皆さんこんにちは!スキッパーです。最近のこのブログの更新はXからの転載ばかりでしたが、2年ぶりに記事を書きたいと思います。
このブログが毎日の記事更新をストップしてから2年が経ちますが、読者の皆様どうお過ごしでしたでしょうか?自分の方はと言いますと、このブログに書いた記事内容を馴染みの美容師のTさんに聞いて貰うという事をずっとやっていました。このブログを書いてる最中から、Tさんにはちょこちょこ自分のトラウマを聞いて貰ってはいたのですが、書き終えてからはそっちが本格化していった感じです。今回の記事の本題に入ります前に、まずはこのTさんとのお話を書いてみたいと思います。
Tさんに話を聞いて貰うペースとしましてはTさんに毎週1回お会いして、2時間半程お話しする、といった感じです。お話ししていた内容としては、先程書きました通り、このブログの記事内容を中心にしたものです。そして、このブログの記事内容と言えば、全てがトラウマに関する話ですから、Tさんには数々のトラウマ話を自分の人生の時系列に沿ってずっと聞いて貰っていた、という事になります。要するにカウンセリングです。Tさんはカウンセリングスキルがとても高い美容師さんですから、そこを見込んでカウンセリングをお願いしました。もちろん然るべき対価をお支払いしています。
そして、今年の夏ですかね。とうとう自分は49年間のトラウマ全てをTさんに聞いて貰い終わりました。この時に自分はかなりの達成感を感じました。自分の中の49年間のトラウマの情報量といえばかなりのものがありますからね。それを3年間かけて喋り終えたのですから、感慨もひとしおでした。その情報量を言い換えますと、このブログは累計で2000記事弱あり、先程書いた通り全てが自身のトラウマに関するものです。つまり、自分はこのブログの2000記事分全てのトラウマ情報をTさんに喋り終えたのでした。
全てのトラウマを喋り終えてみて思った事ですが、まずトラウマをTさんに聞いて貰って本当に良かったと思いました。もちろん、トラウマを喋るという事はトラウマの再体験を意味していますから、そこにはかなりの精神的苦痛がありました。しかし、それらの苦痛はすでにこのブログに書く中で何度も経験しているものでしたから、その苦痛にはある程度慣れており、我慢出来ないものではありませんでした。一方、自分はトラウマを喋れば喋る程そのトラウマに関する情報が整理されていく事に快感を感じてもいました。数々のトラウマを喋れば喋る程、それらのトラウマに関するその時その時の現実状況や精神状況を客観的、俯瞰的に見れるようになっていき、自分の人生の因果関係がはっきり見えてくる感覚もあったのです。その感覚はかなり気持ち良く、そこに脳内麻薬的なモノを感じていたのも事実です。
次にトラウマを喋り終えて思った事は、このブログで書いてきた自分のトラウマに関する分析はまだ浅かった、という事です。自分のトラウマに関する分析はこのブログのトップページ(https://x.gd/4op8K)にまとめていますが、ここに書いてある3つのフローチャートでは、自分のトラウマを分析し終えてはいなかったという事が分かりました。その上で自分はTさんにトラウマを喋る中で新たな角度からトラウマ分析をしていきました。すると、そこには意外で興味深い発見の数々がありました。この時のトラウマ分析時にも脳内麻薬が出ていた記憶です。
さて、ここからが今回のブログの本題となります。自分が今回の記事更新で書きたかったのは、この自分のトラウマに関する新たな分析です。まず、自分が経験してきた全てのトラウマを3年間かけてTさんに喋っていった結果、自分がこの49年間で経験したトラウマは「6個」あった事が分かりました。この「個数」を決定出来たのは大きかったです。「なるほど!自分はこの人生において6個のトラウマ(魂の殺人)を経験してきたのだ!」と大納得出来ました。
ここからは、その6個のトラウマの分類を貼っていきたいと思います。6個のトラウマは発生順に時系列で並んでいます。また、「☆☆☆」で囲んである部分はさらなる分析をした部分です。最後に詳細を貼らせて貰います。
1個目のトラウマ
小3以降家庭環境が戦争状態に突入した事による、親子関係の死。これにより喘息による心身の深いダメージと愛着障害と発達障害を発生。これらは2〜6個目のトラウマの根本原因ともなった。
2個目のトラウマ
学生時代のコミュニケーション面における挫折やトラウマの頻発と蓄積(鬱の発症と悪化)
3個目のトラウマ
29歳の時に起きた実家の引っ越しにまつわるトラウマ。これにより心身が「極度の虚脱状態と放心状態」に陥る。☆☆☆引っ越し後の10個の親に対する殺しても殺し足りない程の憎悪☆☆☆発生。
4個目のトラウマ
30歳の時に母親と喋り始める際の致命的なメンタルダメージと、自分から過去の自分のトラウマを聞かされた際の母親のノーリアクション。母親は自分から過去のトラウマを聞いても、相槌や質問をする事は何一つ無かったし、まして共感や謝罪なども全く無かった。あれは壁に向かってトラウマを喋っているのと一緒。この母親のノーリアクションにより、自分の魂は何一つ癒されず、逆にさらに虚無感が強まった印象。その直後、自分は自分で自分のトラウマを消化する必要に迫られ、「トラウマ歩き」が始まった。そして、この母親のノーリアクションはこの時以降全く変わっていない。(ちなみに父親に全てのトラウマを喋った際の父親のリアクションもゼロ)
5個目のトラウマ
32歳〜35歳の間に行っていた「トラウマ歩き」にまつわるトラウマ。当時の自分は1、2個目のトラウマを消化したくて、トラウマ歩き(トラウマを思い出しながらの歩き。1回平均4〜5時間の歩きで週3回)をしていたのだが、実はこの行為自体が新たなトラウマを発生させていた。☆☆☆トラウマ歩きによる13個の心身のダメージ☆☆☆発生。
6個目のトラウマ
トラウマ歩きによってトラウマ歩き後の生活の中での心身が、「☆☆☆自分で自分の身体や生活を全くコントロールし切れない状態ⅰ〜12☆☆☆」に陥った事(32歳〜35歳)。中でも、睡眠や仮眠前の「身体は狂気的な疲れと眠気を感じているのに、脳が恐怖を感じて寝付けない」という状態は身体と心を致命的に引き裂き続けた。
また、自分は高校時代に鬱を発症し、それは悪化していく一方だったが、その悪化の過程を数字で表すと、まず大学空手部時代に鬱は3倍に悪化。そして、引越しにより2倍に悪化。とどめにトラウマ歩きで1.5倍。つまり、自分の鬱は高校時代に発症し、最終的には9倍にまで悪化した、という事になる。
付け足し:それぞれのトラウマがメンタルに及ぼしたダメージ量は、1<2<3<4<5<6で、6回目のトラウマが最大量。
と、このように自分はTさんに過去のトラウマを喋る中で、それらを6個にまとめる事が出来たのでした。これは嬉しかったですねぇ。すごくすっきりしました。そして、さらにこの6個のトラウマを最大解像度で言語化する中で、それぞれのトラウマを構成する35の要素も見えてきたのです。この要素の詳細に関しては最後に貼らせて貰います。ここからは35の要素の中から最も重要な2つのポイントを抽出して、紹介させて貰います。
1つ目のポイントは、「☆☆☆自分で自分の身体や生活を全くコントロールし切れない状態ⅰ〜12☆☆☆」の11番目に書かれてある「みぞうちをナイフで深く刺されたような、ズキズキ・ヒリヒリした痛み。」です。(このⅰ〜12については最後に詳細を貼ります。)この痛みに関しては、このブログの中では全く言語化する事が出来なかったのですが、Tさんと喋る中でようやく言語化する事が出来ました。実はこのブログは、このみぞうちの痛みの謎を解きたくて、書き始めた所があるのですが、ようやく謎の解明に近づいた感じです。
2つ目に重要なポイントは、4個目のトラウマに書いた事になります。自分はこの18年間、母親に自分のトラウマについて何百時間もかけて、幾度となく喋り続けました。しかし、母親はそれについてこの18年間ずっとノーリアクションであり続け、その理解度は当時から今に至るまで5%未満に留まり続けていた、いう事です。自分は母親に対して様々な角度から自分のトラウマを喋り続けたのですが、それに対して母親が寄り添い、共感、同情、謝罪を示す事は全くありませんでした。それどころか相槌や質問さえ皆無です。自分がそれらを求めると母親はブチギレ「そんなに責められるなら自殺する!」と喚く事もよくありました。そんな不毛過ぎる18年間が続いた後、最近になってようやく自分はこう理解しました。「母親は幼い頃からずっと自己肯定感がかなり低く、自我形成もかなり未発達な人なのだ。よって、自他境界も狂気的に曖昧なので他人の心に対する解像度もかなり低い。病的に被害妄想的で依存的でもある。だから自らの子供である自分(スキッパー)のトラウマも5%くらいしか理解出来ないのだ。」、と。
この母親に対する理解は、自分が母親から母親の人生を細かく聞いていく中で至った理解でもありました。自分が母親から母親自身の育った家庭環境を細かく聞いていった所、幼い母親もまたその両親からいわば精神的ネグレクトを受ける中で育っていたのです。うちの母親は5人兄弟の末っ子として産まれたのですが、その両親から全く目を向けられる事なく育ちました。本人曰く「私は家庭内でどこにいるのか分からない日陰の存在だった」、と。ですから、うちの母親は幼い頃からずっと自己肯定感がかなり低く、自我形成もかなり未成熟な子供だったのです。よって学生時代の学校生活における楽しい記憶も全くありませんでした。(ここら辺は自分の学生時代と全く一緒です。)
そして、そんな母親が同じように自我が未成熟な父親と結婚し、子供を産みました。両親ともに自我が未成熟ですから、その子供である自分の心にも全く興味が持てません。結果両親は幼い自分に対して無意識的に精神的ネグレクトをし続けてしまい、自分の自我もまた未成熟であり続けたのです。そして、これが自分の1個目のトラウマとなり、それが原因でその後の学生時代のコミュニケーション面における挫折が頻発して行ったのです。つまり、これは我が家においては世代間において「自我形成の未成熟」が連鎖していった事を意味しています。(ちなみに自分はうちの父親が育った家庭環境についても細かく聞いていますが、母親が育った家庭環境以上に相当闇深いものでした。そこには新興宗教が根深く絡んでいたのです。)
このように自分は我が家においては世代間で「自我形成の未成熟」が連鎖していった事を理解しました。ここに至って、自分はようやく母親にトラウマへの理解を諦める事が出来たのです。これは本当に大きな出来事でした。そして、その直後、自分のこの両親に対する諦めに最大限に共感してくれる人が現れたのです。それは自分の妹でした。妹もまた自分と同様の家庭環境に育ってきましたから、自分の両親に対する思いに最大級の理解を示してくれたのです。
ここで妹の人生についてもざっくり書かせて貰います。妹の人生も幼い頃から自我未成熟な両親に育てられた事で、学校生活において様々な挫折やトラウマを経験する事となりました。その結果、妹もまた20歳頃に引きこもりに陥り、それは10年以上続く事となったのです。その後妹は結婚した事で引きこもりを脱し、今は子育てを頑張っています。ちなみに妹はこのブログの記事全てを読んでくれてもいます。
最近、自分は月1ペースで妹と会い、お互いの人生で起こったトラウマ事件を話し合い、慰め合い、両親が自分達にし続けてきた精神的ネグレクトに対する怒りと愚痴を言っては笑い合っています。この時の自分の脳内では過去最大の脳内麻薬が溢れている感じです。この時間は自分にとって本当にかけがえのない時間です。生まれて初めて家族の温かさを感じているような気もします。
思い返せば、自分の鬱がもっと酷かった30〜35歳の頃、自分は両親だけでなく、妹に対しても、「殺しても殺し足りない」程の憎悪を感じていました。当時自分にとっては妹もまた自分の人生を破壊した憎過ぎる存在に思えていたのです。しかし、自分はそれらの憎悪や孤独に20年以上耐え、このブログやTさんのカウンセリングを通じて、自身のトラウマや家族と向き合い続けてきました。その結果、少なくとも妹との関係は劇的に改善しました。妹とこのような時間を持てるようになった事は本当に夢のようです。この先もこのような時間が続いていけば、自分の鬱やトラウマやみぞうちの痛みは、改善していく事だろうと思います。また、両親に対するネガティブな感情も好転していく事でしょう。
という訳で、ここら辺で今回のトラウマ分析の話を終わろうと思います。今年の自分はこんな感じで、トラウマ分析が終わり、妹との関係は劇的に改善して、とても良い一年となりました。全くの余談ですが、自分は今年に入ってからFXトレードに本格的に取り組んだのですが、そちらの方でも満足行く結果を出す事も出来ました。自分の人生の中で最も素晴らしい1年になったように思います。
ではまたトラウマに関して書きたくなりましたら、更新したいと思います。読者の皆様、読んで頂きありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。
おまけ:ここからは6個のトラウマを構成する35の要素を貼らせてもらいます。ただ、これらはかなり長く、かなり自己満足的な内容です。スルーして頂いて全然構いません。
☆☆☆引っ越し後の10個の親に対する殺しても殺し足りない程の憎悪(30歳)☆☆☆
①両親による自分の人生の搾取(1回目の魂の殺人)
自分のそれまでの28年間の人生は、両親によって破壊されたと言って良かった。幼い頃から両親や周りの大人達が徹底的に自分の心を無視し蔑ろに続けた事で、自分の中の承認欲求は飢餓状態に陥り、精神年齢の成長は小3で止まってしまった。そして、この2つの要因によって学校生活においてコミュニケーションにおける挫折やトラウマ事件が頻繁し、それにより心と身体は破壊されていった。つまり、自分の貴重な青春時代は両親によって全て搾取され、残ったのは一回死んだのと同等のダメージを食らった心身のみだった。そして、そんな両親が記憶のサルベージ後に引っ越しを言い出した。これに対して自分は引っ越しについていくか、一人暮らしするかの二択を迫られた訳だが、どちらの選択肢を選ぶにしろ、自分がまたも両親から時間やエネルギーを奪われる事は間違いなかった。またも両親による搾取が発生しようとしていたのだ。それ故に、自分の中の両親に対する憎悪はさらに激しく増幅された。
②引っ越しのタイミングの酷さ
両親が引っ越しを言い出した時期は、よりにもよって自分が1年間の引きこもり生活を終え、カウンセリング&パチンコ生活を始めて、たった2ヶ月の事だった。この時期の自分は、まだまだ精神的にはよちよち歩き状態であり、鬱で壊れた体調も全く回復していなかった。そんな暗闇からようやく這い出して、よちよち歩きし始めた自分の新しい人生をまたも両親がぶち壊しにきた。その事に対する深い絶望と憎悪。
③家族とのコミュニケーションでの断絶が2年以上続いている中での引っ越し。
当時の自分は両親とのコミュニケーションが2年以上完全に断絶している状況だった。母親との断絶に至っては、3年以上に及んでいた。当時の自分は家族全員に対して等しく殺したい程の憎悪を抱いており、コミュニケーションなど到底あり得ない状況だった。そして、そんな断絶状態で両親が引っ越しを言い出した。引っ越しとなると、家族の誰かとのコミュニケーションは必須だと思われた。しかし、それは当時の自分にとっては、家族とのコミュニケーションを無理矢理に強要されているのと同じ意味だった。そんな状況に対する激しい憎悪。
④自分が中学生の頃から14年間住み続けた本当に愛着のあった自分の部屋を捨てなければならない。
当時の自分は1年半に渡って自分の過去の記憶を全てノートに書いていった訳だが、その際に自分の部屋だけが自分自身を守ってくれた、という意識を持つようになっていた。法政時代に、社会や家族との交流がどんどん断絶していく中で、自分の中での被害妄想は悪化していき、この頃には「自分は家族から殺されるのでは?」という被害妄想にも苦しんでいた。そんな家族から唯一自分を守ってくれていたのが、自分の部屋だった。当時の自分にとって自分の部屋は唯一自分を守ってくれる「殻」だったのだ。また、当時の自分は1年半過去の記憶をひたすらノートに書き続けた事で、ようやく自分の意志を取り戻していた。それまでの28年間全く無かったといってよい自分自身の「意志」をこの苦行により、ようやく手に入れていた。それはある意味、自分の精神が第二の誕生を迎えたと言って良かった。そんな自分にとって記念すべき出来事が起こったのが、この部屋であり、当時の自分にとって自分の部屋は「聖地」的な意味合いも持っていた。そんな「聖地」であり、「殻」が、両親によって無理矢理奪われようとしている、その事に対する激しい絶望と怒り。
⑤当時の自分にとって一人暮らしなど到底無理な状況だった。
当時の自分は、両親が言い出した事で、引っ越しについていくか、一人暮らしかの二択に迫られた訳だが、当時の自分にとって、一人暮らしなど到底無理な状態だった。何せ自分の精神年齢の成長は小3で止まっていたのだ。この時点でそもそも一人暮らしは無理だった。小3の男の子に一人暮らしなど出来るはずもない。しかも当時の自分の心身は学生時代の挫折とトラウマによって、1回死んだのと同等のダメージを受けており、中でも他人に対する被害妄想はかなり病的に悪化していた。そんな状態で不特定多数が住むアパートでの一人暮らしなど到底出来るはずも無かった。
⑥東○荘事件によって発生した致命的な心身のダメージ。
⑦引っ越しによって妹と喋らざるを得ない状況に追い込まれた。
⑧30歳にして初めて手に入れた自分らしい人生(カウンセリング&パチンコ生活)が、またも親によって破壊された。また自分らしい人生によって芽生えていたプライド(金銭的に親に頼らず生きている)もズタズタに破壊された。
⑨①〜⑧の致命的な暴力衝動が自分の内部で暴れ回った事で、心身が究極的に衰弱し、「極度の虚脱状態と放心状態(自分の心身が自分で全くコントロール出来ない状態=マグマダイブ感)」に陥ってしまった、それに対する致命的な絶望と憎悪。(2回目の魂の殺人)
10花粉症発症→ぎっくり腰事件による致命的な心身のダメージ。
☆☆☆トラウマ歩きによる13個の心身のダメージ(32歳〜35歳)☆☆☆
①トラウマを思い出す事でのメンタルダメージ
②単純な肉体的ダメージ
「極度の虚脱状態と放心状態」で本来なら1日のうちの18時間はベッドで横になっていなければならない状態にも関わらず、外を週3回、1日平均4時間歩かなければならない。
③その日その日のトラウマ歩きがいつ終わるか分からない恐怖
トラウマを思い出し始めると、その過去の恐怖に現在の自分まで飲み込まれてしまうので、トラウマの思い出がキリ良く終わるまでは、歩き終わる事が出来ない。この現象は特に空手部時代の合宿時の恐怖を思い出している時などに顕著だった記憶。空手部の合宿の恐怖を思い出し始めると、なかなか歩き終わる事が出来ず、時には6時間ぶっ続けで歩き続けた事(夕方6時から歩き始め、気付いたら日付が変わっていた事も)もあり、その時に感じた肉体的疲労感、精神的疲労感は極限を超えたものがあった。自分の心身が自分でコントロール出来ない恐怖。
④トラウマ歩き中の「喘息由来の背中の慢性的な激痛」
トラウマ歩き中の自分は小学校時代から続く「喘息由来の背中の慢性的な疲労感」にも苦しめられていた。これは小学校時代からどんどん悪化していき、この頃には「背中の慢性的な激痛」になっていた。これにより、トラウマ歩き中の自分は、ナイフで背中えぐられているかのような痛みを常に感じながら、歩き続けた。
⑤トラウマ歩きの義務化と強行
最初は自分の意志で始めたトラウマ歩きなのだが、次第に週3回、1回平均4時間が義務化していった。その理由としては「一刻も早くトラウマを消化し終わりたい!」という狂気的な焦り。そして、その狂気的な焦りによって、悪天候でもトラウマ歩きは強行された。だから、歩き始めてから雨が降り始める事はしょっちゅうあったし、その雨が歩くうちにどんどん強くなってもトラウマ歩きは続いたし、土砂降りや台風の日でも歩く事もあった。そんな日は靴の中に雨水が浸水し、ぐちゃぐちゃになったり、gパンの下の股引きも濡れたりで、その不快感や冷たさに耐え、4〜5時間歩き続けなければならなかった。また強風で傘がもってかれそうになる事もよくあった。
⑥トラウマ歩きという行為に金銭的・社会的なメリットがなにもない。
金銭的・社会的に何のメリットも無い、社会から断絶したこの行為がいつ終わるのかさっぱり分からない。こんな心身がぶっ壊れまくった状態では彼女を作るなど夢のまた夢。自分の人生の中で最もそれを諦め切っていた時期であり、それ故に絶望も深かった。
⑦冬のトラウマ歩きにおける20分に一度の着替え
原付に乗る時の厚着状態で歩き始めるので、歩いて5分で暑くなってしまう。そこで近くのコンビニのトイレを借りて、そこで股引きを1枚脱ぐのだが、1枚脱ぐ為には、Gパンの下のジャージや股引きを6枚くらい脱がないとならない。1回の着替えにかかる時間は10分くらい。そして、1枚脱いで、気持ちを新たに外を歩き始めるのだが、10分くらい歩くと今度は寒くなってきてしまう。そこで、またトイレを借りて1枚着るのだが、この時もGパンの下の股引き類を6枚くらい脱がなければならない。そして、また歩き出すのだが、今度は10分もすると暑くなってしまう。このような着替えが1回のトラウマ歩きで6〜7回続き、着替えによって感じる体力的な消耗感が半端なかった。ただでさえトラウマ歩き自体が激しく体力を消耗し、無い体力が枯渇するのに、その上さらに着替えで消耗する事への狂気的なダメージ感。また、着替えのたびにトラウマ歩きがストップしてしまう事への苛立ち。冬のトラウマ歩きはこのような着替えに対する致命的な消耗感が毎回発生した。
⑧ 着替えの為にコンビニトイレや公衆トイレを借りる際のストレス
着替えの為に公衆トイレが場所によっては汚かったり、治安が悪かったりして、惨めだったり、恐怖を感じたりした。また、コンビニのトイレを借りる時は店員さんに声をかけねばならず、病的な対人恐怖状態にあった当時の自分にとっては、それもかなりのメンタルダメージだった。
⑨着替えを人に見られるかもしれないストレス
トラウマ歩き中のルートによっては、周りにトイレが見つからないものがあり、その場合公園の木陰やビルの谷間に隠れて着替えをせねばならなかった。トラウマ歩きは夜に行うものだったから、夜(時には深夜)に住宅地内の公園の木陰やビルの谷間に隠れてズボンを脱ぐのは、第三者すれば不審者以外の何者でもなく、それを見られたらどうしようという不安もかなりのものがあった。
10トラウマ歩き前半の深夜アニメの感想の消化で3時間くらいかかる場合もあり、そこからトラウマ歩きを始める時のけっこうな疲労感。
11果たしてトラウマ歩きによってトラウマが消化されているのか?という不安感
12横浜や上大岡のキラキラした繁華街を歩いている時の「俺何やってんだ」感
13このトラウマ歩きという行為がいつ終わるのかさっぱり先が見えない事へのストレス(2年目以降)
☆☆☆☆トラウマ歩き時代の自分で自分の心身を全くコントロールし切れない状態(もしくは自分で自分の生活を全くコントロール出来ない状態) ⅰ〜12(32歳〜35歳)☆☆☆☆
ⅰ 妹の生活時間に対する狂気的な憎悪(トラウマ歩き1〜2年目)
当時の自分は妹が深夜2時に寝付くかどうかに狂気的にこだわっており、深夜2時以降に妹が寝る為にトイレに行こうと部屋から出てくると、人間性を失う程の狂気的な憎悪に襲われてしまっていた。そのような場合、自分が妹に対してどのような行動をするかと言うと、部屋の前を通る妹に対して舌打ちするのは当然として、妹が部屋に戻ると、足で強く床を踏んだり、壁にモノを投げたり、「ゔああああ!!」と奇声を発したりしてしていた。これは、人間性を完全に失った狂った獣のような状態。そして、これらの威嚇行動は自分の中の暴力衝動を30%くらいを外に出したに過ぎず、残りの70%の暴力衝動は理性で押さえつけていた。故に、その残った暴力衝動は自分の心身を傷付け、自分の睡眠はさらに悪化する事となった。このような深夜2時を巡る戦いがトラウマ歩きの1年目において毎日続いた。
ⅱトラウマ歩きによる心身の消耗が原因の風邪
冬の日に雨が降り出して、トラウマがなかなかキリ良く終われず6時間歩く事になると最悪の最悪の最悪。こんな日は翌日必ず体調崩し、風邪を引いていた。風邪を引いた際の症状は
⑴唾が飲み込めない程の激しい喉の痛み
⑵激しい身体の冷え
⑶止まらない咳
⑷横になっている時のゲップの蓄積による狂気的な胃の圧迫感
⑸鼻水の洪水で呼吸がし辛い
⑹お腹を下す
自分はこれらの風邪の症状に加え、向かいの家の車のドア音に対する狂気的な被害妄想にも耐えて、ベッドで横にならなければならなかった。最早呼吸するだけで耐え難い苦痛に襲われるような状態。また、風邪を引いて横になっていると、トラウマ歩きを進める事は出来ず、その事に対する焦りも半端ないものがあった。(中指の拷問感=以前の自殺願望)
ⅲ太ももの火照りによる睡眠のさらなる不安定化
当時の自分は、寝付こうとすると太ももが異常に火照る症状に苦しんでいた。理由はトラウマ歩きによる致命的な疲労感。これにより寝付こうとすると太ももが異常に火照り始め、暑くてたまらない。しかし、この時の自分の身体の上半身は「病的な冷え性」状態にあり、下半身とは温度感が真逆。つまり、当時の自分の身体は、「上半身は病的な冷え性」で「下半身は太ももの異常な火照り」という、異常なアンバランス状態に陥っていた。これにより冬に寝る際に布団をどう掛ければ良いのか分からない。上半身に合わせて布団をかければ、下半身が暑くてたまらないし、下半身に合わせて布団を掛けると寒くて仕方がない。最終的には上半身には布団や服を10枚以上重ね、下半身はタオルケット1枚みたいな状態で寝付く事に。こうなると、寝付いた後に高確率で激しい寝冷え状態に陥り、1〜2時間で起こされてしまう。身体は冷え切り、鼻水はズルズルで寝付く前よりさらに疲労感は悪化。しかし、こうなると下半身の火照りは消えているので、ジャージが着れ、下半身にも布団や服を沢山載せて改めて寝直す事は出来る。ただ、当時の自分がこの時間に眠りに付く際には必ず「向かいの車のドア音との戦い」による致命的な精神的苦痛を1時間程必死に必死に耐えなければ寝付く事が出来なかった。故に寝付いてたから1〜2時間後に寝冷えで起こされると、激しい寝冷えと絶望的な疲労感、そして、「向かいの車のドアの音で殺されるかも」という被害妄想、これらと戦いながら再び眠りにつかざるを得なかった。このような状態で疲労感が回復する事なく、そこから4〜5時間後に起きると、眠る前より疲労困憊状態が悪化している事もよくあった。
また、再度の睡眠から4〜5時間後に起きると上半身が勝手に布団の中から飛び出していて、上半身の上に布団が全くかかっておらず、さらなる寝冷え状態に陥っている事もよくあった。
加えて、また、寝冷えで朝8時くらいに起こされるパターンの他に「向かいの家に出入りする車のドア音」で朝8時くらいに起こされる事もあった。
ⅳ食事後の激しい疲労感による生活リズムの破壊と、ガスによる胃の圧迫感
当時の自分は食事を食べた後にも致命的な眠気と疲労感に襲われてしまう状態だった。この食事によって誘発される眠気によって、日常生活を続けるのは困難となり、毎回ベッドに入って仮眠を取らねばならなかった。このような自分の意志に反したような眠気によって、自分の生活のペースは乱れに乱れ、自分の生活を全くコントロール出来ていない感覚が辛くて仕方なかった。
さらにベッドに入ってからも肉体的な苦痛が続く。ベッドに入ると今度は胃からガスが次から次に上がってきてしまうのだ。自分はガスがたまる事に胃の圧迫感が辛くて辛くて仕方がなく、1分おきにベッドから身体を起こし、ガスを出さなければならなかった。
また、当時の自分は病的(×27倍)に冷え性が酷かったので、常に鼻水がズルズルに出ていた。故に、当時の自分が食事の後にベッドの中に入ると、ガスの圧迫感が苦しくて堪らなかったし、加えて鼻からは鼻水がダラダラ流れていてそれも苦しい、という状態も頻繁に起こっていた。ベッドで横になっている時に鼻水がダラダラ流れてくると、頭はボーッとするわ、呼吸はし辛いわ、の二重苦。つまりこの時の自分は、「ゲップによる胃の圧迫感」と「鼻水による不快感」にのたうち回っていた、という事になる。
加えて、この時の自分はベッドの中に入って眠ろうとしているので、当然「向かいの車のドア音との戦い」も発生している。つまり、ご飯を食べた後の自分は、毎回ベッドの中で以下の致命的な心身の苦痛にのたうち回っていた、という事になる。
・胃にガスが溜まる事による胃への凄まじい圧迫感
・鼻水がダラダラ無限に流れて来る事での苦しみ
・「向かいの車のドア音との戦い」
Ⅴトイレで大きいのをするだけでも酷い虚脱状態に襲われてしまい、その度ごとにベッドに入り仮眠を取らねばならない。
トイレで大きいのをするたびに日常生活の流れが断絶してしまう。例えば、冬のトラウマ歩きの為に何枚も着込んで外に出ようとしていても、トイレで大きいのをすると、激しい虚脱状態に陥り、トラウマ歩きどころではなくなってしまう。自分は着込んだものを全て脱ぎ、ジャージに着替え、ベッドに入らざるを得なかった。もちろん、この仮眠時にも「向かいの家に出入りする車のドア音」の恐怖との戦いが続いた。
ⅵ冬のトラウマ歩きの服の脱ぎ着( 「トラウマ歩きの最中のネガティヴな感情❶〜10」の❾)
ⅶトラウマ歩きの極限の消耗が原因の慢性的な口内炎や痔
ⅷ目の下の漆黒のクマ
当時の自分は、トラウマ歩きによる激しい心身の疲労や「向かいの車のドア音との戦い」を始めとする、数々の致命的なストレスを抱えており、それによる致命的な睡眠不足と慢性的な疲労感が原因で、目の下に漆黒のクマが発生していた。当時の自分はこのクマに初めて気付いた際、かなりの精神的ショックを受けた。トラウマ歩きの最中にトイレの鏡を見たら、目の周りだけが一気に50歳くらい老けているのだ。 それはまるで目の周りだけがおじいさんになったかのようだった。と同時に目の下の漆黒のクマは、明らかに自分の精神が病んでいる事も表していた。自分はそれ以降、鏡を見るのが大嫌いになったのだった。
ⅸ ⅱ〜ⅴにあるように、自分の体調が予期せぬタイミングで大崩れしてしまうので、生活が滅茶苦茶振り回されてしまう。故に当時の自分は先のスケジュールを決めるのが超苦手だった。それは将来の自分の体調が全く予測出来ないから。明日の体調でさえ全く予測が付かなかった。これによって自分の中の自己否定感はさらに増大していった。
ⅹ「食べる事」「眠る事」「排泄する事」という、人間が生きていく上で絶対的に必要な行為をすると、毎回致命的な精神的苦痛を感じなければならない。
ⅲ、ⅳ、ⅴにあるように、当時の自分は、生きていく上で絶対的に必要な行為をすると、それだけで致命的な苦痛が発生してしまう状態にあった。生きて行く上で絶対的な必要な行為とは、「食べる事」「眠る事」「排泄する事」。これらは人間が生きていく上で絶対的に必要な行為だが、当時の自分はこれら全ての行為において致命的な精神的苦痛を感じなければならなかった。これはただ生きているだけでも拷問のような状態。また、これらの行為をしていなくても、起きてから2〜3時間もすると、必ず疲労困憊状態に陥り、ベッドで仮眠を取らざるを得ず、生活のペースが全くもって自分でコントロール出来なかった。こんな状態で自分で自分を肯定出来るはずもなく、自分は自己否定感をさらに増大させていき、鬱は引っ越し後と比べてさらに1.5倍悪化する事となった。
11 みぞうち(&ヘソの奥)をナイフで深く刺されたような、ズキズキ・ヒリヒリした痛み。そして、冷えと躁状態と重さと胃の圧迫感。
当時も現在もみぞうちとお腹の中に口内炎が20個くらい出来たかのような痛みがあり、外に出て不特定多数の他人に混ざったり、家の中で両親の気配を感じると酷く痛む。そして、その痛みによって、自己肯定感は激しく奪われ、かなりの対人恐怖に襲われてしまう。この痛みのピークはトラウマ歩き時代だが、たぶん中学時代から痛みは始まっていた。また、みぞうちにドライアイス20kgを飲み込んだような極限の冷えもあり、これとこのみぞうちの痛みは表裏一体。また、みぞうちに躁状態(覚醒状態)が発生する事もあり、これも上記の痛みと表裏一体。躁状態は寝る前によく発生し、眠りを妨害してしまう。加えて、みぞうちや胃に鉛を30kgくらい飲み込んだかのような重さがあり、特に横になっている時に辛い。また、同様に胃やみぞうちに常にガスが貯まってるのようなかなりの圧迫感もあり、これも特に横になっている時がキツい。この重さや圧迫感はもしかしたら子供時代の喘息の苦しさのフラッシュバックかもしれないし、当時の承認欲求の飢餓状態が反映しているのかもしれない。これも痛みと表裏一体。そして、この痛みと冷えと躁状態と重さ(圧迫感)は、トラウマ歩き時代にピークを迎えており、この時代の家族に対する「殺しても殺し足りない」(×1.5倍)程の憎悪や狂気的な孤立感や被害妄想が、身体に痛みと冷えと躁状態と圧迫感として深く刻み込まれている印象。
また、トラウマ歩き時代に自分は大きな2つの試み(両親に自分の学生時代のトラウマを理解させる、トラウマ歩きによってトラウマを消化する)に挑戦したのだが、この2つはいずれも大失敗に終わっていた。両親は何一つ自分のトラウマに理解を示さなかったし、トラウマ歩きによって新たに第5、第6のトラウマが産まれ、トラウマの全体量は1.5倍に増える始末。(トラウマの再生産)だから当時の自分は、どんなに両親と喋っても、トラウマ歩きを続けても、一向に心身の鬱状態が一向に改善して行かない事に、狂気的な苛立ちと絶望と孤独を感じていた。そんな当時の狂気的な苛立ちと絶望と孤独と両親に対しての「殺しても殺し足りない」程の憎悪や暴力衝動や中指の拷問感が心と身体に焼き付いてしまい、みぞうちの痛みや冷えや躁状態や圧迫感となって現れた、そんな印象もある。
また、先程も書いたようにトラウマ歩きは3年間で終わったのだが、結果鬱状態は全く改善しなかったし、むしろ1.5倍悪化して終わった。また、当時の自分は「両親に家庭内で発生したトラウマや学生時代のトラウマを理解させたい」と思い、両親にそれらを喋ったのだが、その試みも大失敗に終わった。両親のそれらに対してひたすらノーリアクションだったのだ。また、そもそも当時の自分の自身のトラウマ理解度は30%程だった。自身ですら30%しか出来ていない事を両親に理解させるのは、どうやっても無理な話だった。しかし、当時の自分はこれら2つの大失敗をそのあまりの残酷さ故に全く認識出来ていなかった。何故なら新たなトラウマを発生させるほど過酷だったトラウマ歩き、そして、自分が首吊りを覚悟してまで挑んだ両親との対話、これら甚大な心身の苦痛と3年という貴重な年月を費やして挑んだ挑戦が大失敗に終わったなどと、当時の自分が認められるはずはなかった。しかし、身体にはその大失敗のダメージはしっかり刻み込まれ、その認識出来なかった大失敗をみぞうちの痛み等を通して訴えていた、と考える事も出来る。
加えて、みぞうちの痛みに関しては、学生時代のスポーツ系のクラスメートへのコンプレックス(特に中学時代)や暴言事件後の女子に対する恐怖、そして彼女を作るどころか女の子と全く喋れない人生を送る事になった悲しみ、空手部時代の人生終わった感(激しい厭世観と中指の拷問感〈荒涼とした甚大な無力感〉)、子供時代以来の喘息でスポーツが出来ない事への悲しみとトラウマ歩き時代直前の自殺企図、そして、喘息、空手部時代の殺される恐怖、音に対する恐怖による睡眠不足が、いまだにみぞうちの痛みとして残っているとも考えられる。そして、トラウマ歩き時代の「向かいの家に出入りする車のドア音」に対する狂気的な被害妄想とそれに伴う激しい身体の硬直、そしてそれらのダメージを和らげる為の布団の重さを利用した脳内麻薬(布団の重さ依存症)焼き付いているとも考えられる。
加えて、幼い頃からの喘息による肺と背中の冷え、睡眠不足の蓄積、そして、東戸塚事件のトラウマもみぞうちの痛みの一因と考えられる。
これらの痛みと冷えと躁状態と圧迫感は現在でもたびたびフラッシュバックしており、そのせいで今でも睡眠や体調が不安定だったり、対人恐怖症だったりする。
12 そもそもトラウマ歩き時代の自分は自身のトラウマをあまり理解出来ていなかった。
トラウマ歩き時代の自分の過去のトラウマの理解度は30%くらい。理解出来ていたのは、第1、第2のトラウマのみで、第3、第4、第5、第6に関しては理解どころか認識すら出来ていなかった。これはつまり当時の自分は自身の心の30%しか出来ていなかったという事。残りの70%は全く訳が分からない悲しさと絶望と虚無と孤独。この自分の心に対する無理解な状態が当時の「自分の生活や心や身体が全くコントロール出来ない状態」に繋がっていったのは間違いない。
また、トラウマ歩き後の自分は、「自分は自分のトラウマを100%理解出来ている」という自信満々な気持ちで、家族や若林さんや社長とコミュニケーションをとっていたが、実はその理解度は30%だった、という事になる。
13 みぞうちの奥の奥から全てのエネルギーが抜けきっているかのような、背骨が全て粉々に砕けたかのような、脱力感、虚無感、無力感。
付け足し:当時の自分はトラウマ歩き当時、当時の「トラウマ歩きによる13個の心身のダメージ」や「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態ⅰ〜12」の事はほとんど母親には喋っていなかった記憶
最後までお読み頂いた方はいないでしょうが、今回の記事はここで失礼します。
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