皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 社会生活から脱落しかけているし、家庭内でも孤立し始める(過去編・2003年7月・27歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、自分が社会生活から脱落し始め、さらに家族内の人間関係からも脱落し始めた、という話でした。この時期の自分は27歳です。2つ目の大学の復学に失敗し、再起をかけた古本屋バイトでも挫折し続けてもいました。そして、家庭内においても、母親に対して「殺したい」程の憎しみを抱いており、1年以上コミュニケーションを取っていない状態でした。
また、自分はそんな母親とコミュニケーションを取り続ける妹にもかなりの憎しみを感じていました。自分が「殺したい」程憎んでいる母親とコミュニケーションを取り続けているからです。同時に自分は妹に対してかなりの劣等感も感じていました。自分の人生がただひたすら孤独だったのに比べて、妹の人生が人間関係に恵まれていたからです。自分は妹にもかなりの憎しみと劣等感を感じるようになっていき、妹ともコミュニケーションを取らなくなっていきました。
では残った家族である「父親」と自分との関係はどうだったのか、という話になります。まずそもそも自分は幼い頃から父親との思い出が全くありません。父親は子供の自分に対して全く興味を示さない父親でしたから、自分にとって父親は「透明人間」のような存在だったのです。自分はこれまでの人生で父親から可愛がられた記憶が皆無ですし、父親の愛情を感じた事もただの1度もありません。また、父親は自営で仕事をしており、小学生の頃は職場と住居が隣接していました。しかし、自分が父親の働いている姿を見て憧れる、なんて事も全くありませんでした。
これまで書いていますように、自分が小学校3年生の頃から、両親が新規事業を始め、それに両親が滅茶苦茶忙殺され始めました。さらに父親方の親類問題が原因で夫婦仲が戦争状態に陥っていきました。うちの両親は全ての時間とエネルギーを事業と夫婦喧嘩に注ぎ込み、そこで消耗し切っていったのです。当然子供の自分の事などほったらかしです。そもそもうちの両親は小学校3年生以前から子供の自分を放置しがちな傾向はありましたが、小学校3年生以降我が家は戦争状態に突入し、その傾向は激化しました。
そして、その戦争状態の中では夫婦喧嘩が頻繁に起こりました。2日に1回くらいのペースで起こっていたような気がします。それは母親が父親に対して一方的に不満をぶちまけ、激しく糾弾し続けるというものでした。糾弾の内容は、父親がもたらしたその時々のトラブルに対する非難から始まり、最終的には必ず父親方の親族問題にまで飛び火していました。それに対して父親も一応反論はしていましたが、全く母親を納得させる事が出来ません。父親の機嫌はどんどん悪くなり、最後に父親がブチ切れ、自身の部屋に籠る、というのが、我が家の夫婦喧嘩のお決まりのパターンになっていました。
また、うちの父親は開業以来次から次に酷いトラブルを我が家に持ち込み続けました。うちの父親は、過去の自分と同じようにコミュニケーション能力と自己認識能力が極度に劣っていましたから、簡単に言うと人に騙され易かったのです。中でも最も酷いトラブルは父親方の親類問題でした。この問題は父親方の実家の「圧倒的な闇の歴史」が根っこにありましたから、父親が解決出来るはずもありません。
うちの母親はそれらの酷いトラブルの尻拭いに振り回され続けました。これにより母親の中の「父親に対する不信」は年月を重ねるごとに深くなり、糾弾する姿勢はエスカレートしていきました。今から思うと母親の心は徐々に病んでいっていたように思います。我が家はそんな戦争状態が15年間以上続いていたのです。自分は幼い頃からそんな両親の姿をかなり冷めた目で見ていました。
ところが、自分が1つ目の大学に入った頃、自分と父親はたまにご飯に食べにいくような間柄になりました。きっかけは父親がとある整体師と出会い、その整体師と近しくなっていったからです。そして、自分は父親からその整体師の整体を受ける事を勧められました。そこから自分と父親とは断続的にご飯を食べに行くような関係にはなっていました。
ただし、この父親と整体師の関係は、後々父親と母親との間の凄まじいトラブルの火種になる事になります。以前の記事に書きましたように、自分は一時期両親の間の戦争状態の仲裁を試みた事があるのですが、そこで仲裁を断念したのは、この整体師絡みのトラブルが大きな要因としてありました。母親が父親と整体師の関係にブチ切れまくっていまして、全くもって自分の仲裁を聞き入れるような状態ではなかったのです。その頃になると父親は整体師の事を盲信するようになっており、その姿を見た母親は「事業がのっとられる!!」と烈火の如くブチ切れまくっていました。
さて、そんな感じで自分と父親は5年間くらいに渡って断続的にご飯を食べに行くような間柄ではありました。しかし、それもこの頃(古本屋バイトの支店を撤退)になると途切れようとしていました。自分は父親とのコミュニケーションに意味を感じなくなっていったのです。食事中やドライブ中の父親との会話は無味乾燥としていて、なんの面白みもないものでした。自分の方は当時の古本屋バイトの辛さを父親に喋ったりしていたのですが、それに対する父親のリアクションがまぁ薄くて面白く無いのです。父親が自身の実体験を語ってくれる事など一回も無かったですし、心に響くようなアドバイスも皆無でした。なんか自分は徐々に父親に対して自分の話をする事が「喋り損」のような気持ちになっていったのです。自分の方ばかり自分の情報を出しているような気持ちになっていったのです。
そうそう、たまには父親の方が熱を帯びて語る事もあったのですが、その話ときたら「気功」だの「オカルト」だの「陰謀論」だの、自分からしたらクソみたいな話ばかりでしたからね。ですから、自分は父親とのコミュニケーションにも疲れ果て、この頃になると父親とのコミュニケーションも断絶していったのです。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
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