皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 「家庭環境の戦争状態突入」について妹と話し合う(2011年4月頃・35歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、自分が3年間に渡るトラウマ歩きを終えた、という話でした。そして、同時期に妹と喋り始めた、という話でした。この時の自分の年齢は35歳です。
. 「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。
トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は3年間です。
では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。
次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。
「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」
2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。
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そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。
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このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。
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この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。
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それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。
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と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。
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このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。
このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。
また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。
ここからは前回の記事をそのまま全て引用したいと思います。トラウマ歩き最終盤の2011年3月、自分が妹とのコミュニケーションを復活させた、という話になります。
『前回記事からの引用』
このように自分が妹とのコミュニケーションを復活させた際、以前ほどの葛藤はほとんど感じなかった記憶です。自分が以前母親とのコミュニケーションを復活させた際には、致命的な葛藤が発生していました。また、父親との復活の際にも「致命的な葛藤×40%」の葛藤が発生しました。ですから、家族とのコミュニケーションを復活すればする程、そこで発生する葛藤は減少していき、3番目の妹の頃にはほとんど発生しなくなっていたような印象です。
このように自分が妹とのコミュニケーションを復活させた時期は、2011年3月頃になります。そして、自分が妹とまともにコミュニケーションを取るのは、2006年の引っ越し以来でした。ですから妹とのコミュニケーションは5年ぶりでした。
とりあえず自分は妹を呼び出し、自分の学生時代のトラウマや挫折の概略を妹に喋り始めました。その概略とは、とにかく自分の学生時代は周りとコミュニケーションが全く取れず、ひたすら孤独だった、という話です。当時の自分は精神年齢の成長が小学校3年生で止まっており、周りの空気が全く読めず、それが原因で学校生活において、様々な事件を引き起こしていきました。そして、その度ごとに強い精神的ショックを受けていったのです。その精神的ショックの蓄積によって高校時代には鬱を発症した、と。
自分はさらに喋りました。ではどうして、自分の精神年齢の成長が小学校3年生で止まったのか、それは小学校3年生の時に我が家の家庭環境が戦争状態に陥ったからだ、と。小学校3年生の時に父親が自宅で開業したせいで、ただでさえ体力の無い父親は仕事に消耗していった。そして、開業によって深刻な親類トラブルも発生し、それを巡って両親が激しく対立。我が家は戦争状態に突入してしまった。それによって子供のメンタルも破壊されていったのだ、と。実際小学校3年生の時の自分は、開業以降、メンタルが悪化し、喘息が急激に悪化。小学校生活の半分を休むような半不登校児になってしまった、と。
自分はこのような話を妹にしていきました。すると、妹の方も自分の話に賛同してきたのです。「確かに我が家は開業と同時に戦争状態に突入したよね。」、と。この時妹は小学校1年生だったのですが、妹もまた家庭環境の戦争状態突入を感じ取っていたようでした。
自分は当時の具体的な思い出を話していきました。「あの頃ってうちの母親はいつも『離婚したい、離婚したい』って泣いてたよね。」、と。妹は答えます。「確かにそうだったね。だって私はそんなお母さんをいつも慰めていたんだよ。」そう、当時妹は小学校1年生だったのですが、そんな妹が泣く母親を慰めていたというのです。これは初めて聞く話だったと思います。自分はこの話を聞き、「やはりこの家は闇深い」と改めて感じたのでした。
『引用終わり』
このように自分は妹に対して「小学校3年生の時に起こった、家庭環境の戦争状態突入」についての話をしました。今回もこの話を改めて考えていきます。当時、うちの母親はうちの父親と激しい喧嘩を繰り広げていました。何故ならその時期に父親方の深刻な親族トラブルが勃発し、そこへの対応を巡って、2人の意見が全く噛み合わなかったからです。
加えて、当時うちの父親は自宅で仕事を開業したばかりであり、その仕事の忙しさで消耗し切っていました。ただでさえうちの父親の性格は、超神経質で、超人嫌いで、超世間知らずで、人間の好き嫌いがアホみたいに激しい人間なのです。そんな父親がよりによって接客業で開業してしまったのです。それは消耗しないはずがありません。(ただしこの印象は今から45年前の父親の印象です。今は多少丸くなっています。)
ですから、うちの父親はこの開業によって、まず仕事で激しく消耗していきました。加えて、同時に勃発した親族間トラブルを巡っても母親と激しく対立し、そこでもさらに消耗していったのです。そして、うちの父親には心を許せる人間関係が皆無でしたから、精神的消耗を全く解消出来ず、お酒に現実逃避するしかありませんでした。開業以降、うちの父親は酒乱気味になっていきました。
一方うちの母親もまた開業によって心を病んでいきました。うちの母親にとっては、まず父親方の親族問題がかなりの精神的負担になっていたようです。うちの父親方の親族問題はかなり闇深い話でしたから、暖かい家庭に育った母親では到底理解出来るものではありませんでした。同時に父親自身にも到底解決できるような問題ではありませんでした。
しかし、うちの母親はこの問題をどうにかしたいと考え、毎日のように父親に問題の進展を切実に求めました。しかし、父親はただでさえ仕事で消耗していましたし、この問題に対してただひたすら無力でした。父親はこの問題に対して実効性のある行動を取る事が全く出来ません。そして、母親を説得する事もできません。
例えば家族4人で食卓を囲んでいる時の事です。父親は母親からこの問題の進展を求められると、途端に不機嫌になりました。それでも母親の追及は止まらず、父親はどんどんイラついていきます。そして、最後には父親がブチ切れてしまい、食卓を後にするのです。父親は自分の部屋に戻り、部屋のドアを「ドーーーーン!!」と思い切り締めるのが、我が家の恒例になっていました。
我が家の食卓はこんな不毛な戦いが日々続き、常に一触即発の緊張状態が続きました。父親はその精神的苦痛に耐えきれず、お酒に逃げ、酒乱気味になりました。そして、家の中で粗暴になる父親に対して、母親は酷く怯え続ける事になりました。この頃の母親は常に「離婚したい離婚したい」と泣いていたのですが、そんな母親を慰めていたのが、当時小学校1年生の妹だったという訳です。
今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!
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