鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

ここまでの経緯をフローチャートでまとめてみる(過去編・2007年10月・31歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 「母親と喋る」という選択は、三重の意味で気が狂った選択②(過去編・2007年10月・31歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事も、31歳の自分が近所の家が柴犬を飼い始めたのを発見し、致命的な絶望感を感じた、という話をでした。これは2007年10月の話になります。さらにその後紆余曲折を経て、母親と喋る気になっていった、という話になります。どうしてこの時の自分が致命的な絶望感を感じたのかと言いますと、当時の自分が「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態に陥っており、病的(×18倍)な「音への被害妄想」を発症していたからです。




ここからは今回の記事の前提となる「前フリ」部分を貼りたいと思います。上記の「極度の虚脱状態と放心状態」がどのような状態だったのか、という説明です。いつもこのブログをお読みの方はスルーして下さい。



『前フリ』



まずは当時の自分が陥っていた「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態を確認したいと思います。これは2006年6月に両親が引っ越しをした事で、自分の心身が「極度の虚脱状態と放心状態」に陥った事を表しています。



[引っ越し後の「極度の虚脱状態と放心状態」の詳細⑴〜⑻]



そして、2007年3月に起きた「ぎっくり腰事件」によって、自分の鬱はさらに1.5倍悪化しました。よって自分の心身は「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態に陥ったのです。これは上記リンクの⑴〜⑻の諸症状がさらに1.5倍悪化した事を示しています。




また、上記リンクの⑹ には「2006年6月の引っ越しの際の致命的な精神的苦痛①〜⑥+1」とあります。これは2006年6月に両親が引っ越しを強行した事で自分が致命的な精神的苦痛を受けた事を示しています。この時受けた致命的な精神的苦痛によって自分は「極度の虚脱状態と放心状態」(上記⑴〜⑻)に陥ったのでした。



[「引っ越しの際の致命的な精神的苦痛①〜⑥+1」の詳細]



『前フリ終わり』



そして、「ぎっくり腰事件」から7ヶ月後の2007年10月、近所の家が犬を飼い始めたのでした。



ここからは自分が近所の家に犬を発見してからの心の動きをフローチャートで確認したいと思います。



[犬の鳴き声が発生してから、母親と喋り始めるまでのフローチャート]



ここからは前々回、前回の記事を参照にして上記のフローチャートの続きを作って行こうと思います。では始めます。




しかし、それは当時の自分からしたら三重の意味であり得ない選択肢だった。母親とコミュニケーションをとる事自体が絶対にあり得ないし、さらにそこで自分のトラウマまみれの31年間を喋ろうと言うのだから。自分は小、中、高、大学と、人間関係に挫折し続け、鬱を悪化させていった。そんな全くもって思い出したくもないトラウマ全てを母親にぶち撒けようというのだ。また、自分の全てのトラウマを母親に喋って聞かせるという事は、膨大な時間がかかる事も容易に想像出来た。「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じている人間と膨大な時間を過ごすのだ。こんな事は三重の意味で気が狂っている選択肢だった。




しかし、この時の自分は幻聴を発症し、まさに気が狂う寸前の状態でもあった。これは正気を失う一歩手前の状態。そんな状態だからこそ、「親に31年間のトラウマ人生全てを喋る」という三重に気が狂った選択肢が出現したのだろう。




自分は意識朦朧としながらも、自分の気持ちをノートに書いていき、この先自分がどうするべきか、考えていった。この時の自分の選択肢は以下の2つ。



・首を吊ってこの世から離脱する。


・親に31年間のトラウマ人生全てを喋る。



これは究極の選択だった。自分はこれまでも「首吊り」or「〇〇」という選択を何度もしてきたが、これが究極にして最後の選択だった。





ここで重要なのが、自分が母親に対して何をぶち撒けようとしていたのか、という所だった。この時の自分がぶち撒けようとしていたのは、自分の31年間のトラウマ人生の全て。



確かに2年前の引きこもり期間を経て、当時の自分は自分の人生を他人に喋りたい衝動に駆られていた。故に引きこもり後はパチンコで稼ぎながら、カウンセリングに通い続けてもいた。しかし、自分は「引っ越し事件」を経て、カウンセリングに対して無力感を感じ始めていた。当時の自分の言語化能力では、この事件における致命的な精神的苦痛を言語化する事は不可能だった。よって、事件以降自分はカウンセリングから足が遠のいていった。パチンコ稼業を辞めた事により、金銭的にも余裕が無くなってしまった、という事情もあった。



しかし、引っ越し後の自分の心の中には依然として「自分の人生を他人に喋ってみたい!」という衝動が激しく燃え続けていたと思われる。しかし、その衝動を家族にぶつける事は最もあり得ない選択肢だった。何故なら当時の自分は家族に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていたから。



そして、引っ越しから1年4ヶ月後、近所に犬が出現した事により、自分の心身は過去に無いほど追い詰められる事になった。そして、過去に無いほど自殺への傾倒が激しくなっていった。これによって、上記の最もあり得ない選択肢が、あり得る選択肢に変化しようとしていた。それは「死」を目の前にして恐怖心が発生し、それがもたらした変化だったのかもしれない。




また、自分の心の中には、「自分の人生を他人に喋ってみたい!」という激しい衝動が燃え盛っていた。「もし」この時の自分の心の中に両親に対する憎悪が全く無かったら、という仮定の世界を考えてみると、この話の喋り相手として最も適任な人間として考えられるのが、うちの両親。何故なら自分はこの両親が作り出した家庭環境下で自己肯定感をどんどん奪われていき、それが学校生活での挫折の数々に繋がっていったから。



つまり、うちの両親は自分の人生に最も近い距離にいた「当事者」だった。となると、自分の人生をぶち撒ける相手としてこれ以上の適任者はいない。しかも「当事者」であり「責任者」でもあった。自分の心身と人生を2度もぶち壊した責任がこの両親には発生していた。



ただし、実際の現実世界においては、当時の自分は両親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。このような状態で両親とのコミュニケーションなど絶対的にあり得ない。しかし、近所に犬が出現後、自分の心は過去最大に「首吊り装置」へ傾倒していった。すると、死を目の前にして、あり得ない選択肢があり得る選択肢に変化し始めた。



自分はノートを書きながらこう考え始めたのだった。

「どうせなら首を吊る前に、この気が狂った選択肢を試してみてもいいかもしれない」





いいですね!よくまとまりました。次回の記事ではこの続きを思い出していきたいと思います。



今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!




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