鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーションについて

15年間引きこもって鬱と闘病した43歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を振り返っていきます。skipper1242でツイッターもやってます。

我が家のゴタゴタの歴史⑥

皆さんこんばんはスキッパーです!今日も見に来て下さりありがとうございますm(_ _)m今日も皆さんに自分の話を読んで頂けるかと思うと嬉しい気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事も併せてどうぞ。では、前回の記事「我が家のゴタゴタの歴史⑤」の続きを書かせて頂きます。




前回の記事は自分が中1の時の引っ越しの経緯についてでしたね。そんな感じで1階が医院だった家を離れ、借家に引っ越しをしまして、そこから1年間の借家暮らしが始まりました。借りていた家はそれなりに新しくて広くて間取りも良く住み心地の良い家でして、この1年後に父親が買わされた家よりは断然良い家でした。それでね〜、この1年間は自分の人生の中では珍しく比較的メンタルが落ち着いている穏やかな1年間だったんですよ。それはとりもなおさず家庭環境が比較的落ち着いていたからだと思います。やはりこの引っ越しによって父親の仕事場と居住スペースが別れましたから、これにより父親は診療時間以外の時間は往診に行かずに済むようになり、仕事の負担が減りまして、それに伴い精神のピリつき度も減った感じです。そうそう、思い出しました。前の家に住んでいた頃はうちの母親も医院の窓口に出て1日3〜4時間レジ業務をしていまして、1日が終わった後は会計処理もやり、医院のお金に関する事務はうちの母親が全部取り仕切っていたんですよ。レジ業務が終わった後も2階に上がり、リビングのテーブルで医院のレジで使う小銭を補充していたり、帳簿を書いていたりしたのをよく覚えています。そういえば医院のお金の事でも父親と母親はよく言い争っていましたね。まぁ父親はお金に関しても超ルーズな人間ですから、そんな父親の態度に母親はいつもイラついていました。(現在もですw)ですから医院の立ち上げの4年間は実質父親と母親の二人三脚で医院の経営を回していたんですね。共働き状態だったと言っていいと思います。うちの母親は心の底から優しい人ですから、父親が医院の仕事でてんてこ舞いになる姿を見て、助けずにはいられなかったのでしょう。しかし、それは同時に母親の負担になっていたとも考えられます。そして借家に引っ越す事で母親は医院の窓口に出てレジ業務をする事はなくなりまして、その分母親の負担も減りました。そんな感じで引っ越しをする事で両親共に肉体的精神的な負担が減りまして、それに伴い前の家に住んでいた頃より夫婦喧嘩が格段に減ったような記憶です。と同時にあの2人の事での喧嘩も減っていたと思います。4ヶ月程前に父親と話していた際にこの時代の話になりまして、父親の方も「あの1年間だけは嵐と嵐の谷間のように穏やかだったなぁ」としみじみ語っていました。




ですからこの1年間は家庭環境が比較的安定していましたから、自分の学校生活の方も割りかし安定していた印象です。特に有り難かったのが、中1で自分は吹奏楽部に入部し、ホルンパートに配属されたのですが、そこの1つ上の女の子の先輩がとても可愛いらしく優しい人でホルンの吹き方を丁寧に一から教えてくれたんですね。そう、コミュ障で全然お喋りができない自分でしたが、可愛い女の子の先輩にマンツーマンで丁寧にホルンについて教えて貰える事はとても嬉しかった記憶です。ですから家庭環境と先輩のおかげで吹奏楽部の最初の1年間はなんとなく良かったような気がします。とは言っても入部したての頃はコミュ障ならでは空気を読めない発言をしてしまい、しばらく先輩達に対してビクつきながら過ごすという事件があったりもしましたが。(〜中学吹奏楽部におけるやらかしエピソード②〜高1で鬱病を発症するまでの具体的エピソード⑨)





今日はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!m(_ _)m





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