそれ以上のやり甲斐と希望もこの生活に感じていた。それは自分が29歳にしてようやく掴んだ自分らしい日々だった。しかし、両親が引っ越しを言い出した事で、この明るい日々はたった2ヶ月で終わってしまった。自分は引っ越しがもたらす凄まじい憎しみと絶望と不安と悲しみに打ちひしがれ、再び人生の先行きが全く見えない状態に陥ってしまった。これによる、恨みも凄まじいものがあった。
⑥当時の自分は自分の部屋に並々ならぬ愛着を感じていた。故に引っ越しにより、この部屋を離れなければならない事に対して、身を裂かれるような精神的苦痛を感じていた。自分の部屋への愛着の理由は以下の3つ。
⑴28〜29歳の自分は1年間部屋に引きこもり続けており、病的(×6倍)な被害妄想を発症していた。その被害妄想とは家族に向けられたものであり、「父親に殺されるのではないか?」「妹の出すドア音で眠る事が出来ず、衰弱死させられるのでは??」といったもの。そして、「自分の部屋」だけが、「父親」や「妹の出すドア音」から自分を1年間守り続けてくれた、そんな感覚を持っていた。
⑵引きこもりの1年間を経て、自分は限定的にだが、「自分に対する自信」を大きく取り戻す事に成功していた。それは引きこもり前の状態と比べると生まれ変わったかのようなポジティブな変化だった。そして、その生まれ変わりが起きた場所は「自分の部屋」に他ならなかった。つまり「自分の部屋」とは、自分が自分の手で自分の精神を生まれ変わらせた場所。当時の自分にとって自分の部屋は「聖地」のような意味合いを持っていた。
⑶自分はこの部屋には中学2年生の時に引っ越してきて、17年間の時間をこの部屋で過ごしてきた。そして、この17年間はただひたすら孤独と挫折が続き、心身が壊れて行くだけの17年間だった。高校時代の暴言事件によって、日曜夜ごとに激しい喘息に苦しんだのもこの部屋であり、大学空手部の恐怖で夜眠れなかったのもこの部屋。そして、「尿管結石事件」が起きたのもこの部屋。この部屋で自分は17年間孤独と恐怖に苦痛にのたうち回り、心身を壊していった。つまり、30歳の自分は、この部屋に対して「自分の17年間分の悪戦苦闘の歴史が刻み込まれている」という意味での愛着も感じていた。
・❶家族3人に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪 (自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」をお読み下さい。)
・❷ 「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想(詳細はこちら
・東○荘事件の後、両親が引っ越しの強行を決めた事による、過去に例を見ない程の挫折感と虚無感(東○荘事件の詳細はこちら)
上記の憎悪と絶望の中、引っ越しが強行されることとなり、自分はそれに付いていく事となりました。(一人暮らしが出来なかった理由はA Href="https://www.asitaba.work/entry/2022/05/23/一人暮らしという選択肢が絶望的に不可能(過去編">こちら)自分は「首吊り装置」を唯一の心の支えにして、引っ越し作業を進めていき、引っ越しは終わったのでした。
自分は一連の「引っ越し及び東○荘事件」によって、上記8つの精神的苦痛を受け続ける事となりました。その結果引っ越し後の自分は「極度の虚脱状態と放心状態」に陥りました。この「極度の虚脱状態と放心状態」を鬱の諸症状に分解すると以下の8個になります。
「極度の虚脱状態と放心状態」における8個の鬱の諸症状
⑴家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照)
⑵「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)
⑶引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×12倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)
⑷ベッドの中における「意識は覚醒しているのに、まぶたや身体が重くて動かない状態」(詳細はこちら)
⑸当時の自分の体調は、冷え性も病的に悪化しており、真夏日でも部屋の中でエアコンを付ける事が出来なかった。もしベッドで横になっている時にエアコンを付ければ、必ず寝冷えしてしまう。エアコンの設定温度を30度に設定したとしても、寝覚めると身体は氷のように凍え切っており、鼻水はダラダラ、身体は100kgの重りを背負っているかのよう。故に自分は真夏日でもエアコンや扇風機や窓を開けずに眠るしか無かった。(住んでいる場所は神奈川)
当時の睡眠時間は昼夜逆転していたので、自分は真夏日の昼間に室温50度くらいの中で汗をダラダラ流しながら、眠らざるを得ない。そして、2〜3時間寝れたとしても、意識が覚醒すると、⑷の状態に陥り、ベッドから身体を起こす事は出来ない。自分はそこからさらにダラダラ汗を流しながら、1〜2時間ベッドに磔状態。この時の虚脱感や消耗感や絶望感は致命的なものがあった。
(⑷、⑸の症状は、引っ越し前の引きこもり時期にも発症。)
⑹上記①〜⑥+1の致命的な精神的苦痛
⑺上記の「極度の虚脱状態と放心状態」で、パチンコ稼業を再開出来るはずも無く、自分は引っ越してから1ヶ月後にパチンコ稼業からの撤退を決意した。これにより、自分の中に筆舌に尽くし難いほどの無力感が発生。これにより「極度の虚脱状態」はますます悪化していった。
⑻上記の7つの諸症状は耐え難い心身の苦痛を常に自分に発生させていた。故にこのような日々の唯一の心の支えが、「首吊り装置」という名の「最終安全装置」だった。この時の具体的な気持ちは以下の通り。
当時の自分は、余りの憎悪や被害妄想や肉体的苦痛に耐えられず、自我を失いそうになったら、さっさと首を吊ってこの世から離脱する事を決意していた。何故なら当時の自分が最も恐れていた事態は以下の事態。
自分の自我が憎悪と被害妄想に飲み込まれてしまい、正気を完全に失い、「自殺」という現実離脱手段すら使えなくなる事態。(具体的には、自分が気が狂った末に、精神病院の閉鎖病棟に隔離され、死ぬまでそこで苦しみ続けるような状態を想定)
まとめ:自分は引っ越し後、上記⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛にのたうち回る生活を送り続る事となった。自分は仕事は一切せずにただただ食べて寝るを繰り返すだけの日々を過ごしていった。それは何の希望も展望もない日々であり、「自殺しないで生きる」だけで精一杯の日々だった。
以上が「花粉症発症→ぎっくり腰事件」の前フリという事になります。 このように自分は引っ越し後から9ヶ月間、上記の「極度の虚脱状態と放心状態」続きました。そして、翌年の3月、「花粉症発症→ぎっくり腰事件」が起きたのです。ではここからは、以前の記事でまとめた「花粉症発症」部分のフローチャートを貼りたいと思います。いつもこのブログをお読みの方はスルーして下さい。
2007年2月下旬、自分は普段と違う鼻水の出方に気付いた。当時の自分は極度の冷え性に陥っており、普段から鼻水は常にダラダラ。そして、その鼻水は粘着性があるのが普通だった。ところが最近の鼻水は妙に水っぽくサラサラ。そして、鼻の外側が妙に痒い。自分は不思議に思ったが、しばらく様子を見る事に。
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1〜2週間後の3月中旬。未だに水っぽい鼻水と鼻の痒みが止まらなかった。自分は気付いた。「あれ?この鼻水の出方ってもしかして、花粉症ってやつか??」自分は花粉症の発症を疑い始めた。そう、自分には思い当たる節があった。自分は前年の6月に新しい家に引っ越していた。しかも新しい家の真裏は「森」だった。
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それに気付いた自分は青ざめた顔で、家の真裏を見に行った。果たしてそこには「杉林」が青々と茂っていた。家の真裏から5mくらいのところに見えるだけでも杉が20本ほど生えている。しかも、その杉の先には茶色っぽい実が付いており、そこから黄色い花粉が撒き散らかされているのが見えた。それは自分にとって絶望的に信じたくない光景だった。
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その光景を見た自分は、頭を鈍器で思い切り殴られたかのようなショックを受けた。よりにもよって、引っ越し先の新しい家の真裏が杉林だったとは。この花粉症発症の原因が前年の引っ越しにある事は明白だった。何故なら、それまで16年間住んでいた家の周りには杉は1本も生えておらず、その間自分は花粉症とは無縁だった。自分が前年の引っ越しによって花粉症を発症したのは明白だった。
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この「引っ越しによって花粉症を発症した」という事実、この事実はさらに激しく自分を打ちのめした。何故なら自分は前年の引っ越しが原因で、すでに⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛の数々を9ヶ月間受け続けていた。
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実はこの時発症した花粉症の症状自体はそんなにシリアスなものでは無かった。水っぽい鼻水が止まらなくなっていただけであり、「ちょっとうざいなぁ」くらいの症状。しかし、当時の自分にとっては花粉症の症状の辛さ云々よりも、「引っ越しによって新たな病気を発症した事実」の方が何千倍もの精神的ダメージになっていた。何故なら、自分はすでに引っ越しが原因で⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛の数々を受け続けていた。
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つまり、自分は引っ越しによって⑴〜⑻の致命的な精神的を受け続けた上に、花粉症発症の精神的ダメージまでも負う事になった。
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自分は新しい家の裏山に杉林を確認すると、自分の部屋に戻った。自分の心は上記の甚大な精神的ショックで茫然自失状態となっていた。そして、その精神的ショックは程なくして果てしない量の両親への憎悪へと変化した。自分の心の中は果てしない量の両親への憎悪が溢れ返り、それは身体の外まで余裕で溢れ出していた。もはや憎悪の量が自分の身体の許容量を大幅に超えていた。そして、その憎悪はノートに書き殴っても全く減る事が無かった。
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このように自分は花粉症を発症し、両親への憎悪がさらに激化する事となった。自分は「花粉症発症『以前』」から両親に倒して「殺しても殺し足りない」程の憎悪を感じていたのだが、それがさらに激化する事となった。
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しかし、自分はその溢れ出す憎悪をかつてのようにモノにぶつけたり、両親にぶつける気にはなれなかった。例え憎悪をモノや両親にぶつけたとしても、また「父親突入事件」や「東○荘事件」のような事件が起こり、憎悪が結局は自分の元に跳ね返ってくる、そんなイメージを 感じていた。
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故に自分はその溢れ返る憎悪を何一つ消化する事が出来ないままだった。花粉症発症に気付いた後、溢れ返る憎悪をノートに2〜3時間書き殴ったが、それで憎悪が減る事は全く無かった。自分は仕方なくその精神状態のままベッドに入る事となった。(朝5時頃)
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しかし、こんな精神状態で眠れるはずがなかった。頭の中が憎悪で溢れ返り、覚醒しまくっている。自分はベッドに入ったものの、いつも以上に寝付きが酷くなり、寝付くまで3〜4時間かかった記憶。
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その後自分は朝9時頃何とか寝付いた。しかし、眠りは極めて浅かった。その後昼の1時頃起きたものの、まるで身体の疲れは取れていない。むしろさらに身体が重くなったかのようだった。
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自分の身体は⑷の症状が起こり、覚醒したもの瞼が全く開かない。自分は仕方なくそこから2〜3時間ベッドの上で磔(はりつけ)状態に。そして、その間も自分の心の中では憎悪が溢れ返っており、その精神的苦痛は筆舌に尽くし難いものがあった。
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夕方4時頃、自分はベッドから出たものの、意識はいつも以上に朦朧としていた。故に1〜2時間で体力は尽き、すぐにベッドに逆戻り。そしてそこからまた溢れ返る憎しみで1〜2時間眠る事が出来ない。その後、1〜2時間仮眠を取るものの、起きたら起きたでまたそこから2〜3時間ベッドの上で磔(はりつけ)状態。自分の心身にはさらに疲労感が溜まっていった。
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さらにその翌日、自分は溢れ返る憎悪が我慢出来なくなり、母親とコンタクトを取った。この時の自分の心の中では上記の「①〜⑥+❶❷+1、⑴〜⑻」の憎悪と苦痛が溢れ返っていた。しかし、当時の自分の言語化能力では、憎悪と苦痛の1%も母親に伝える事が出来なかった。当時の自分は、「①〜⑥+❶❷+1、⑴〜⑻」の感情を1%も言語化出来ていなかった。よって自分の感じている憎悪や苦痛は1%も伝わらず、それに対する母親の反応はかなり冷たかった。これにより、自分の心の中ではさらに両親に対する憎悪が激しく燃え上がり、「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪となっていった。
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憎悪が激しくなればなる程、自分の睡眠がまともに取れなくなっていき、寝れば寝るほど心身が絶望的に疲れていく状態に陥っていった。そして、疲労感が溜まれば溜まるほどベッドの外には出れなくなっていった。これにより自分の生活は破壊され、自分の生活が壊されれば壊される程、さらに自分の中の両親への憎悪は煮えたぎっていき、さらに眠りは浅くなっていった。
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このような日々が花粉症発症から2〜3日間続いていった。その間自分はほとんどの時間をベッドの上で過ごす事となった。そして、寝れば寝るほど疲労感はさらに溜まっていき、両親への憎悪は煮えたぎり、意識はさらに朦朧としていったのだった。
ここまでが「花粉症発症」の件りです。ここから先は「ぎっくり腰事件」のフローチャートになります。
花粉症発症から2〜3日過ぎ、自分の身体は眠気と疲労感でぶっ壊れまくっていた。そして、精神的にも両親への憎悪が溢れ返っており、それはますます悪化していくばかりだった。花粉症による鼻水も相変わらず出続けている。このような限界状態で当時の自分はこう思った。
「まずは花粉症をなんとかしたい」
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そこで耳鼻科に行き、花粉症の薬を出して貰う事を思い付いた。
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しかし、この時の自分の体調は限界状態。2〜3日間まともに眠っておらず、ここまで疲労感と眠気が酷いのは31年間で初めての状態。死の恐怖に怯え続けた大学空手部時代でさえ、こんなに酷い状態は無かった。もちろん、家族への憎悪の量も過去最大。自分の心の中は家族に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪で溢れ返っていた。
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しかし、この時の自分は「耳鼻科に行く」という選択肢しか考えられなくなっていた。とにかく耳鼻科で薬を貰って、それで鼻水が止まれば、事態が改善するような気がしていた。
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そこで自分は限界状態の心身にムチを入れ、なんとか外出準備を始めた。これから原付に乗り、30分くらいかけて耳鼻科に行こう、と。もちろん、自分には「家族に頼る」という選択肢は皆無。何故なら、「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていたのだから。
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原付に乗る為にはかなりの防寒対策が必要だった。何故なら当時の自分は冷え性も病的(×12倍)に酷くなっており、3月の神奈川はまだまだ自分には寒い季節。さらに花粉症発症によって自分の身体は限界状態に陥っている。
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自分はまずは下半身に股引きを3枚履き、さらにその上にジャージを3枚重ねて履いた。そして、その上にさらに太めのデニムを履いた。この時点で下半身は着膨れてパンパン。何かに捕まらないとデニムを履く事が出来なかった。
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自分はこの上にさらにレインコート(下半身)を履こうと思った。自分は近くにある物置にヨロヨロと捕まりながら、なんとか着膨れたデニムの上からそのレインコートを履こうとした。
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その時自分の腰に異常が起きた。自分の腰に「ピキッ」と軽い痛みが走った。
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自分は腰の痛みに違和感を感じたが、この時点ではたいした痛みでは無かった。自分は気にせずにレインコートを履き、下半身の防寒対策が終わった。
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自分は上半身の防寒対策を始めた。セーターを何枚も来たり、ダウンジャケットを重ねたり、レインコートを着たり。上半身の防寒対策も下半身と同様かなり着膨れするまで行った。ただその準備は下半身の準備に比べると楽だった。
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しかし、その間にも腰の痛みはどんどん酷くなっていった。最初は「ピキッ」くらいの軽い痛みだったのに、徐々にズキズキ痛んできた。自分はその痛みを気にしながらも上半身の準備を終え、ようやく耳鼻科に行く準備が整った。全ての準備を終えるまで30分くらいかかった記憶。
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自分はその着膨れしまくった状態で、自分の部屋を出て、2階から1階の玄関に向かった。すると、さらに腰の痛みが酷くなってきた。自分は「なんだなんだ??」と思いながらも、耳鼻科に行く事を止める事は出来なかった。30分かけて必死に外出準備をした労力を無駄にはしたくない。
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自分は酷くなっていく痛みを我慢しながら、玄関を出て、ヘルメットを被って原付のシートに乗ろうとした。しかし、この時に腰の痛みは凄まじい痛みに激化していた。もはや、原付のシートに座る事すら無理な状態になっていた。
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もしここでかなり無理をすれば、シートに座り、原付を走らせる事も不可能では無かった。しかし、原付の運転中に起こるであろう「振動」にとてもじゃないけど腰が耐えられる気がしなかった。運転中にほんの少しでも腰に振動が伝われば、凄まじい痛みが走り、原付から転げ落ちてしまいそうな、そんな予感がした。この予感はお得意の「被害妄想」ではなく、実際にそうなってもおかしくないくらいの凄まじい痛みが自分を襲っていた。
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原付に乗るのを諦めると、あまりの腰の痛みで立っている事が出来ず、這うような体勢で、家に戻った。そして、這うような体勢で階段を登り、自分の部屋になんとか戻ってきた。もちろんこの時の自分に「家族に頼る」という選択肢は皆無。何故なら「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていたから。
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自分は部屋に戻るとあまりの痛みに立っている事が出来ず、床に倒れ込んだ。まるで腰の骨が繊細なガラス細工のようになってしまったかのようだった。少しでも腰が動くと、その骨のガラスが粉々に砕け散り、その鋭い破片が腰の筋肉に突き刺さる、そんなイメージ。
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5分ほど部屋の床で悶絶していたが、腰の痛みは全然治まらない。しかし、いつまでも床に倒れている訳にもいかず、とりあえずはベッドで横になりたいと思った。そして、その為には今着ている防寒着を脱いで、身体を楽にしたいとも思った。
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何せこの時の自分は下半身だけでも防寒着を8枚着ていた。それらの身体への圧迫感は凄まじいものがあり、とりあえずは防寒着を脱いで、その圧迫感を無くしたいと考えた。もしかしたら、その圧迫感が無くなれば、少しは腰の痛みも減るかも、という期待感もあった。そして、防寒着を脱いで、部屋着に着替えた上で、ベッドで横になりたい、と。
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そこで自分は床に倒れた状態で防寒着を脱いでいく事にした。床に倒れた状態で服を脱ぐなんて生まれて初めての行為。自分はまずは着膨れしまくった下半身を脱いでいく事にした。下半身は股引やジャージやデニムを8枚着ており、これを床に倒れた状態で脱いで行く。もちろん腰には凄まじい痛みが走っている。腰がガラス細工のように超繊細になっており、少しの動きでも爆発的な痛みが発生する、そんな状態。
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故に床に倒れた状態で防寒着を脱いでいこうとすると、少しの身体の動きにも腰に凄まじい痛みが発生し、その度に自分は悶絶してしまう。自分はまずは一番上に着ているレインコートを脱ごうとしたが、痛みが原因で脱ぐ作業は遅々として進まなかった。
『フローチャート終わり』
ではフローチャートの続きを思い出していこうと思います。自分が凄まじい腰の痛みに耐えながら、下半身の防寒具を脱ごうとした、という話の続きです。自分は床に倒れた状態で下半身の防寒着を脱ごうとしますが、それは遅々として進みませんでした。その理由ですが、以下の3つが考えられると思います。
「防寒具を脱ぐ行為が遅々として進まなかった理由」
①腰に凄まじい痛みが生じているので、少し身体を動かすだけでも、激痛が走る。
②防寒具で身体がパンパンに着膨れしていて、身体の動きがかなり制限されている。着ていた服は、上下合わせて16枚程。下半身だけでも股引3枚、ジャージ3枚、デニム、レインコートを着ていた。
③立ち上がる事が出来ないので、床に倒れた状態で下半身の防寒具を脱がなくてはならない
上記の3つの理由の中で最も大きな理由はやはり①です。これがダントツでしたね。腰を1ミリ動かすだけでも激痛が走っていましたから。さらに②③の悪条件の中、レインコートを脱がなければなりません。自分は激痛に必死に耐えながら、少しずつ少しずつレインコートを下にずらして行きました。
また、厄介な事にレインコートを下にずらして行けばいく程、レインコートが手から遠くに移動しますから、それを触るには 身体を大きく動かさなければなりません。そして、身体を大きく動かせば、当然腰の激痛はさらに酷くなります。自分は必死に必死に激痛に耐えながら、レインコートを膝のあたりまでズラしていきました。
レインコートを膝の辺りまでズラすと、手に加えて膝から下の動きでもレインコートを動かせました。自分は相変わらず床に倒れた状態で、レインコートをさらに下にズラして行き、なんとかレインコートを脱ぎ終えました。ここで自分は少しの達成感を感じた記憶です。レインコート1枚脱ぐのに15分程かかりました。こんなに1枚を脱ぐのに時間がかかったのは後にも先にもこの時だけです。
しかし、下半身の防寒着はまだあと7枚も残っています。全て脱ぐにはこれをあと7回繰り返さなければなりません。自分は気が遠くなりましたが、やるしかありません。一息つくと、次の防寒着であるデニムを脱ぎ始めたのでした。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
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