鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

幼い自分は甘えを諦め、その代償として喘息を発症した②(父の人生を聞く・2012年2月・36歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 幼い自分は、自己表現に乏しい内向的な子供に育っていった(父の人生を聞く・2012年2月・36歳) 」の続きを書かせて頂きます。




前回の記事は、35歳の自分が3年間に渡るトラウマ歩きを終え、その翌年に父親の人生を聞き始めた、という話でした。それはこのような思いからでした。「自分も妹も全く社会に適合出来ず、本当に闇が深い人生になってしまった。そして、明るかった母親もまた心をどんどん病んでいった。という事は、父親の人生もまた闇が深いものなのだろう。」



ここからしばらくは今回の記事の前提となる前フリ部分になります。いつもお読みの方は飛ばして下さい。



『今回記事の前フリ』



. 「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は3年間です。自分がこの行為の中で感じていたポジティブな感情とネガティヴな感情は以下の通りです。



「トラウマ歩きの前フリ」



そして、この行為を始めたのと同時期に「深夜2時近辺の戦い」が勃発し、自分の精神はさらに追い込まれていく事になりました。この事件のフローチャート(短縮ver)のリンクを貼りたいと思います。


「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)




上記のリンクの経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。




また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。



『前フリ終わり』



ここからは前回の記事をそのまま全て引用したいと思います。自分は2012年3月頃、父親の人生を聞き始めました。そして、父親の勤務医時代の話を聞いていき、結婚後の父親が家庭内で「音に対する病的な過敏さ」を発症していたという話を聞きました。そして、そんな父親の下で育った幼い自分の話になります。




『前回記事からの引用』


このように当時4歳だった自分は、とある出来事によって親に対して心を閉ざし、そのストレスが原因で喘息を発症したと思われます。幼い自分は喘息のせいで友達と身体を動かして遊ぶ事が出来ません。当時の自分もこの事にはなんらかの寂しさは感じていた記憶です。こうして、自分は自己表現に乏しい内向的な子供に育っていったのです。



自分は5歳になり幼稚園に入学しました。この時自分は、周りで元気にはしゃぎ回る友達を見てこう感じた記憶です。「子供っぽいなぁ」そう、この時の自分も充分な程子供だった訳ですが、それを棚に上げて、周りを少し見下した感じて見ていたのです。なんというか冷めた子供でしたね。この時点で子供の頃の自分がいわゆる「無邪気な」子供ではなかった事が分かります。



そう、思い返してみますと、幼い自分が「無邪気だったり」「はしゃいだり」「甘えたり」していた瞬間が、自分の記憶の中には1秒もありません。幼い自分は親に対して自己表現や甘えを諦め切っていましたから、それらを親に表す事は皆無でしたし、親以外の大人に表す事も皆無でした。



あ、そういえば一瞬だけその感情(甘え)が出た事もありました。うちの母親にはお姉さんがいるのですが、そのお姉さんの旦那さんが我が家に遊びに来た事があったのですが、この旦那さんがうちの父親とは真逆で、とてもおおらかで優しい人だったのです。そして、当時の自分は父性に飢えまくっていましたから、この旦那さんに2〜3時間遊んで貰い、かなり楽しかった記憶です。「世の中にこんなに暖かい人がいるとは!」って感じでしたね。



そして、旦那さんは帰る時間になったのですが、ここで幼い自分は旦那さんが帰るのが悲しくて、大号泣したのです。これは自分の子供の頃の記憶の中で一番激しい大号泣だった記憶です。普段の自分は感情表現に乏しい子供だったと思いますが、この時ばかりは大号泣でしたね。



そう、自分は普段から父性や甘えに飢えまくっていましたから、この優しい旦那さんが目の前からいなくなる事に耐えられなかったのです。あの旦那さんが自分の父親だったら、自分の人生は全く違うものになっていた事でしょう。



ちなみにこの姉夫婦には自分と同い年くらいの息子さんがいました。自分から見ればいとこでして、幼い頃には何回か会った記憶です。あれから30年経ち、そのお子さんは大きくなりました。今では結婚して社会人として立派に働いているそうです。自分の社会不適合な人生とは大違い。やはりあのような暖かい父親の下で育てば、周りとコミュニケーションを築く事が出来、社会に適合出来るのでしょう。



『引用終わり』



このように自分が4歳の頃から父が勤務医として働き出したのですが、父は以下の理由で心身を消耗していったと思われます。



「父が勤務医として働き出して以降、心身を消耗していった要因①〜③」


①生活時間時間がかなり不規則

勤務医として働き出して以降、夜勤勤務が続き、生活時間がかなり不規則になってしまった。夜勤明けにさらに通常勤務みたいな日もあったそう。父はただでさえ体力が無い人間なので、単純にハードワークによる消耗があったと思われる。


② そもそも医師という職業へのモチベーションが極めて低い

「父が大学3年生で休学し、休学期間が6年間も続いてしまったてしまった要因①」 にあるように、父は医者になりたくて医者になった人間ではなかった。故に医者という職業に対するモチベーションがかなり低く、医者という仕事の激務への耐性もかなり低かったのだと思われる。このようなモチベーションの低さによって、心身がさらに消耗したと思われる。


③仕事のストレスを誰にも相談出来ず、一人で抱え込んでいった。

祖父はかなりヒステリックな性格であり、どこに地雷があるのか分からない人だった。(祖父の性格の詳細はこちら)故に祖父の家の食卓は常に緊張感に満ち溢れ、皆黙々とご飯を食べるだけだった。このような家庭環境の中で父は日々の生活における様々な出来事を家族と共有する事は不可能だったと思われる。当然、父は幼い頃から日々の出来事で起こった嫌な事や辛い事も一人で抱え込んでいった事だろう。このような家庭環境が父の性格形成に多大な影響を与えたのは間違いなく、結果父の性格は「超神経質で、超人嫌いで、超世間知らずで、永遠の中二病で、人間の好き嫌いが激しい人間」になってしまった。また、このような家庭環境で「自発性(好奇心)」「思いやり(想像力)」「自己肯定感」も育つはずもなかった。


故に、父は勤務医として働き出した後も、仕事によるストレスを誰にも相談出来ず、一人で抱え込んでいった可能性が高い。その結果、心身を消耗させていき、大学時代の「音への病的な過敏さ」が再発していった。



以上3つの要因によって、父は心身を消耗させていったと思われます。そして、それに伴い大学時代に発症していた「音への病的な過敏さ」が再発。この「音への病的な過敏さ」とは周りの生活音に対する過敏さで、父の場合特に睡眠時の周りの生活音に対して過敏でした。



そして、母はそんな父の様子を見て、生活音に気を遣うようになったのです。そう、父が睡眠時の周りの生活音にイラつく姿を見て、家にママ友達を呼ばなくなったり、子供の友達を呼ばなくなっていったそうです。これは母自身が当時を振り返って寂しげに語っていました。



このようにして父が勤務医として働き出すと、心身が激しく消耗していきました。それに伴い本来なら明るいはずの母の心も徐々に削られていったのです。そして、同時期には妹も生まれ、母はさらに心身を消耗させていく事になりました。



何故なら母の周りには頼りになる親類縁者が誰一人いませんでした。母の実家は九州にあり、親類縁者は皆そちらに住んでおり、自分達が住む神奈川には誰一人親類縁者がいなかったのです。そんな中で母は一人で父の世話と妹の世話に消耗していき、ここで起きたのが例の事件です。この事件は自分が4歳の頃に起きた事件であり、簡単に言うと母が幼い自分を叱りつけた事件となります。(事件の詳細は こちら)



この事件によって、幼い自分は親に甘えたり、自己表現する事を一切辞めてしまった記憶です。幼い自分は、母が自分を甘えさせる余裕など1㎜もない事を悟ったのです。



しかし、そうは言っても幼い自分が親に甘えたくないはずがありません。幼い自分にとって「親への甘え」は本能的に絶対不可欠なものであろうと思うのです。そんな絶対不可欠な甘えを我慢していった結果、幼い自分の中には莫大なストレスが発生しました。それが喘息発症に繋がっていったのだと思われます。





今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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