鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

「犬の鳴き声が発生〜母親と喋り始める〜自分のトラウマを一通り喋り終わる」フローチャート


[犬の鳴き声が発生し、母親と喋り始め、までのフローチャート]



2007年10月、自分がいつものように自分の部屋で生活していると、最近犬の鳴き声をよく聞く事に気付いた(31歳)。最初の方は気のせいかと思ってたが、どうも気のせいではなさそう。最近明らかに犬の鳴き声を聞く頻度が増えていた。しかもその犬の鳴き声は家のかなり近くから聞こえている。犬種としては柴犬などの中型犬の鳴き声。



当時の自分は「音」に対して病的(×18倍)な被害妄想を発症していた。上記の『「極度の虚脱状態と放心状態」における8個の鬱の諸症状』、この中の⑶が主な原因であった。



⑶引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×12倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)



この病的な被害妄想は「ぎっくり腰事件」を経てさらに1.5倍悪化していた。よって12×1.5=18。つまり病的(×18倍)な被害妄想となっていた。



故に自分は犬の鳴き声を聞く頻度が増えている事に気付き、致命的な不安感を感じた。とにかく当時の自分は周りのどんな些細な生活音も許す事が出来ない精神状態だった。その生活音によって自分の睡眠が極度に脅かされる気がしてしまう。それは病的(×18倍)な被害妄想を発症している自分にとって、生命の危機と直結していた。



上記のように当時の自分は、ただでさえ眠る前の恐怖感が凄まじい状態だった。ここでさらにその恐怖感が増えでもしたら、自分は全く睡眠が取れなくなり、衰弱死してしまうように思えた。故に、自分はその犬の鳴き声に対して病的(×18倍)な被害妄想と不安を感じた。





凄まじい不安に襲われた自分は、とりあえず犬の鳴き声の正体を確認しようと思った。そこで近所を歩いてみたのだが、すぐにその正体が判明。斜め向かいの家がいつの間に柴犬を飼い始めていた。その柴犬は屋外に飼われており、家の前を人が通るたびに吠えかかっていた。最近聞いていた犬の鳴き声はこの柴犬に間違い無かった。




斜め向かいの家に柴犬を発見すると、自分の頭の中で激しいめまいが発生した。「自分にとって最も起きてほしくない出来事が起こってしまった。その現実を頭が受け入れきれない。」そんな状態。言葉にすると「全くもって信じられない、、、、」。



自分は致命的に絶望的な気持ちで部屋に戻ってきた。当時の自分は「音」に対して病的(×18倍)な被害妄想を発症していた。とにかく眠る前や眠っている最中の「音」が恐ろしくて仕方ない。それによって自分の睡眠が妨害される事が致命的に恐ろしかった。



この症状は直接的には上記の『「鬱の廃人」×4倍状態における8個の鬱の諸症状』の中の上記⑶の症状が原因だった。しかし、この症状には⑵の症状も強く影響していた。


⑵「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)



このように当時の自分は「家族に殺されるかも」という病的(×12倍)な被害妄想の中で寝付かねばならなかった。それは凄まじい致命的な恐怖だった。故に「睡眠を妨害する音」が許せなかった。凄まじい恐怖に耐えてようやく寝付けた所を起こされてしまったら、それまでの恐怖の時間が水の泡。ちなみに当時の自分がベッドに入ってから寝付くまでの時間は1時間程度。




故に引っ越し後の自分は⑵、⑶の症状に苦しみまくっていた、そして、「ぎっくり腰事件」を経て、⑵、⑶はさらに1.5倍に悪化していた。つまり、「ぎっくり腰事件」後の自分は周りの物音に病的(×18倍)に過敏になっていた。これによって近所の家がよく吠える柴犬を飼い始めた事に対して、致命的な絶望感を感じた、という事になる。



また、この時の自分が感じていたのは、致命的な絶望感だけでは無かった。両親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪も爆発していた。何故なら、引っ越しをする「以前」の近所では、周りに犬を飼っている家は無かったから。ところが引っ越しをしたばかりに近所に吠える犬が出現してしまった。またも自分は「引っ越し」によって致命的な精神的苦痛を受ける事になった。




よって近所が柴犬を飼い始めて以降、自分の睡眠はさらに劣化していった。それは以下の3つの精神的苦痛によって、寝付きがさらに悪くなっていったから。自分はベッドの上で以下の3つの精神的苦痛にのたうち回る事となった。そして、寝付けたとしても睡眠が極めて浅い状態になっていった。



⑵「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×18倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)


⑶引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×18倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)


・両親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪



この状態は7ヶ月前の「花粉症発症→ぎっくり腰事件」における「花粉症発症後」の状態によく似ていた。あの時の自分も花粉症発症後に両親に対する憎悪が爆発し、それによって眠れなくなっていき、心身が衰弱していった。



このように自分は近所の家に犬を発見して以来、凄まじい勢いで心身を衰弱させていった。近所の犬の吠え声が恐ろしくて、眠る事が出来ない。もう少し詳しく書くと、「寝付いた後に犬の吠え声で起こされてしまう事」が恐ろしくてたまらなかった。



もちろん、自分は常日頃から寝る際には必ず耳栓をして寝ていた。周りの生活音を遮音する為には耳栓を使うしか無かった。長年に渡って色々な耳栓を試した末に、かなり遮音性の強い耳栓をしていた。それは付け続けると耳の穴が痛くなる程の耳栓。そして、さらにその上からイヤホンを付けて、そこからラジオを流していた。これにより、寝付く際の凄まじい恐怖感を紛らわそうとしていた。自分にとってはラジオが睡眠薬代わりだった。しかし、ここまでしても恐怖心は凄まじいものがあり、毎回寝付くまでに1時間かかっていた。




このような状況下で近所が犬を飼い始めたのだった。自分はその吠え声が恐ろしくて仕方ない。その犬は家の前を人が通ると毎回の様に吠えていた。それは昼夜を問わなかった。そして、当時の自分は病的(×18倍)な被害妄想を発症していた。これは普通に起きて生活している時ですら、犬の吠え声が聞こえると、まるで自分が殴られているくらいの精神的ダメージが発生している状態。故に、これがベッドの中に入ってしまうとその恐怖は致命的なものがあった。



自分はベッドの中で必死にその恐怖を我慢して寝ようとするが、その恐怖と緊張で全く眠気が起こらない。そして、この時の自分の心の中には、両親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪も発生していた。もちろん、これによっても自分は寝付く事が出来なかった。



そこから自分は必死に必死に恐怖と緊張と憎悪に1時間耐え、それでようやく寝付けていた。そして、寝付けた後も致命的な恐怖と憎悪の中での睡眠は極めて浅いものだった。故に4〜5時間寝たとしても、眠る前よりもさらに疲労している様な状態が続いた。




このような日々が続いていき、自分は凄まじい勢いで心身を衰弱させていった。そう、この時の衰弱は9ヶ月前の「花粉症発症→ぎっくり腰事件」の際の花粉症発症直後の衰弱状態と似ていた。あの時も自分は睡眠が取れなくなり、凄まじい勢いで衰弱していった。それはそれまでの31年間で最も激しい衰弱だった。故に自分はその後ぎっくり腰を発症した。





そして、犬出現後の自分の衰弱も致命的に激しいものだった。その激しさは「花粉症発症後」と並ぶか、「花粉症発症後」より激しかったくらい。故に犬出現後の自分もぎっくり腰になってもおかしくなかった。しかし、結局この時の自分はぎっくり腰にはならなかった。



ぎっくり腰にならなかった代わりに自分の心の中に浮かんできたのは、上記⑻の救いだった。『今こそ「首吊り装置」という名の「最終安全装置」を作動させるべきでは??』、と。そう、この衰弱地獄から抜け出す為には首を吊ってこの世から離脱するしかないように思われた。



当時の自分は犬出現からの精神的苦痛を全てノートに書き綴っていた。そこでノートを書いていく中でいよいよ⑻の救いに手を伸ばすかどうか考え始めた。この時の自分の心身は過去一追い込まれていたので、心の中にそれが思い浮かぶのは当然の流れだった。そもそも自分は20歳の頃から「自殺願望」だけを心の支えにして生きてきた人間だった。




この時の自分の心身は過去一追い込まれていた。それは死の恐怖に怯え続けた大学空手部時代と比較にならない程の苦痛。自分は上記⑵、⑶の恐怖」と「両親への憎悪」によって、睡眠をまともに取る事が出来ない。そのようか日々が2週間程続いていった。その中で自分は自分なりに犬の吠え声への対策をしたりもした。部屋の壁に防音シートを貼ったり、ベッドの位置を変えたり。しかし、どれも効果は薄く、全く⑵、⑶の恐怖は減らない。自分の睡眠は極度に劣化していき、心身はさらに衰弱していった。自分の生活はさらに意識朦朧とした状態になっていった。



すると、自分の耳には「幻聴」が聞こえるようになってきた。それは自分がベッドの中で寝付く為に横になっている時の事。自分はキツい耳栓を付け、その上からラジオを流し、凄まじい恐怖に耐えながら、寝付こうとしていた。すると、耳元で犬の鳴き声がかなりの音量で聞こえた。自分はびっくりして跳ね起きた。その音量は耳栓を付けている状態では、あり得ない音量だった。



この時の自分はキツい耳栓を付けていたので、普段ベッドの中にいる時にはほとんど周りの音が聞こえていなかった。性能が良い耳栓を使っていたので、周りの生活音が1/7くらいまで抑えられていた。犬の鳴き声も1/7まで抑えられていた。それは遠くの方でなんとなく犬が吠えてるなレベルの音量。この音量は健康的な精神をお持ちの方なら、全然耐えられるレベルの音量。



しかし、当時の自分は違っていた。当時の自分は病的(×18倍)な被害妄想を発症していたので、その1/7の音量の犬の吠え声ですら致命的に耐えられなかった。自分にとっては、その1/7の音量ですら、睡眠を甚大に脅かす殺人的な音だった。故に自分はその音に病的(×18倍)に恐怖し、睡眠が凄まじい勢いで劣化していった。同時並行で心身も衰弱していき、自分は過去に無い程追い込まれていった。



そんな日々が2週間程続いた後の事。急に耳元で犬が吠える声がした。キツい耳栓を付けているにも関わらず、まるで耳栓を付けていない状態かのような音量。自分はびっくりして跳ね起きた。それはあり得ない音量だった。




自分は眠気と疲労感で意識朦朧としている中、思考を振り絞った。「これは異常事態が起こっている。」、と。そして、「考えたくはないけど、今の音は幻聴っぽい」、と。キツい耳栓をしているにも関わらず、まるで耳元で犬に吠えられたような事態が起こった。この事態は幻聴以外考えられなかった。こんな事は生まれて初めての現象だった。




当時の自分は自分の心身がこれまでに無い程追い込まれている事を自覚した。



それはほんと悪夢のような幻聴たった。かなり強い耳栓をしているにも関わらず、まるで耳栓をしていないかのような音量で犬の吠え声が耳元で聞こえたのだから。あれは自分の心が作り上げた「幻聴」という感じ。余りに音への恐怖が致命的が故に、脳が壊れて「幻聴」を産み出してしまった、そんな感じ。




これにより、自分の心身はさらに追い込まれていく事になった。何故ならあの「幻聴」は強い耳栓をしても防ぎようがない。それまでの自分は、耳栓によって抑えられた1/7の音量にさえ甚大に恐怖し、心身が衰弱していった。それがここに来て、7/7の音量の犬の吠え声が聞こえ始めたのだ。1/7の音量でさえ自分の精神にとって致命的なのだから、これが7/7の音量になったら、これは「死」そのもの。自分はいよいよ心身が限界を迎えつつある事を理解した。



となると、さらに激しくなるのは上記の⑻の救いだった。⑻は以下の通り。


「鬱の廃人」×4倍状態における8個の鬱の諸症状


⑻上記の7つの諸症状は耐え難い心身の苦痛を常に自分に発生させていた。故にこのような日々の唯一の心の支えが、「首吊り装置」という名の「最終安全装置」だった。この時の具体的な気持ちは以下の通り。


当時の自分は、余りの憎悪や被害妄想や肉体的苦痛に耐えられず、自我を失いそうになったら、さっさと首を吊ってこの世から離脱する事を決意していた。何故なら当時の自分が最も恐れていた事態は以下の事態。


自分の自我が憎悪と被害妄想に飲み込まれてしまい、正気を完全に失い、「自殺」という現実離脱手段すら使えなくなる事態。(具体的には、自分が気が狂った末に、精神病院の閉鎖病棟に隔離され、死ぬまでそこで苦しみ続けるような状態を想定)




そう、幻聴が聞こえたということは、まさに自分が正気を失いそうになっているという事の証だった。となると完全に正気が失われる前に、現実世界から離脱しなければならない。この時の自分はそれまでの31年間の中で最も現実的に「首吊り装置」の作動を考えていた。そして、その気持ちを意識朦朧とする中ノートに書き続けていた。



自分はノートを書き続ける中で自問自答を続けた。『「首吊り装置」を作動させるのは良いとして、その前にやり残した事はないのか??』、と。そう、この世から離脱する前に、もう1度そこを確認しておかねばならなかった。1度離脱してしまえば、後戻りは出来ない。そこの確認は最重要だった。



そこで自分は考えた。「自殺する前に母親と喋ってみるのはどうだろう?」、と。これはそれまでの自分では天地がひっくり返ってもあり得ない発想だった。さらに自分は考えた。「どのようにして幻聴が聞こえるまで自分の精神を壊れていったのか、これまでの31年間の経緯を母親に洗いざらいぶち撒けてみるのはどうだろう?」、と。「どうせ死ぬなら、これまでなら絶対に不可能だった事に挑戦し、それで駄目ならその時こそ死ねばいいじゃん」、と。




遡る事2年前。自分は全ての社会生活から脱落し、引きこもり状態に陥っていた。そこから自分は自分のトラウマをノートにひたすら書いていく日々を送り続けた。自分はそれによって自分の人生がどのように壊れていき、心身がどのように壊れていったのかを理解した。



自分が母親に対してぶち撒けてみようと思ったのは、上記の経緯だった。確かに当時の自分は自分の人生を誰かに喋りたい衝動に駆られてはいた。故に引きこもり明けの自分は1回1万円払ってカウンセリングに通っていた。しかし、その喋り相手は家族だけは絶対的に無かった。





何故なら当時の自分は家族全員に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。故に家族とのコミュニケーションなど絶対的にあり得ない。特に引っ越し以降その傾向はさらに激しくなっていた。しかし、「自殺」という選択が目の前に迫っていると、その「あり得ない」選択が「ある得る」選択に変化しようとしていた。




それは「死」に対するリアリティがこれ以上なく高まっている状況下で、自分の心の中に「死に対する恐怖」が発生し、その恐怖が自分の心に変化をもたらした、とも考えられる。



犬出現から2週間くらい経った頃、自分の気持ちはいよいよ親と喋る方へ傾いていった。次に問題となったのは、両親のうちどちらと喋るかだが、これは「母親」という選択しかなかった。「父親」という選択肢は全く無かった。何故なら自分は前年の7月から1年以上に渡って、母親から月6万円の生活費を補償されていた。当時の自分は両親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていたので、その為の接触ですら、気が狂いそうなものだった。しかし、そうは言っても母親から毎月6万円を黙って渡される状況が1年以上続き、その中でほんの少しだが母親に対して信頼感のようなものが生まれてきていた。



また、そもそも前年の7月に自分が月6万円の生活費を親に請求する際、その請求相手として選んだのは「父親」ではなく「母親」だった。その理由は、自分が両親それぞれに対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を持つに至った「経緯」の違いにあった。(詳しくは「 母親に対してパチンコ稼業の補償を求める(過去編・2006年6月・30歳) 」)



上記の2つの理由によって、自分は母親に対して自分の31年間のトラウマをぶち撒けてみようと思うに至ったのだった。





しかし、何度も書いているようにそれは当時の自分からしたら三重の意味であり得ない選択肢だった。母親とコミュニケーションをとる事自体が絶対にあり得ないし、さらにそこで自分のトラウマまみれの31年間を喋ろうと言うのだから。自分は小、中、高、大学と、人間関係に挫折し続け、鬱を悪化させていった。そんな全くもって思い出したくもないトラウマ全てを母親にぶち撒けようというのだ。また、自分の全てのトラウマを母親に喋って聞かせるという事は、膨大な時間がかかる事も容易に想像出来た。「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じている人間と膨大な時間を過ごすのだ。こんな事は三重の意味で気が狂っている選択肢だった。





しかし、この時の自分は幻聴を発症し、まさに気が狂う寸前の状態でもあった。これは正気を失う一歩手前の状態。そんな状態だからこそ、「親に31年間のトラウマ人生全てを喋る」という三重に気が狂った選択肢が出現したのだろう。




自分は意識朦朧としながらも、自分の気持ちをノートに書いていき、この先自分がどうするべきか、考えていった。この時の自分の選択肢は以下の2つ。



・首を吊ってこの世から離脱する。


・親に31年間のトラウマ人生全てを喋る。



これは究極の選択だった。自分はこれまでも「首吊り」or「〇〇」という選択を何度もしてきたが、これが究極にして最後の選択だった。





ここで重要なのが、自分が母親に対して何をぶち撒けようとしていたのか、という所だった。この時の自分がぶち撒けようとしていたのは、自分の31年間のトラウマ人生の全て。



確かに2年前の引きこもり期間を経て、当時の自分は自分の人生を他人に喋りたい衝動に駆られていた。故に引きこもり後はパチンコで稼ぎながら、カウンセリングに通い続けてもいた。しかし、自分は「引っ越し事件」を経て、カウンセリングに対して無力感を感じ始めていた。当時の自分の言語化能力では、この事件における致命的な精神的苦痛を言語化する事は不可能だった。よって、事件以降自分はカウンセリングから足が遠のいていった。パチンコ稼業を辞めた事により、金銭的にも余裕が無くなってしまった、という事情もあった。



しかし、引っ越し後の自分の心の中には依然として「自分の人生を他人に喋ってみたい!」という衝動が激しく燃え続けていたと思われる。しかし、その衝動を家族にぶつける事は最もあり得ない選択肢だった。何故なら当時の自分は家族に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていたから。



そして、引っ越しから1年4ヶ月後、近所に犬が出現した事により、自分の心身は過去に無いほど追い詰められる事になった。そして、過去に無いほど自殺への傾倒が激しくなっていった。これによって、上記の最もあり得ない選択肢が、あり得る選択肢に変化しようとしていた。それは「死」を目の前にして恐怖心が発生し、それがもたらした変化だったのかもしれない。




また、自分の心の中には、「自分の人生を他人に喋ってみたい!」という激しい衝動が燃え盛っていた。「もし」この時の自分の心の中に両親に対する憎悪が全く無かったら、という仮定の世界を考えてみると、この話の喋り相手として最も適任な人間として考えられるのが、うちの両親。何故なら自分はこの両親が作り出した家庭環境下で自己肯定感をどんどん奪われていき、それが学校生活での挫折の数々に繋がっていったから。



つまり、うちの両親は自分の人生に最も近い距離にいた「当事者」だった。となると、自分の人生をぶち撒ける相手としてこれ以上の適任者はいない。しかも「当事者」であり「責任者」でもあった。自分の心身と人生を2度もぶち壊した責任がこの両親には発生していた。



ただし、実際の現実世界においては、当時の自分は両親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。このような状態で両親とのコミュニケーションなど絶対的にあり得ない。しかし、近所に犬が出現後、自分の心は過去最大に「首吊り装置」へ傾倒していった。すると、死を目の前にして、あり得ない選択肢があり得る選択肢に変化し始めた。



自分はノートを書きながらこう考え始めたのだった。

「どうせなら首を吊る前に、この気が狂った選択肢を試してみてもいいかもしれない」




上記の結論に辿り着いた翌日、自分は早速母親との接触を測った。自分は接触を図る直前、ものすごく複雑な気持ちだった。何度も書いているように、当時の自分は母に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。本来ならコミュニケーションなど絶対的にあり得ない状態。



しかし、この時の自分は犬の出現によって、過去に例が無い程自殺への傾倒が高まっていた。そんな中で出現した選択肢は「自殺」or「母親と喋る」。当時の自分にとって「母親と喋る」という選択肢は三重の意味で狂っている選択肢だった。



ところが、当時の自分がこの選択肢にある種の希望を見出していたような記憶もある。何故なら自分が過去のトラウマをぶち撒ける相手として、母親はこれ以上ない喋り相手だったから。フローチャートにもあるように、両親は自分の人生の最も近くにいた「当事者」であり、自分の人生を2度破壊した「責任者」でもあった。



ですから、当時の自分は母親と接触を図る直前、以下の2つの気持ちに引き裂かれていた。


・三重の意味で狂っている選択肢を選ばなければならなくなってしまった事に対する、致命的な絶望感。


・母親にこれまでのトラウマをぶち撒ける事で、もしかしたら自分の人生に良い変化が起こるかも、という期待感。


このような精神状態で、自分は母親との接触に踏み出したのだった。





自分は上記の致命的な自己矛盾を抱えながら、母親と接触を図ろうとしていた。この時の自己矛盾は、過去最大だったかもしれない。





2007年3月中旬のある日、自分は意を決して1階のリビングに降りて行った。時刻は確か朝11時頃。前夜の自分は、上記の自己矛盾に激しく心を掻き乱され、ほとんど睡眠が取れなかった記憶。1階のリビングでは母親が一人でTVを見ていた。自分は「話があるんだけど」と切り出した。そこから自分はまずは現在の自分の話をした。それは2週間前に近所に犬が出現して以降、自分の睡眠が致命的な脅かされている、という話だった。



自分は言った。犬の吠え声が原因で自分は凄まじい恐怖の中で寝付かねばならず、この2週間ほとんど睡眠が取れていない、と。その後にもしかしたら、「あまりに辛いので自殺も考えている」的な事を言ったかもしれない。



ここで重要な事は、当時の自分は現状の精神的苦痛をほとんど言語化出来てはいない。つまり、上記のフローチャートに書いてある、


・「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態における8個の鬱の諸症状

・東○荘事件の後、両親が引っ越しの強行を決めた事による、過去に例を見ない程の挫折感と虚無感

・引っ越しに対する凄まじい憎悪と絶望感、その6つの理由


当時の自分は上記の諸症状や憎悪の理由を何一つ言語化出来てはいなかった。それ故、何故に自分が犬の吠え声にここまで苦しんでいるのか、筋を追って説明する事が全く出来ない。実際には上記の諸症状や憎悪がその苦しみの原因の全てなのだが、当時の自分はそれらを全く言語化出来ておらず、認識出来ていなかった。




故に自分が犬の吠え声に対する苦しさを母親に訴えても、それが母親に伝わっている様子はほとんど無かった。実際に当時の自分が母親に対して言語化出来た精神的苦痛は、上記の苦痛の1/100くらいなものだった。それに対して、自分は自分の苦しさをほとんど言語化出来ない事自体が苦しくてたまらなかった。自分の心の中の苦しさを言語化して外に吐き出す事がまるで出来ないのだから。




故に自分の苦しさは母親にほとんど伝わっていない様子だった。その様子を見ると、心の中で母親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪が激しく燃え上がり、そらによっても頭が狂いそうだった。




そこで自分は話を変える事にした。そもそも自分が母親に対してぶち撒けたかったのは、「自分自身のトラウマまみれの31年間」。正確に言うと、引っ越し以前の29年間。そう、自分がぶち撒けたかったのは、引きこもりの1年間で言語化した自分のトラウマの数々だった。それは小学校、中学校、高校、大学時代のトラウマの数々。自分はそれらのトラウマによって、鬱を悪化させていき、社会生活から脱落し、挙句の果てには犬の鳴き声に首吊り寸前まで追い詰められていったのだった。




故に当時の自分は母親に犬の鳴き声の苦痛を理解させる為に、まずは自分の小学校時代のトラウマから喋る必要がある、と考えた。自分の小学校時代のトラウマと言えば、小学校3年生の時の家庭環境の急激な悪化、そして、小学校6年生の時のA先生怒られ事件。


自分は母親に対して激しい憎悪を滲ませながらこう言った。「小学校3年生の時に親父が開業した事で、うちの家庭環境が急激に悪化し、戦争状態に突入した。それが原因で自分の精神年齢の成長が小学校3年生で止まり、学校生活において、様々なトラウマを抱える事となった」、と。



遡る事3年前。それは自分が28歳〜29歳の頃の話。当時の自分は社会生活と家族関係から完全脱落し、ひたすら自分のトラウマをノートに書いていく作業をしていた。当時の自分は、以下の謎を解きたくて仕方なかった。


「何故に自分の人生はどこにも居場所が作れず、社会から脱落する羽目になってしまったのか??」



そして、自分は1年間かけて学生時代のトラウマを全てノートに書いていった。そこで、家庭環境がトラウマ発生にどう影響したのか、その因果関係も丁寧に繋いでいった。これによって自分は上記の謎を解き、他人に自分の人生を喋りたくて仕方ない状態になっていた。



故に自分が母親に対してぶち撒けたかったのは、この時言語化した学生時代のトラウマ全てだった。加えて、そのトラウマ発生の原因は100%家庭環境にあった、という話だった。




そこで自分は母親に小学校時代の話をし始めた。それは小学校3年生の時に父親が開業し、それによって我が家が戦争状態に陥った、という話。そして、それによって子供の自分のメンタルがどれだけ悪化し、それが健康にどのような悪影響与えていったのか、という話。さらに、家庭内が戦争状態に陥った事で、自分の精神年齢の成長が小学校3年生で止まってしまった、と。





小学校時代の記憶において最も重要な事は、自分が「小学校3年生」の時に家庭環境が戦争状態に陥った、という事だった。この頃に父親が自宅で開業をし、それにより致命的なトラブルの数々が勃発。夫婦仲が戦争状態に陥っていった。この事を自分が喋った際の母親のリアクションは良かった印象。概ね同意と言った所で、母親も父親の開業に関しては色々思う所があるようだった。



その後自分は小学校6年生の時に起きた、「A先生怒られ事件」についても喋った。ただし、この事件に関する母親のリアクションは良くなかった記憶。当時の自分はこの事件でかなりの精神的ショックを受けたのだが、母親のリアクションを見る限りその1/3くらいしか理解していないようだった。



何故そう感じたのかと言うと、この話は後半で当時の自分が万引きをする件りがあるのだが、これに関して母親がこちらを非難するような言動を言ってきたから。「私の子供が万引きするなんて信じられない!!」的な感じ。自分はこのリアクションを見てかなりムカついた。




小学校6年生の自分は「A先生怒鳴られ事件」によって、かなりの精神的ショックを受けたのだった。そして、この事件のショックを誰にも喋る事が出来なかった。当時の自分は両親を一切信頼していなかったし、心を開ける友人、親戚も皆無だったから。故に当時の自分の中でこの精神的ショックはまるで消化されず、それによって「虚無感」が凄まじい勢いで増大していった。自分は何もかもがどうでもよくなっていき、その「虚無感」が万引きに繋がっていった。




故にこの時の母親が見せた万引きを非難するような言動、これは自分にとってお門違いも甚だしいものだった。そもそも小学校6年生の自分は両親を一切信頼していなかったのだが、その原因は小学校3年生の時の家庭環境の急激な悪化にあった。この頃からうちの両親は仕事と夫婦喧嘩に全ての時間とエネルギーを投入し始め、子供の自分の事を完全放置し始めたのだから。これは両親自身が子供の万引きの原因を作っていたようなもの。



そもそもこの両親が作った家庭環境が戦争状態に陥ったが故に、子供の自分の心も荒廃し、それが万引きに繋がっていったのだった。しかし、母親はそんな家庭環境を作った張本人であるにも関わらず、自分の「万引き」行為を非難してきた。当時の自分に万引きさせたくなければ、両親が暖かい家庭環境を作っていれば良かっただけの話だった。




そもそもこの万引きの話は、この時点で20年くらい前の話だった。その話を今更母親から非難されてもこちらとしては「はぁ???」てな部分もあった。しかも自分が自ら話したからバレた話であって、自分が言わなければ母親は一生知る由も無かったのだ。



このように、自分は母親に「A先生怒鳴られ事件」とその後の「万引き」の話をしたのだが、それに対する母親のリアクションはかなりムカつくものだった。しかし、現在の自分(2022年7月)は、この時の母親のリアクションは仕方がない部分があったと考える。



その1つ目の理由としては、2007年当時の自分は、現在の自分(2022年7月)と比べると、過去の記憶を整理し切れてはいなかった。現在の自分(2022年7月)と比べるとその理解の深さは50%くらい。故に2007年の自分が母親に小学校時代のエピソードを話そうとすると、小学校時代の自分の気持ちの50%程度しか言語化出来ていなかった。つまり残りの50%はまだ言語化されておらず、整理もされていなかった。




これでは母親に小学校時代の自分の気持ちが伝わるはずが無かった。何故なら自分自身ですら、まだ50%しか小学校時代の自分を理解出来ていなかったのだ。自分自身ですら理解出来ていないものを他人が理解出来るはずがない。



もちろん、2007年の自分は「自分は小学校時代の自分の気持ちを100%理解している」と思って喋っていた。まさか自分の理解度が50%とは思っていない。そして、当時の自分からすれば、50%の理解度でも自分の人生がひっくり返るくらいの目から鱗な大発見だった。そして、その気持ちが「他人に自分の人生を喋りたい!」という原動力になっていた。





このように当時の自分は自分の小学校時代を100%理解していたと思っていたのだが、実はそれは50%くらいの理解だった。母親が小学校時代の自分の気持ちを理解出来無かったのも無理はなかった。





続いて、自分の辛さが母親に伝わり辛かった理由の2つ目、それは自分が母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた、から。(どうして自分がこのような感情を持つに至ったのかについては、このブログのトップ記事「「人生年表と鬱のフローチャート」参照)



自分は母親と喋っている最中、この溢れ出る憎悪を必死に抑えて喋ってはいたが、こんなとてつもない感情を抑え切れるはずがなかった。故に、自分は母親と喋っている最中に些細な事でブチ切れまくっていたし、些細な事で母親を激しく非難しまくっていた。あれは完全な喧嘩腰の会話。



これは、母親からしたらかなり理不尽な気持ちになったと思われる。凄まじいストレスだった事だろう。母親は母親で、それまでの10年間において父親がもたらす致命的なトラブルの数々に振り回され続け、心が病んでいった歴史があった。その上、息子である自分から凄まじいストレスを受ける事になったのだ。現に、現在の母親(2022年7月)も当時(2007年10月)の話になると、「あれは悲しかった、、」とよく言っている。故に、そんな凄まじいストレス状態の中で自分の小学校時代の話を聞いても、そこに感情移入するのは難しかったであろう。




このように自分の子供時代の話が母親に伝わり辛かった理由の2つ目は以下の通り。


当時の自分が母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていたから




3番目の理由は、2つ目の理由と密接に絡んでいた。確かに当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。何故なら自分のそれまでの人生は両親によって2度破壊されたも同然だったから。(詳しい経緯は、このブログのトップ記事「「人生年表と鬱のフローチャート」参照)




そして、当時の自分はこれに関しての責任は、父親と母親それぞれに50%ずつあると感じていた。何故ならうちの父親は自分が小学校3年生の時に自宅で開業し、それによって致命的なトラブルを次々に家庭内に持ち込み続けた。これより、うちの両親はそれへの対処を巡って激しく対立し、全ての時間とエネルギーを仕事と夫婦喧嘩に投入していったのだった。そして、その夫婦喧嘩は母親が常に父親を激しく責め立てるものだった。自分はこのような不毛過ぎる情景を幼い頃から10年以上ずっと目の前で見させられてきた。



よって当時の自分(2007年)は、この長年の戦争状態の責任は、父親と母親それぞれに等しくあると感じていた。この2人が作り上げだ家庭環境こそが全ての元凶だったのだから。故に、当時の自分は両親それぞれに「等しく」「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。



当時の自分のこの見解は、母親とのコミュニケーションが進むにつれて徐々に変化していく事となった。ここから先の話は、このブログの先の内容を先取りする。自分は2007年10月から母親とコミュニケーションを取り始め、それは2008年、2009年と続いていった。最初の頃は、自分が過去のトラウマをひたすら母親に喋っていく展開が続いた。そして、それが一段落付いたのが、2008年夏頃だっただろうか。この頃になると自分は自分のトラウマを一通り母親に喋り終わったのだった。



すると自分の心の中で思ってもみなかった変化が訪れた。今度は自分の心の中に、母親の人生に対する興味が湧いてきたのだった。そう、自分はそれまで母親の人生に対して興味が全く無かったのだが、ここに来てそこに対する興味が俄然湧き上がってきた。そこで自分は母親から母親の人生を聞き出し始めた。




自分が母親の人生に興味を持ち、それを聞いていくのは生まれて初めての事だった。それまでの自分は母親がどんな人生を歩んできた人なのか、全く知らなかった。そう、自分と母親は31年間一つ屋根の下に暮らし続けてきたが、自分は母親の事を全く知らなかったのだ。もちろん、母親も自分に対して一切興味を示さなかったので、母親も自分の学生時代を全く知らなかった。




母親の人生を聞く前、自分はこう予想していた。「自分は幼い頃から母親の暗い顔しか見た事がない。という事は母親という人間は、幼い頃から暗い人間だったのだろう。だから母親の子供の自分も、暗い少年時代を過ごす事になったのだ。」、と、



そのような思いで自分は母親の人生を聞き始めた。するとそこには自分が全く予想していなかった人生が広がっていた。そう、母親の子供時代の話を聞いた所、それはとても無邪気で明るいものだった。子供時代の母親は、友達や姉と一緒に野山を駆け回り、周りの大人達に可愛がられ、絵に描いたような子供らしい子供時代を送っていた。まるで映画に出てくるような無邪気で牧歌的な子供時代。そのような子供時代は、自分には全く無かったものだった。自分の子供時代と言えば、物心ついた頃には喘息を発症しており、全く運動が出来ず、友達と楽しく遊んだ記憶もほとんどない子供時代だった。




よって自分は母親の明るい子供時代の話を聞き、とても驚いた。しかし、一方でかなりムカついたのも覚えている。それは「嫉妬」だった。自分が持っていない「明るい子供時代」を母親が持っていた事への嫉妬だった。



母親が牧歌的な子供時代を過ごしていた事で、自分が考えていた家庭内の責任問題に関する考え方が徐々に変わっていった。家庭内の責任問題とは、自分が小学校3年生の時に家庭内が戦争状態に陥り、それが10年以上続いた事に対する責任問題。自分は話を母親から話を聞く以前、この責任問題に関して父親と母親それぞれに50%ずつあると感じていた。この2人が作り上げた家庭環境なのだから、それぞれに50%ずつ責任がある、という考え方だった。



このような事前予想の元、母親の子供時代の話を聞いていった。すると、予想に反して全くもって羨ましい程の明るい子供時代を母親は過ごしていた。その後の人生も父親と結婚するまでは、闇の要素は特に無かった。すると徐々に先程の責任問題の考え方が変わっていった。それはどういう事かと言うと、自分が考える母親の責任の割合が50%から徐々に下がっていったのだった。




自分は母親の人生を一通り聞いた後、半年程時間を置き、今度は父親に自分の31年間のトラウマを喋り始めた。これも全て喋り終わるまでに半年間くらいかかった記憶。その後、今度は父親の人生を3〜4か月かけて詳細に聞いていった。すると、そこで語られた話は、自分の想定を上回る程の闇深い子供時代、学生時代、家庭環境の話だった。




父親の人生及び家庭環境が闇深いであろう事はある程度は予想していたが、それを上回る闇深さだった。キーワードとしては、「引きこもり」「超学歴偏重」「新興宗教」「オカルト」「大学を6年間休学」。



つまり、自分が両親の人生を詳細に聞いていった結果、以下の結論に至った、という事になる。


母親の人生→予想に反してとても明るく、牧歌的な子供時代を送っていた。学生時代、社会人時代も父親と結婚するまでは、闇の要素は特に無し。


父親の人生→予想を超える闇深い人生。子供時代も学生時代も育った家庭環境も全てが闇深い。キーワードは「引きこもり」「超学歴偏重」「新興宗教」「オカルト」「大学を6年間休学」。




自分は2〜3年かけて両親の人生を聞き終わった。こうなると、自分の中での責任問題は、ますます父親に傾いていった。そう、両親の人生を聞くまでは父親:母親=50%:50%だったが、両親の話を聞き終わる頃にはそれは70%:30%くらいにまで変化していた。そして、その後も自分は両親と対話をし続け、現在(2022年7月)では、90%:10%になっている。


これはつまり我が家が10年以上に渡って戦争状態であり続けた責任は、ほとんど父親にあったという事だった。父親は闇深過ぎる家庭環境で育った訳だが、いざ父親自身が実際に家庭を作った際、全く同じものを複製していた、という話。



そして、うちの父親は自分がこうやって父親の人生を聞くまでは、父親自身が育った家庭環境の異常さに全く気付いていなかった。




ちなみに今現在(2022年7月)、この結論(90%:10%)を父親は完全に受け入れている。また、母親は優しい人なので、「自分が10%では少ない」と言っている。





話は自分が母親と喋り始めた頃に戻る。自分は紆余曲折を経て、母親に自分の小学校時代のトラウマを喋り始めたのだった。しかし、それに対する母親のリアクションは全くもって物足りないものだった。自分は小学生の自分が受けた精神的ショックを詳細に喋ったのだが、母親はそのショックの1/3も理解していないようだった。



当時の自分からしたらこのリアクションははらわたが煮え繰り返るものだった。しかし、現在の自分(2022年7月)は当時の母親の無理解は仕方がない部分があったと考える。その理由はすでにまとめている通り、


①2007年の自分は、現在の自分(2022年7月)と比べると、過去の記憶への理解の深さが50%程度しかなかった。


②2007年の自分は、母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。


の2つ。




そして、これまで書いているようにここに3番目の理由が加わる。3番目の理由は、


③2007年の自分が感じていた母親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪、これは母親からすると「濡れ衣」であった。


これまで書いているように、2007年の自分は、我が家が10年以上に渡って戦争状態に陥り続けた責任の割合を父親:母親=50%:50%と感じていた。故に当時の自分は両親それぞれに等しく「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。



しかし、その割合は現在(2022年7月)90%:10%まで変化している。そう、その責任は母親にはほとんど無かった、という事になる。つまり、2007年の自分が感じていた母親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪、これはほぼ間違いであった、と。憎悪の対象を間違っていた、と。この状態は母親からしたら「濡れ衣」と言っても良い状態だった。


しかし、2007年の自分が間違ってしまったのも無理は無かった。何故なら当時の自分はまだ両親の人生を全く知らなかったのだから。知らない以上、50%:50%という印象を持ったのは仕方がない事だった。



このように2007年の自分は母親に対して大幅に間違っている印象を抱いたまま、自分の過去のトラウマを喋り始めた。そして、それに対する母親のリアクションはかなり物足りないものだった。当時の自分は、母親から「大変だったんだね、ごめん」という種類のリアクションを期待していたのだが、そのようなリアクションは全く無し。というか、リアクション自体がほとんど無かった。自分は母親のリアクションが無い中、延々と自分のトラウマを喋り続けた。



このように母親のリアクションはかなり物足りないものだった。しかし、現在の自分(2022年7月)はそれは仕方がなかったと考えている。その理由は以下の3つ。


①2007年の自分は、現在の自分(2022年7月)と比べると、過去の記憶への理解の深さが50%程度しかなかった。



②2007年の自分は、母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。



③2007年の自分が感じていた母親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪、これは母親からすると「濡れ衣」であった。




このように自分は母親に対して学生時代のトラウマを全て喋っていったのだが、それに対する母親のリアクションはほぼ無かった。これはかなり悲しかった記憶。自分は壁に向かって一人で喋ってるような状態だった。





ただ当時の自分は「ほんの1ミリでも当時の自分の悲しみが母親に伝われば、それで良い」とも感じていた。また、「もしかしたら母親は最初は全く理解出来なくても、話が進むにつれて、理解出来る様になるかも」という希望も持っていた記憶。



しかし、結局その希望は全く叶わなかった。 自分は母親に対して自分のトラウマを3〜4ヶ月に渡って喋り続けたが、母親がそれに感情移入するような様子は最後までほとんど無かった。これはホント悲しかった。虚無感も半端なかった。そして、現在の自分(2022年7月)も、2007年当時の母親は自分のトラウマに一切感情移入しなかった、という見解。




しかし、当時の母親の無理解は仕方が無い話であった。上記の3つの理由によって自分の話は母親に極めて届き辛い状態だったのだから。