鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

「家族に対する激しい殺意」が「自分自身に対する激しい殺意」に変化(2006年3月頃・30歳)

皆さんこんばんはスキッパーです!今日も見に来て下さりありがとうございますm(_ _)m今日も皆さんに自分の話を読んで頂けるかと思うと嬉しい気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「 引っ越しに関する最終的な結論(2006年3月頃・30歳)」の続きを書かせて頂きます。




前回の記事は、自分が「引っ越しについて行く」という選択肢を選んだ、という話でした。そう、自分が引っ越しに関して選べる選択肢は以下の3つだったのですが、


❶引っ越しについていく

❷一人暮らしをする

❸自殺する



最終的に❶を選んだという事になります。結論としては、「❶の選択肢でとりあえず動いてみて、ストレスで自我が保てなくなった時点で自殺しよう」というものでした。引っ越しの話が出て来てから、この選択に至るまで3〜4ヶ月かかってしまいました。なんと言っても途中で東○荘事件がありましたからね。今から思うと、あの事件によって❸「自殺する」の選択肢が生まれ、❸の選択肢の力によって最終的な結論を出せたのですから、皮肉な話です。自分の鬱は東○荘事件によってさらに悪化し、控え目に言っても「鬱の狂人」状態でした。しかし、そんな状態でもノートに自分の気持ちや周りの状況を書きまくる事で選択肢を絞っていき、なんとか最終的な結論に辿り着けたのです。そう、東○荘事件以降の自分の心の中では果てしない不安感と理不尽感と虚無感が常に暴れまくっていましたし、身体は果てしない疲労感と眠気で意識朦朧状態でした。控え目にいっても気狂い状態でしたね。しかし、そんな状況下でもノートに自分の気持ちや周りの状況を書いている時だけは正気を取り戻し、その時だけはなんとか論理的な思考を保てていたようか気がします。改めて感情や思考を言語化するというのはホントに大切な事だな、と思います。そして、当時の自分の頑張りを褒めてあげたいですね。




先程「東○荘事件以降の自分の心の中では果てしない不安感と理不尽感と虚無感が暴れまくっていました」と書きましたが、最近記事の中で当時の家族に対する「憎しみ」について書いていないような気がしますので、今回そこら辺を書いてみたいと思います。まず引きこもり明けの自分(2005年・29歳)は家族に対して「殺したい」程の憎しみを抱いていました。自分はそれまでの1年間部屋に引きこもり、自分の過去の記憶を全てノートに書いていったのですが、その結果自分の29年間の人生が家庭環境によって滅茶苦茶に破壊されていた事が明らかになったからです。そして、自分はカウンセリング&パチンコ生活を始めたのですが、引きこもり明け3ヶ月目くらいで家族から引っ越しの話が出て来たのです。その話は自分の「絶対反対」の意向を無視して進んでいきました。これにより、自分の中の家族に対する殺意はさらに激しくなり、自分はコントロールの効かなくなった憎しみをドアや壁にぶつけ始めました。そして引きこもり明け半年後に起こったのが、東○荘事件です。自分は父親と取っ組み合いの喧嘩をし、家族3人から袋叩きにされました。これにより、自分の中での家族に対する憎しみは以下のように変化したのです。



「殺したい」程憎い

「殺しても殺し足りない」程憎い



自分は父親との取っ組み合いの喧嘩の後、カウンセリングや地元の仕事仲間にその気持ちを聞いて貰い、さらにビジネスホテルにチェックインし、そこでもノートに家族に対する罵詈雑言を書きまくりました。自分はこの家族に2度殺されたようなものでした。その憎しみはホントに凄まじく、自分が後先考えない人間ならすぐにでも殺意を実行していた事でしょう。あれから15年経った現在でも、こうやって思い出して書いていると行き場のない憎しみで苦しくなるくらいですからね。さて、自分はそのような激しい殺意を始めとする様々な感情をノートに4時間に渡って書きまくりまして、ようやくその日は終わりました。次の日、自分はさらにノートを書き進め、「貴重品を取り戻す為に1度家に戻らざるを得ない」との結論を得ました。家には「殺しても殺し足りない」程憎い家族がいる訳で、本来なら絶対に戻りたくはありません。もし戻った時に家族と鉢合わせでもしたなら、自分の激しい殺意が実行されかねない恐れもありました。また逆に自分が再び暴行を受ける可能性もあります。しかし、自分は貴重品無しで、このままホテル暮らしを続ける自信が全く無かったですから、やむなく一度家に戻る事にしました。



このように自分は東○荘事件によって激しい殺意を家族に対して抱いたのですが、反面家族に対して激しい恐怖感も抱く事となりました。何故なら東○荘事件の最中に家族3人もこちらに激しい敵意や暴力を向けてきたからです。という事は事件後に家に戻れば自分は完全に1vs3の孤立無援状態であり、これは敵の巣窟に1人で飛び込むようなものです。家に戻れば、また父親が激昂して自分の部屋に突入してくるかもしれません。そして、母親も妹も完全に父親側なのです。「家に戻ると最悪自分は家族から殺されるかもしれない」くらいの恐怖感がありました。あれはホントエゲツない緊張感と恐怖感でしたね。自分の精神は東○荘事件により弱り切っていましたから、そのような超衰弱状態で敵の巣窟に飛び込む事に、尋常ではない恐怖感を感じた記憶です。




話は家族に対する激しい殺意に戻ります。確かに自分が東○荘で気持ちをノートに書いている際、自分は家族に対して「殺しても殺し足りない」程の激しい殺意を抱いていました。ところが、家に戻ってみますとと先程の緊張感や恐怖感の方が殺意を大幅に上回っていたのです。家の中に戻ると自分は1vs3の完全孤立無援状態ですからこれがホントにキツかった。圧倒的な緊張感と恐怖感を前に激しい殺意は霞んでしまいました。故に自分は家に戻って以降は、家族に対してそこまで激しい憎しみは覚えなかった記憶です。そう、仮にまた憎しみがコントロール出来なくなりドアや壁にその憎しみをぶつけでもしたら、また父親が激昂し、東○荘事件の繰り返しです。自分の精神はあの事件で甚大なダメージを受けましたから、あの事件を繰り返す気には全くなれませんでした。要するに自分は激しい憎しみをドアや壁にぶつける事に「懲りた」のでした。




では、自分の中に発生した家族に対する激しい殺意はどうなったのでしょう?これで消えたのでしょうか?いや、あれ程の殺意が消えるはずがありません。ではその殺意はどこに向かったのかと言いますと、「自分自身」です。そう、前々回の記事の中で、自分の中に長年あった「自殺願望」が東○荘事件以降「自殺企図」に変わったという話をしました。「自殺企図」の意味ですが、「自殺願望」よりさらに自殺に対して現実的な動きをする事を指しています。まとめますと、東○荘事件以降自分の中の家族への殺意は「殺しても殺し足りない」程になりました。しかし、それは家の中で感じるエゲツない恐怖感と緊張感により、方向を「家族」から「自分自身」に変えたという事です。「家族に対する殺意」が「自分に対する殺意」に変わったという事ですね。これにより自分の中の「自殺願望」は「自殺企図」に変化しました。もちろんこの変化には前回の記事で書きました通り、引っ越しに関する選択「引っ越しについていくか」or「一人暮らしをする」が「死ぬ程嫌過ぎる」という要因もありました。これら2つの要因によって、東○荘事件以降の自分はより自殺を現実的なものとして捉え、実際にその準備に動く事となったのでした。







今日はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!m(_ _)m





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