皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 当時の母親が自分の話をほとんど理解出来なかった理由(過去編・2007年10月・31歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事も、31歳の自分が近所の家が柴犬を飼い始めたのを発見し、致命的な絶望感を感じた、という話でした。これは2007年10月の話になります。その後紆余曲折を経て、母親と喋る気になっていった、という話になります。どうしてこの時の自分が致命的な絶望感を感じたのかと言いますと、当時の自分が「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態陥っており、病的(×18倍)な「音への被害妄想」を発症していたからです。
ではまず初めに、今回の記事の前提となる「前フリ」部分を貼りたいと思います。上記の「極度の虚脱状態と放心状態」がどのような状態だったのか、という説明です。いつもこのブログをお読みの方はスルーして下さい。
『前フリ』
まずは当時の自分が陥っていた「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態を確認したいと思います。これは2006年6月に両親が引っ越しをした事で、自分の心身が「極度の虚脱状態と放心状態」に陥った事を表しています。
そして、2007年3月に起きた「ぎっくり腰事件」によって、自分の鬱はさらに1.5倍悪化しました。よって自分の心身は「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態に陥ったのです。これは上記リンクの⑴〜⑻の諸症状がさらに1.5倍悪化した事を示しています。
また、上記リンクの⑹ には「2006年6月の引っ越しの際の致命的な精神的苦痛①〜⑥+1」とあります。これは2006年6月に両親が引っ越しを強行した事で自分が致命的な精神的苦痛を受けた事を示しています。この時受けた致命的な精神的苦痛によって自分は「極度の虚脱状態と放心状態」(上記⑴〜⑻)に陥ったのでした。
『前フリ終わり』
そして、「ぎっくり腰事件」から7ヶ月後の2007年10月、近所の家が犬を飼い始めたのでした。
自分が近所の家に犬を発見してからの心の動きをフローチャートで確認したいと思います。
[犬の鳴き声が発生してから、母親と喋り始めるまでのフローチャート]
ここからは前回の記事をそのまま引用します。当時の自分は母親のリアクションにムカついたものの、それは仕方がない部分があった、という話になります。
『前回記事からの引用』
今回の記事は、このフローチャートの続きを思い出していきます。自分が母親に小学校時代の万引きの話をしたのですが、そこで母親が自分に対して非難めいたリアクションをしてきたので、かなりムカついた、という話になります。
改めて思い出してみますと、やはりあれはムカつきました。そもそもこの両親が作った家庭環境が戦争状態だったが故に、子供の自分の心も荒廃し、それが万引きに繋がっていったのです。しかし、母親はそんな家庭環境を作った張本人であるにも関わらず、「万引き」行為を非難してきました。子供の自分に万引きさせたくなければ、両親が暖かい家庭環境を作っていれば良かっただけの話です。
そもそもこの万引きの話は、この時点で20年くらい前の話ですからね。その話を今更母親から非難されてもこちらとしては「はぁ???」てな部分もありました。しかも自分が自ら話したからバレた話であって、自分が言わなければ母親は知る由も無かった訳ですから。
このように、自分は母親に「A先生怒鳴られ事件」とその後の「万引き」の話をしましたが、それに対する母親のリアクションはかなりムカつくものだった印象です。しかし、現在の自分(2022年7月)としましては、この時の母親のリアクションは仕方がない部分があったと考えています。
1つ目の理由としましては、2007年当時の自分は、現在の自分(2022年7月)と比べると、過去の記憶を整理し切れてはいません。現在の自分(2022年7月)と比べるとその理解の深さは50%くらいです。ですから、2007年の自分が母親に小学校時代のエピソードを話そうとすると、小学校時代の自分の気持ちの50%程度しか言語化出来ていなかったように思います。つまり残りの50%は未だ整理されておらず、言語化されていない部分だったのです。
これでは母親に小学校時代の自分の気持ちが伝わるはずがありません。何故なら自分自身ですら、まだ50%しか小学校時代の自分を理解出来ていなかったのです。自分自身ですら理解出来ていないものを他人が理解出来るはずがない。
もちろん、2007年の自分は「自分は小学校時代の自分の気持ちを100%理解している」と思って喋っています。50%とは思っていません。そして、当時の自分からすれば、それらの話は自分の人生がひっくり返るくらいの目から鱗な大発見だったのでした。そして、その気持ちが「他人に自分の人生を喋りたい!」という原動力になっていました。
このように当時の自分は自分の小学校時代を100%理解していたと思っていましたが、実はそれは50%くらいの理解だったのでした。母親が自分の話を理解出来無かったのも無理はありません。
『引用終わり』
今回の記事はこの続きを思い出していきます。当時の自分(2007年)は小学校時代の記憶を50%程度しか理解していませんでした。これは現在の自分(2022年7月)の理解度と比べると、という意味です。ですから、当時の自分は小学校時代の自分の孤独や悲しさや精神ショックを母親に喋ったのですが、それは効果的に母親に伝わっていなかった、という感じです。ちなみにこの話を母親に喋るのは初めてでした。というか、自分はそれまでの人生の中で両親に対して自分の学校生活の話を喋った記憶は全くありません。
さて、このような理由で自分の小学校時代の辛さは母親に伝わり辛くなっていました。続けて、自分の辛さが母親に伝わり辛かった理由の2つ目について書いていきます。その理由は自分が母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた、からです。(どうして自分がこのような感情を持つに至ったのかについては、このブログのトップ記事「「人生年表と鬱のフローチャート」をご覧下さい。)
自分は母親と喋っている際、この溢れ出ら憎悪をなんとか抑えて喋っていましたが、こんなとてつもない感情を抑え切れるはずがありません。ですから、自分は母親と喋っている最中に些細な事でブチ切れまくっていましたし、些細な事で母親を激しく非難しまくっていました。例えば、母親がちょっと急用で5分くらい席を外すだけでもブチ切れまくっていましたからね。あれは完全に喧嘩腰の会話だったと思います。
ですから、母親からしてみたら、話の最中に自分からかなり理不尽にキレられ、非難されているような気持ちになったと思われます。これは母親からしたら凄まじいストレスだった事でしょう。現に、現在の母親(2022年7月)も当時の話になると、「あれは悲しかった、、」とよく言っています。ですから、そんな凄まじいストレス状態の中で自分の小学校時代の話を聞いても、そこに感情移入するのは難しかったのではないか、と思います。
ですから、自分の子供時代の話が母親に伝わり辛かった理由の2つ目は以下の通りになります。
・当時の自分が母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていたから
今回はここで失礼します。ありがとうございました!
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