鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

深夜アニメで得た興奮を消化し切れず、睡眠が致命的に取り辛い(2008年4月頃・32歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 トラウマを思い出しながら外を歩くという行為(2008年4月頃・32歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、引っ越し後の自分が、たまに近所を散歩したり、歩いていた、という話でした(2006年〜2007年・30歳〜31歳)。ここからは前回の記事をそのまま引用したいと思います。いつもこのブログをお読みの方はスルーして下さい。



『前回記事からの引用』


振り返ってみますと、引っ越し以降、自分が生活の中で身体を動かす事はたまにしかありませんでした。たまに思い付いては家の周りを歩いたり、走ったりはしていました。この運動は、大学空手部時代の名残と言えました。自分は大学空手部引退後も「自主練」を続けてしまっていたのです。




この大学空手部引退後の自主練の名残りについて、過去記事で詳しくまとめていますので、引用したいと思います。



⑨自分は大学空手部の3年間でさらに「自分に対する自信」をさらに3倍失った。そして、自分の頭の中には依然として「トレーニング=体力が付く=自信が付く」という図式が色濃く残っており、この図式が自分にも当てはまると相変わらず信じていた。そこで、空手部を引退し、人間サンドバッグの恐怖が無くなったにも関わらず、「自分に対する自信」を回復させる為に自主練をを続けてしまった。(トレーニングの内容は、ランニング、坂道ダッシュ、縄跳び、筋トレなどで、1時間程度のトレーニング。頻度は週3回。)


しかし、空手部の頃と同様にトレーニングを積み重ねても一向に体力が増える実感が得られない。トレーニング翌日に体調が滅茶苦茶に崩れるだけ。翌日目が覚めると自分の身体はとても重くてダルく、身体は冷え切っていて、鼻水はダラダラ。食欲は当然全く無く、背中の疲労感は疲労感というより激痛。故にトレーニングすればする程、自分の中にはさらに「孤独感」「脱力感」「無力感」「虚無感」が増えていき、これが更なる自殺願望へと繋がっていった。そして当時の自分はトレーニングをすればする程心身が衰弱していく悪魔のからくりに全く気付いていない。体調が少し回復すると、またトレーニングをしてしまう。このトレーニング行為は「無意識的な全力の自傷行為」とも言える。


(「 大学空手部引退後も挫折は続く 」からの引用)



このように自分は大学空手部引退後も断続的に自主練という名の「無意識の自傷行為」を続けてしまっていました。そしてそれは引っ越し後も変わりませんでした。自分はたまに思い付いては新しい家の周りを散歩したり、走ったりして、翌日体調を崩していました。そして、懲りずにまた2日後くらいにまた身体を動かし、また体調を崩してしまいます。こんな事が1ヶ月くらい続き、体調はどん底です。ここでようやく自分は散歩や走ったりを一切辞めるのでした。こんな事が半年に一度のペースで続いていた記憶です。




『引用終わり』



このように自分は大学空手部引退から10年も経っているにも関わらず、自主練という名の自傷行為を辞められないでいました。そして、最近の記事にも書いていますように、引っ越ししてから1年3ヶ月後の2007年10月、「幻聴→母親と喋り始める事件」が起こりました。この事件の経緯は以下の通りになります。短縮verのフローチャートです。いつもこのブログをお読みの方はスルーして下さい。



「幻聴→母親と喋り始める事件」の経緯


2007年10月、隣の家が犬を飼い始めた事で、自分の精神は過去最大に追い詰められる事となった(31歳)。何せ当時の自分は病的(×18倍)な被害妄想に苦しんでいた。自分が苦しんでいた致命的な精神的苦痛は以下の3つ。


・「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×18倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)

・引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×18倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)


・両親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪




上記3つの精神的苦痛によって自分の精神は犬の吠え声の幻聴が聞こえる程に追い詰められる事となった。そして、自分はその致命的な恐怖により睡眠をまともに取る事が出来ない。これによって、自分の心身は究極的に衰弱し、当然ながら「自殺」という選択肢が意識に登った。



自分は幻聴による苦しみや自殺という選択肢についての思いをノートに書き殴った。するとこのような思いになっていった。「自殺する前に母親と喋ってみるのはどうだろう?」、と。




さらに自分はノートを書いていった。

「どのようにして幻聴が聞こえる程自分の精神を壊れていったのか、それまでの31年間の経緯を母親に洗いざらいぶち撒けてみるのはどうだろう?」

「どうせ自殺するなら、これまでなら絶対に不可能だった事に挑戦し、それで駄目ならその時こそ死ねばいいじゃん」



しかし、「母親と喋る」という選択肢は、当時の自分にとって三重の意味で狂った選択肢だった。その理由は以下の通り。


①当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。


②そこで喋ろうというのは、「自分のトラウマまみれの31年間」。自分は小、中、高、大学と、人間関係に挫折し続け、鬱を悪化させていった。そんな全くもって思い出したくもないトラウマ全てをよりによって母親に喋るという事。

③ 自分の全てのトラウマを母親に喋って聞かせるという事は、膨大な時間がかかる事も容易に想像出来た。少なく見積もっても2〜3ヶ月はかかる。「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じている人間と膨大な時間を過ごすという事。



自分は上記の気持ちを2週間かけてノートに書き殴っていき、どちらの選択肢を選ぶのか、考えていった。そして、最終的に辿り着いた結論は以下の通り。


「『母親に31年間のトラウマ全てをぶち撒ける』という選択肢は三重の意味で狂っている。しかし、どうせなら首を吊る前に、この気が狂いまくった選択肢を試してみてもいいかもしれない」



2007年10月、自分はとうとう母親と喋り始めた。自分は小学校時代のトラウマから始まり、中学、高校、大学のトラウマ事件の数々を母親に喋っていった。(それぞれの事件の詳細は、このブログのトップ記事「「人生年表と鬱のフローチャート」参照)



自分は最初の日は5〜6時間母親と喋り、その後も毎日2〜3時間母親と喋り、トラウマの数々をぶち撒けていった。



しかし、自分のトラウマエピソードを聞いている際の母親のリアクションは、期待していたものとは全くかけ離れていた。自分としては母親から「大変だったね。」や「すまなかったね。」というリアクションを期待していたのだが、実際には母親からこれらのリアクションは皆無。ほとんどの時間、母親は自分の話に対してノーリアクションだった。相槌さえない。自分は壁に向かって一人で喋っているような状態。



しかし、現在の自分(2022年7月)は、この時の母親のノーリアクションには仕方がない部分があったと考える。それは以下の3つ。


「母親のノーリアクションが仕方がなかった理由」


①2007年の自分は、現在の自分(2022年7月)と比べると、過去の記憶への理解の深さが50%程度しかなかった。


②2007年の自分は、母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。


③2007年の自分が感じていた母親に対する「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪、これは母親からすると「濡れ衣」であった。



このように自分はほぼ毎日2〜3時間を使い、8ヶ月間に渡って母親にトラウマを喋り続けた。自分は母親のノーリアクションに対してかなりの虚無感と悲しさを感じていたのだが、一方では以下の希望も抱いていた。


「ほんの1ミリでも当時の自分の悲しみが母親に伝われば、それで良い」
「もしかしたら母親は最初は全く理解出来なくても、話が進むにつれて、理解出来る様になるかも」



しかし、実際にはこの8ヶ月間で母親が自分のトラウマに感情移入する事は一切無かった印象。



2008年3月頃、自分は自分のトラウマを一通り喋り終えた。すると意外な事に、今度は自分の中に母親の人生への興味が湧いてくる事となった。自分はそれまでの32年間母親の人生に興味を持つ事など一切無かったのだが、ここに来てそれが猛然と沸き始めた。



母親の人生を聞く前、自分はこう予想していた。「自分は幼い頃から母親の暗い顔しか見た事がない。という事は母親という人間は、幼い頃から暗い人間だったのだろう。だから母親の子供の自分も、暗い少年時代を過ごす事になったのだ。」、と。



また、母親の人生を聞く前、自分は「家庭内の責任問題」について、こうも考えていた。「家庭内の責任問題」とは、自分が小学校3年生の時に家庭内が戦争状態に陥り、それが10年以上続いた事に対する責任問題。これが原因で自分は学校生活で挫折し続け、引きこもる事になってしまった。



自分はこの責任問題に関して父親と母親それぞれに50%ずつあると感じていた。この2人が作り上げた家庭環境なのだから、それぞれに50%ずつ責任がある、という考え方だった。



このような思いで自分は母親の人生を詳細に聞き始めた。するとそこには自分が全く予想していなかった人生が広がっていた。そう、母親の子供時代の話を聞いた所、それはとても無邪気で明るいものだった。子供時代の母親は、友達や姉と一緒に野山を駆け回り、周りの大人達に可愛がられ、絵に描いたような子供らしい子供時代を送っていた。そのような牧歌的な子供時代は、自分には全く無かったものだった。自分の子供時代と言えば、物心ついた頃には喘息を発症しており、全く運動が出来ず、友達と楽しく遊んだ記憶もほとんどない子供時代。




また、その後自分は母親の学生時代、社会人時代の話も詳細に聞いていったのだが、父親と結婚するまでは、闇の要素は特に無かった。



このような話を聞き続ける中で、徐々に先程の責任問題の考え方が変わっていった。それはどういう事かと言うと、自分が考える母親の責任の割合が50%から徐々に下がっていったのだった。これが上記「母親のノーリアクションが仕方がなかった理由」の③に繋がっていく事になる。



この「幻聴→母親と喋り始める事件」におけるメンタル数値の増減は「0」。メンタル数値が増える要素、減る要素、それぞれあったのだが、それらの差し引きは「0」となる。それらの要素は以下の通り。



①メンタル数値が増える要素:トラウマの数々を母親に喋っている、という状態。何故なら自分は28歳〜29歳の時に1年間引きこもり、自分のトラウマをひたすらノートに書いていく作業をしていた。そして、全てのトラウマをノートに言語化し、その上でそれらのトラウマの因果関係を繋いでいく作業もしていた。これらの作業によって「自分の人生を誰かに喋りたい!!」という激しい衝動が生まれていた。そして、母親という存在はこの衝動をぶつけるのにこれ以上なく最適な存在だった。母親は自分の人生において最も近くにいた「当事者」であり、自分の人生を2度ぶち壊した「責任者」でもあった。



②メンタル数値が減る要素:自分は母親に自分のトラウマを喋り続けたのだが、それに対する母親のリアクションはほぼ皆無。相槌さえない。自分は壁に向かって一人で喋っているようなものだった。当時の自分は母親のそんなリアクションに対して致命的な虚無感を感じていた。


③メンタル数値が減る要素:当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。故にその憎悪を母親と喋っている最中、必死に必死に抑えなければならなかった。これによる精神的消耗もかなりのものがあった。また、それを抑えきれず、母親と激しく喧嘩する事も多々あった。これによる精神的消耗もかなり激しかった。



つまり、「①-②-③=0」という事になる。



フローチャート終わり』



このように2008年3月に自分は母親に全てのトラウマを喋り終えました。すると、今度は逆に母親の人生に猛烈に興味が湧いてきたのです。ここから自分は母親の人生を詳細に聞いていく事になりました。



そして、それと同時期に自分は外を歩き始める事となりました。そう、前回の記事に書きましたように、自分はそれまでも断続的に2日に1度のペースで散歩やジョギングを繰り返していました。しかし、1ヶ月も続けると体調が崩れに崩れ、運動を継続する事が全く出来ません。自分はこんな「トレーニングという名の自傷行為」を半年に1度ペースで繰り返していました。




そして、2008年4月頃、自分は「トレーニング」という目的「以外」で散歩をする理由を見つけ出しました。それは何かと言いますと、「気持ちの消化」です。この理由を見つけた日の事は、今でも覚えています。



その日の話を思い出す前に、話は1年前に戻ります。それは2007年4月頃(31歳)の話です。この頃から自分は深夜アニメを見始めており、その面白さにハマりまくっていました。自分はそれまで深夜アニメを見た事が新世紀エヴァンゲリオンくらいしか無かったのですが、ある日ふと見た深夜アニメに心を奪われてしまったのです。そして、それ以降1シーズンに30本くらいの深夜アニメをチェックする生活が始まりました。



中でも当時の自分は「鬱アニメ」と呼ばれるジャンルのアニメを愛していました。このジャンルの作品の中では登場キャラが心を病んでいく描写が多々あり、それが自分の心に刺さりまくっていったのです。まさに当時の自分も「極度の虚脱状態と放心状態」に陥っていましたから、そのようなジャンルにハマっていくのは当然の流れでありました。



もちろん、深夜アニメのジャンルは鬱アニメ以外にも沢山あり、自分はそれらの作品も大好きでした。そして、自分は良い作品を見ると、その感動や面白さや興奮を言語化したい衝動に駆られました。しかし、自分の現実世界には深夜アニメの事を語り合える友達は皆無でした。そこで自分は「GREE」という当時流行っていたSNSに深夜アニメの感想をアップし始めました。自分はけっこうな長文の感想をそのSNSにアップし続けました。



このように自分はSNSに感想をアップする事で、深夜アニメの面白さや興奮を消化しようとしました。しかし、それでもそれを消化し切れませんでした。そこで自分はアニメショップに赴き、アニメグッズを買う事でそれの消化を試みる事もありました。確かにアニメグッズを購入すると、これらの気持ちは消化される感じはありました。



しかし、しばらくするとこの方法は自分にとってはいまいちだと気付きました。何故ならグッズを買ってから2〜3ヶ月も経つと、感動や興奮が薄れ、部屋にあるアニメグッズに愛着を持てなくなっている事に気付いたからです。これではお金の無駄遣いだと自分は感じました。「アニメグッズを買う」以外の気持ちの消化方法を探さねばなりません。




自分は気持ちの消化方法を探し続けていましたが、その間も深夜アニメに対する感動や興奮は溜まっていき、それを消化し切れません。そして、絶望的に厄介だったのが、そうやって感動を消化し切れないと、それが睡眠の妨害要素となり、上手く眠れない事態が多発したのです。



そう、ただでさえ当時の自分は病的(×18倍)な被害妄想を発症しており、それによって睡眠が致命的に取りづらい状態に陥っていました。当時の自分が感じていた睡眠時の致命的な精神的苦痛は以下の4つになります。


⑴家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照)


⑵「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)


⑶引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×12倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)


⑷ベッドの中における「意識は覚醒しているのに、まぶたや身体が重くて動かない状態」(詳細はこちら)



(引っ越し後の「極度の虚脱状態と放心状態」、この状態における 8個の鬱の諸症状⑴〜⑻ 。から抜粋)



このようにただでさえ当時の自分は睡眠を取るのが極度に困難になっていました。そして、ここに「深夜アニメの興奮で眠れない」という要素も加わってしまったのです。当時の自分にとって深夜アニメは必要不可欠なものでしたが、それによってさらに睡眠が取り辛くなるのは致命的に困った事態でありました。




当時の自分は「感想を書く」「アニメグッズを買う」以外で深夜アニメの興奮を消化できる方法を切実に探し続けていました。そこで発生したのが「外を歩く中でアニメの興奮を思い出す」だったという訳です。





今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!





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