鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。ツイッターを@skipper1242でやってましたが凍結されましたので、現在は@skipper954954でやってます。

父親と6年ぶりに接触する前の複雑な気持ち(2009年7月頃・33歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 「父親に自分のトラウマを全て喋る」という選択肢②(2009年7月頃・33歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、32歳の自分が「トラウマ歩き」に熱中しており、その最中に病的な冷え性に苦しんでいた、という話でした。また、それと同時に「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」にものたうち回っていた、という話でした。自分がこれらの心身の苦痛に苦しんでいた時期は、トラウマ歩きの2年目になります。


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「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。



では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。


「トラウマ歩きの前フリ」



次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。



「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」


2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。



そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。



このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。



この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。



それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。



と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。



このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。



このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。




また、トラウマ歩き2年目の2008年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。




ここからは前回の記事を引用したいと思います。トラウマ歩き2年目の秋頃、自分が「父親に自分の人生を喋ってみる」という選択肢を思い付き、それに傾いていった、という話になります。



『前回記事からの引用』




このように当時の自分は父親と接触する事になったのでした。今回の話は父親との接触に踏み出す直前の話をもう少ししていきます。そう、当時の自分としては父親と「対話」する気は毛頭ありませんでした。何故なら前回の記事に書きましたように、父親から帰ってくるリアクションは現実離れした頓珍漢なものである事が予想出来たからです。実際に過去には、父親がそのようなリアクションを自分にして、自分がそれにブチ切れるという事件も起こっていました。



加えて、当時の自分は父親に対して、「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていました。このような状態で自分が過去のトラウマを父親に喋り、そこで父親が頓珍漢なリアクションを返しでもしたら、もう自分は耐えられません。自分の頭の中は暴力衝動に支配され、それはなんらかの暴力行動として外に出ていく事でしょう。



ですから、当時の自分は父親と接触するにあたり、父親のリアクションを一切禁じました。当時の自分としましては、普段母親としているような日常的な雑談を父親とする気は一切無かったのです。今回自分が父親に喋りたい事は、ただひたすら自分の過去の話です。自分が学校生活における挫折やトラウマの話を一方的にするので、父親はただただ黙ってそれを聞け、という話です。



ここまで記事を書いてみて感じたのですが、当時の自分は父親には鼻から何も期待していなかった事が分かりました。一方2年前に母親とのコミュニケーション再開した際の自分は、母親から暖かいリアクションを期待していたのです。そう、当時の自分は母親に学生時代のトラウマや挫折を喋っていったのですが、その際に母親から「大変だったね」や「済まなかったね」といったリアクションを期待していました。しかし、母親からそのようなリアクションが返ってくる事は一切ありませんでした。当時の自分はそれに対してかなりの虚無感を感じた記憶です。



まとめますと、当時の自分は母親には暖かいリアクションを期待していましたが、父親には鼻から何も期待していなかった、という事です。この違いは、大きな違いだな、と思いました。当時の自分は両親それぞれに対して等しく「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていたのですが、それぞれに対する期待感は大きく違っていた、という話になります。



父親とのコミュニケーション再開の話に戻ります。自分はこの条件(リアクション禁止)を母親を通じて、父親に伝えました。そして、父親はそれを了承しました。自分は6年ぶりの父親との接触に踏み出す事となったのでした。


『引用終わり』



このように当時の自分は、父親とのコミュニケーション再開にあたり、父親に対して「一切のリアクション禁止」という条件を突きつけました。そして、父親はこの条件を飲みました。自分はいよいよ6年ぶりの父親との接触に臨む事となりました。



自分が父親と6年ぶりに接触したのは、2009年の秋頃の事です。自分はかなり重い気持ちでその日を迎えました。何度も書いていますが、当時の自分は父親に対して「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていました。本来ならこのような精神状態でコミュニケーションなどあり得ません。




しかし、この時の自分は、同様の憎悪を感じていた母親とのコミュニケーションにすでに踏み出していました。それはすでに1年半続いており、それにポジティブなものを感じ始めていました。そう、そもそも2年前の自分は母親に対しても「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪を感じていました。しかし、それを首吊りを覚悟して、なんとか乗り越え、母親とのコミュニケーションを少しずつ日常化させていったのです。1年半経た今では母親とのコミュニケーションは自分にとって必要不可欠なものになっていました。この経験は当時の自分にとって一つの成功体験になっていたように思います。



ですから当時の自分は父親とのコミュニケーションの復活を決断したのです。母親とのコミュニケーションの復活が上手くいったのですから、父親とのコミュニケーション復活も上手くいく可能性が高いと感じました。



しかも当時の自分は1年半前の自分と違って、家庭内で完全孤立状態に陥ってはいません。今や母親とのコミュニケーションは日常化されており、自分は家庭内で孤独ではなくなっていました。もしこの先の父親とのコミュニケーション復活で致命的なストレスが発生したとしても、それを母親に話す事で、そのストレスをある程度消化出来るような気もしていました。




このように当時の自分は父親とのコミュニケーション再開にあたり、それなりにポジティブな気持ちも持っていました。しかし、冒頭に書きました通り、一方ではかなり重い気持ちも持っていたのも事実です。このような複雑な気持ちで、父親との接触の日を迎えたのでした。




今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!




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