鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

寝付く際の太ももの異常な火照り(2009年3月頃・33歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 2年間に渡る「向かいの車のドア音」との戦いが終焉(2011年3月頃・35歳) 」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、32歳の自分が「トラウマ歩き」に熱中しており、その最中に病的な冷え性に苦しんでいた、という話でした。また、それと同時に「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」にものたうち回っていた、という話でした。自分がこれらの心身の苦痛に苦しんでいた時期は、トラウマ歩きの2年目になります。


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「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。



トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。



では今回の本題に入ります前に、今回の話の前提になる「前フリ」となります。いつもお読みの方はスルーして下さい。


「トラウマ歩きの前フリ」



次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)を貼りたいと思います。



「深夜2時近辺の戦いのフローチャート(短縮ver)」


2007年10月に起きた「犬の幻聴→母親と喋り始める事件」において、自分は妹に対して致命的な「差」を感じる事となった。



そもそも自分はこの事件以前から妹に対して様々な「差」を感じていた。自分は「尿管結石事件」、「引っ越し及び東○荘事件」、「ぎっくり腰事件」、の事件においても、そ妹に対して「致命的な差」を感じており、このような致命的な差の蓄積によって、「母親と喋り始める事件」以降の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。



このように「母親と喋り始める事件」以降、自分は妹に対して「殺しても殺し足りない」(×2.25倍)程の憎悪を感じるようになっていった。そして、これにより3年前の引きこもりの際に発生していた、「妹が深夜2時に寝るかどうか」問題、が再燃する事となった。



この問題によって自分は深夜2時頃になると毎夜毎夜妹に対する病的な(×27倍)憎悪に襲われる事となった。 時には妹が深夜2時過ぎてから部屋から出てくる事もあり、そうなると自分は半狂乱状態に陥った。自分は部屋の前を通る妹に対して強く舌打ちしたり、床を強く蹴ったり、「あ"〜〜〜〜っっっ!!!!」と奇声をあげたり、モノを思い切り壁に投げたり、おもちゃのバットで部屋の床を殴ったり、半狂乱状態に陥った。



それらの行動は、自分の心の中で暴れ回る暴力衝動を外にぶち撒けていたのだった。それをしないと暴力衝動によって自分の心身が滅茶苦茶に壊されそうだった。そして、これらの半狂乱状態は妹に対する威嚇でもあった。「早く部屋から出て来て、寝る準備をしろ!!!!」と、自分は思い切り怒鳴りたかったのだった。



と同時にこれらの威嚇行動は、自分の内部で暴れ回る暴力衝動の致命的な痛みに耐えかねた断末魔の叫び、でもあった。



このように「トラウマ歩き」をしていた頃の自分は毎夜毎夜「深夜2時近辺の戦い」を繰り広げており、それによってさらに睡眠が取れなくなり、心身は衰弱していった。これによって鬱はさらに1.5倍悪化する事となった。



このような経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。




また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。





ここからは前回の記事をそのまま全て引用したいと思います。当時の自分が「向かいの車のドア音」に苦しみまくっており、クレームを言いに行った時の話になります。




『前回記事からの引用』




このように自分は致命的な自己矛盾を乗り越えて、向かいの娘さんにクレームを言いに行ったのでした。その後娘さんは「車のドア音」に気を遣っている様子が伺えました。自分は相変わらず「車のドア音」に起こされ続けましたが、それによる憎悪は減っていった印象です。娘さんが気を遣ってくれている様子が伺えたからです。




このように自分は「向かいの車のドア音」を徐々に受け入れていった印象です。ですから、この音による苦しみのピークは、娘さんにクレーム言いにいった2009年の7月頃だと思います。その後、起こされた際の憎悪は徐々に下がっていき、半年後の2010年3月頃には、ピーク時の半分くらいまで下がっていた印象です。



そこから1年後の2011年3月頃。ようやく向かいの娘さんの里帰りが終わり、お子さんを連れて自宅に帰って行ったのでした。自分はそれを知り、かなりの解放感と安堵感を感じた記憶です。2年間に渡る「向かいの車のドア音」との戦いが終わったのでした。



『引用終わり』



このように2009年3月頃に始まった「向かいの車のドア音との戦い」は、2年後の2011年3月頃終わったのでした。さて、話しを2009年に戻したいと思います。この年の自分は、トラウマ2年目に没頭していました。この時の自分の心身の状態を改めて確認したいと思います。



トラウマ歩き2年目の自分は以下の5つの致命的な精神的苦痛にのたうち回っていました。



「トラウマ歩き2年目の5つの致命的なストレス」

「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情❶〜❾ (ただし❾は冬限定)

「深夜2時近辺の戦い」

「向かいの車のドア音との戦い」


⑷「『殺しても殺し足りない』(×1.5倍)程憎い両親とのコミュニケーション」


⑸トラウマ歩きという行為がいつ終わるのか全く見通せない。上記の致命的な精神的苦痛の数々がまだまだ続く事を考えると絶望的な気持ちに。




そして、上記5つの致命的な精神的苦痛が原因で、自分の心身は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまいました。以下その具代的な症状ⅰ〜ⅷになります。



ⅰトイレで大きいのをするだけでも酷い虚脱状態に襲われてしまい、その度ごとにベッドに入り仮眠を取らねばならない。トイレで大きいのをするたびに日常生活の流れが断絶してしまう。


ⅱ当時の自分は病的(×27倍)な冷え性を発症していた。これによって冬のトラウマ歩きの最中に、防寒具の脱ぎ着におけるギャンブル的要素が発生。( 「トラウマ歩きの最中のネガティヴな感情❶〜❽」の❽)。


ⅲ 「トラウマ歩き」による没入感は凄まじいものがあり、思い出しているトラウマの記憶が尽きるまで延々と歩くのを辞められない、という事態が起こっていた。中途半端な所でトラウマ歩きを終わらせると、現在の自分の意識が過去の恐怖に飲み込まれてしまうような恐怖があったのだ。この恐怖によって、自分は5時間経っても、6時間経っても歩く事を辞められなかった。最長で7時間歩き続けた事もあり、この時の疲労感は凄まじいものがあった。( 「トラウマ歩きの最中のネガティヴな感情❶〜❽」の❺)



ⅳ 当時の自分は、「向かいの車のドア音との戦い」を始めとする、数々の致命的なストレスを抱えており、それによる致命的な睡眠不足と慢性的な疲労感が原因で、目の下に漆黒のクマが発生していた。当時の自分はこのクマを初めて見た際、かなりの精神的ショックを受けた。トラウマ歩きの最中にトイレの鏡を見たら、目の周りが一気に50歳くらい老けているのだ。 それはまるで目の周りがおじいさんになったかのようだった。と同時に目の下の漆黒のクマは、明らかに自分の精神が病んでいる事も表していた。自分はそれ以降、鏡を見るのが大嫌いになったのだった。



ⅴ当時の自分は食事を食べた後にも致命的な眠気と疲労感に襲われてしまう状態だった。ご飯を食べるのは大体夕方頃。この食事によって、致命的な虚脱感が発生し、日常生活を続けるのは困難となり、毎回ベッドに入って仮眠を取らねばならなかった。


そして、ベッドに入ってからも致命的な苦痛は続いた。ベッドに入ると今度は胃からゲップが次から次に上がってきてしまうのだ。自分はゲップによる胃の圧迫感が辛くて辛くて仕方がなかった。


また、当時の自分は病的(×27倍)に冷え性が酷かったので、常に鼻水がズルズルに出ていた。故に、当時の自分が食事の後にベッドの中に入ると、ゲップの圧迫感が苦しくて堪らなかったし、加えて鼻からは鼻水がダラダラ流れていてそれも苦しい、という状態も頻繁に起こっていた。ベッドで横になっている時に鼻水がダラダラ流れてくると、呼吸はし辛いわ、頭がボーっとするわ、不快だわ、の三重苦。つまりこの時の自分は、「ゲップによる胃の圧迫感」と「鼻水による不快感」にのたうち回っていた、という事になる。


加えて、この時の自分はベッドの中に入って眠ろうとしているので、当然「向かいの車のドア音との戦い」も発生している。つまり、ご飯を食べた後の自分は、毎回ベッドの中で以下の致命的な心身の苦痛にのたうち回っていた、という事になる。


・ゲップが溜まる事による胃への凄まじい圧迫感

・鼻水がダラダラ無限に流れて来る事での苦しみ

・「向かいの車のドア音との戦い」



ⅵ 当時の自分は、寝付こうとすると太ももが異常に火照る症状に苦しんでいた。理由は分からないが、寝付こうとすると太ももが異常に火照り始め、暑くてたまらない。故に、この時の自分の身体は「上半身は病的(×27倍)な冷え性」「下半身は太ももの異常な火照り」という、異常なアンバランス状態に陥っていた。これにより布団をどう掛ければ良いのか分からない。上半身に合わせて布団をかければ、下半身が暑くてたまらないし、下半身に合わせて布団を掛けると寒くて仕方がない。このように布団の掛け方が滅茶苦茶難しくなってしまい、寝付いた後に高確率で寝冷え状態に陥ってしまっていた。



当時の自分は朝6時に眠りに付いて、昼の2時頃起きる生活をしていたのだが、昼の2時に起きると、上記の理由で高確率で身体がキンキンに冷え切っているのだった。そして、鼻水はダラダラ、身体はかなり疲労困憊状態。つまり、8時間寝たにも関わらず、眠る前より疲労感が悪化しているのだ。これは当時の自分にとって本当に理不尽な現象だった。



加えて、当時の自分が朝6時に眠りに付く際には「深夜2時近辺の戦い」と「向かいの車のドア音との戦い」、この2つによる致命的な精神的苦痛を必死に必死に耐えなければ寝付く事が出来なかった。これらの2つの致命的な精神的苦痛と、太ももの火照り、これらを必死に必死に耐えて寝付いたと思ったら、8時間後、身体はキンキンに冷え切っており、鼻水はダラダラで、かなりの疲労困憊状態で起きてしまう。この現象は3日に1回のペースで起きていた印象で、当時の自分にとっては本当に致命的に理不尽な現象だった。これにより当時の自分の自己肯定感はさらに下がる事となった。


ⅶ ⅰ とⅳとⅴにあるように、自分の体調が予期せぬタイミングで大崩れしてしまうので、それに滅茶苦茶振り回されてしまう。故に当時の自分は先のスケジュールを決めるのが超苦手だった。それは将来の自分の体調が全く予測出来ないから。明日の体調でさえ全く予測が付かなかった。これによって自分の中の自己否定感はさらに増大していった。



ⅶ ⅰとⅳとⅴにあるように、当時の自分は、生きていく上で絶対的に必要な行為をすると、致命的な苦痛が発生してしまう状態にあった。生きて行く上で絶対的な必要な行為とは、「食べる事」「眠る事」「排泄する事」。これらは人間が生きていく上で絶対的に必要な行為だが、当時の自分はこれら全ての行為において致命的な精神的苦痛を感じなければならなかった。これはただ生きているだけでも拷問のような状態。こんな状態で自分で自分を肯定出来るはずが無かった。ⅴのケースと合わせて、自分は自己否定感をさらに増大させていき、鬱はさらに1.25倍悪化する事となった。



う〜ん、しんどい。このようにトラウマ歩き2年目の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」にのたうち回っていました。自分の人生の中で、鬱が一番酷かった時期はたぶんこの時期ではないかと思います。ⅱにありますように、冷え性も病的(×27倍)に酷く、それによる身体的な苦痛は計り知れないものがあったのです。



ではここで当時の自分がトラウマ歩きの最中にどのように病的(×27倍)な冷え性に苦しんでいたのかを過去記事から引用したいと思います。



「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情❾」


❾当時の自分は病的(×27倍)な冷え性を発症しており、それによって冬のトラウマ歩きが更なる苦行になっていた。冬のトラウマ歩きを始める際、自分は防寒着として以下の服を着ていた。



・股引3枚

・股引の上に「貼るホッカイロ」各足2枚ずつ

・フリースズボン1枚

・ジャージ3枚

・太いGパン

・防風用のレインコート2枚(この2枚は原付から降りたら脱いでいた)


(場所は神奈川で季節は冬・上半身にも上記と同等の服の量が必要)


自分はこのような超着膨れ状態でトラウマ歩きを始めるのだが、歩き出して10分もすると、身体が熱くなり、汗が出て来てしまう。こうなると汗が冷えて身体が冷えるので、すぐにでも上記の防寒着を脱がねばならない。自分は以下のトイレの中から近い場所にあるトイレを探し、そこに向かった。


「コンビニ」「パチンコ屋」「スーパー」「公衆トイレ」


これらのお店に着くと自分はトイレを借り、そこで上から順番に防寒着を脱いでいき、一番下の股引を脱いだ。何故股引なのかと言うと、一番下の股引が一番肌に近く、そこに熱がこもりがちだったから。そして、自分は股引を脱ぎ、再び防寒着を着直し、トイレから出て、再び歩き出す。



ここからが厄介だったのが、一枚脱いでも結構な割合でまだ暑い場合があったのだ。一体何枚脱げば体温的に適当なのかは、脱いで再び歩き出してみないと全く分からなかった。こうなってしまうと、自分は1分もしないうちに先程のトイレに逆戻り。自分はまた防寒着を脱ぎ直し、そして、さらに股引を1枚脱が事に。そこからまた他の防寒着を着直し。このように脱ぎ着が2回目となると、体力的な消耗感がキツく、時間を浪費している感もあり、けっこうなストレス状態に陥っていた。



こうして自分は2回目の脱ぎ着を終え、3たびトラウマ歩きに復帰するのだが、滅多に無い事だったが、それでもまだ暑い時もあった。こうなると3回目の脱ぎ着の試行をせねばならない。このように防寒着の脱ぎ着が3回もかかるとそれだけで30分かかる時もあり、このような時の自分の心の中は、消耗感と時間の浪費感で気が狂いそうになっていた。



これまで書いてきた脱ぎ着の試行パターンは「脱いだけどまだ暑い」だが、もちろん「脱ぎ過ぎて寒くなった」パターンもあった。例えば股引を思い切って2枚脱いだものの、いざ歩き出してみると、肌寒く、再びトイレに戻るパターン。このパターンもよくあり、本当に面倒臭かった記憶。


このように当時の自分はトイレに入った時点で、その時の自分の体温にふさわしい防寒着の枚数を適切に計算する事が全く出来なかった。正解が分かるのは、防寒着を着直して再びトラウマ歩きを再開してすぐ。故に当時の自分は、トイレに入った時点で防寒着の脱ぎ着の枚数をギャンブル的に決めざるを得なかった。そして、このギャンブルの当たり確率は概ね50%くらいだった印象。



なので自分は予想を3回連続で外し、トイレに3回出入りする事も珍しい事ではなかった。この脱ぎ着きのギャンブル的な不確定要素も、当時の自分にとってはかなりのストレスになっていた。



このように当時の自分は病的(×27倍)な冷え性を発症していたので、冬のトラウマ歩きの中での防寒着の調整が本当に困難だった。先程書いたように、まず歩き始めの時間帯に調整が2〜3回せねばならなかったし、さらにそこからも20分くらいおきにトイレを借りて、防寒着の脱ぎ着をせねばならなかった。トラウマ歩きは1回の平均歩き時間が4時間だったが、その中で平均6〜7回はトイレを借りて、防寒着を調整していた印象。



加えて、トイレを借りる場所によっては、その場所ならではのストレスも更に発生し、それも当時の自分を苦しめたのだった。トイレの場所ごとの特徴は以下の通り。


・コンビニのトイレ:最も使う頻度が高かったトイレだが、トイレを借りる為には店員さんとコミュニケーションを取らなければならず、それは病的(×27倍)な被害妄想を発症している自分にとって、決死の覚悟が必要な行為だった。また、トイレを借りた後は何か買い物をし、店員さんにお礼を言った方が良い事は分かってはいたが、毎回モノを買う程の経済的余裕はなく、また店員さんにお礼を言うコミュニケーションですら、当時の自分には厳し過ぎる苦行だった。


よって、自分は買い物も何もせず、お礼を言う事もなくコンビニを出る事もあった。しかし、これはこれでコンビニを出た後自分は凄まじい被害妄想に襲われてしまう。「あの店員さんは自分の事を酷く悪く思ったに違いない。今度行ったら何か酷い嫌がらせをしてくるに違いない。」、と。自分はコンビニでトイレを借りるたびにこのような被害妄想と戦わねばならなかった。


・パチンコ屋のトイレ:コンビニのトイレに比べるとかなり快適だった。店員さんに声を掛ける必要が無いし、お店によってはトイレの中が高級ホテルのように綺麗だった。過去にパチンコで稼いでいた自分にとって、パチンコ屋は心安らぐホームグラウンドであり、それによるリラックス感もかなりあった。


・公衆トイレ:臭くて汚いトイレが多く、使う時は気が重かった。中には臭くて汚くて暗くて狭いトイレもあり、そのような和式トイレで防寒着を脱ぎ着する際は、かなりのストレス状態に陥っていた。また、トラウマ歩きは夜7時〜11時くらいの間に行う事が多く、この時間に人気の無い公衆トイレを使うのは、防犯的な面で怖い所もあった。ただし、パチンコ屋のトイレと同様、店員さんに声を掛ける必要が無いのは気が楽な部分であった。


・スーパーのトイレ:トイレは普通に綺麗だし、店員さんに声を掛ける必要もなく、使い易かった。


さらに天気によっては冬のトラウマ歩きの最中に雨が降ってくる事もあり、こうなると当時の自分のストレスはピークを迎えていた。ただでさえ防寒着の脱ぎ着が致命的に面倒なのに、さらにここに雨のストレス❻が加わってしまうのだ。


例えば、冬のトラウマ歩きの最中に雨が降り出すと、自分は用意していた折り畳み傘を差して、トラウマ歩きを続行した。そして、そのような状態で防寒着の脱ぎ着の為にお店のトイレに出入りせねばならない。こうなると、お店に入るたびに傘を閉じたり、開けたりせねばならないし、トイレに入る時も傘を持って中に入らねばならない。この「傘を持っている事による余計動作一つ一つ」、これが1日の中で5〜6回積み重なっていくとかなりのストレスになっていった。



簡単に言うと、あの時の自分は傘が超邪魔だったのだ。ただでさえ、防寒着の脱ぎ着を繰り返すだけでも、気が狂いそうに辛いのに、さらにそこに❻のストレスが加わり、さらにさらに傘による余計な動作が加わるのだから。そうなると、そこで発生する消耗感は致命的なものがあったのだった。




う〜ん、しんどい。加えて当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥っていました。その症状ⅰ〜ⅷの中で、病的(×27倍)な冷え性に関するトピックを抜粋してみたいと思います。



ⅱ トラウマ歩きの最中の防寒着の脱ぎ着のギャンブル感

ⅴ 食事を食べた後、ベッドに横になっていると、鼻水がダラダラ流れてきて、辛くて仕方ない。

ⅵ 寝付く際の「上半身は病的(×27倍)な冷え性」「下半身は太ももの異常な火照り」という、異常なアンバランス状態。これによって布団の調節が異常に難しくなり、冬を中心にして寝冷えが頻発。



このように当時の自分は病的(×27倍)な冷え性の辛さにものたうち回っていました。ここで当時の冷え性を物語るエピソードを思い出したので書きたいと思います。このように当時の自分は冷え性が病的(×27倍)に酷かったものですか、しょっちゅうお腹を壊して腹痛に苦しみ、下痢になっていた記憶です。



そして、腹痛が軽い時にはトイレに行けばすぐにそれは収まっていました。しかし、腹痛が本当に酷い時もあり、加えてトイレに行ってもなかなか下痢が出ない時もあったのです。そうなると、自分はそれが出るまで酷い腹痛に耐えねばなりません。自分は何度もトイレに行くのですが、やはりなかなか下痢が出ません。そうこうしているうちにさらに腹痛は激しくなり、自分はトイレの前で倒れ込み、そこでお腹を抑えながら、激痛に耐えていた記憶もあったりします。



そして、10〜15分くらい経つと、ようやく便意が訪れて、スッキリする、という感じでした。



このシーンは当時の冷え性を表すエピソードの一つとして印象に残っているシーンだったりします。



ところで、先程の冷え性のエピソードの中で、「寝付く際の太ももの異常な火照り」についての話がありました。改めてその部分を引用します。


ⅵ 寝付く際の「上半身は病的(×27倍)な冷え性」「下半身は太ももの異常な火照り」という、異常なアンバランス状態。これによって布団の調節が異常に難しくなり、冬を中心にして寝冷えが頻発。



ここからは、この時の太ももの異常な火照りは何が原因だったのか考えてみたいと思います。まず最も大きな要因としては「トラウマ歩き」が考えられます。何せ当時の自分は週に3回、1回平均4時間を使って、トラウマを思い出しながら、外を歩き回っていました。ⅲにありますように、時には6時間、7時間ぶっ続けで歩き回る事も珍しくありません。ですから、このトラウマ歩きによる肉体的な疲労感が太ももの火照りの大きな要因である事は間違いないと思います。



また、当時の自分は病的(×27倍)な冷え性に苦しんでいました。そして、当時の自分が冷えを感じるのはほとんど上半身でした。ですから、「上半身の冷え」と「下半身部分」で激しい温度差が生まれ、それが太ももの火照りとして感じられた可能性もあると思います。



さらに考えられる要因として「トラウマ歩きの最中のポジティブな感情」もあると思います。ではここで久しぶりに「トラウマ歩きの最中に発生していたポジティブな感情①〜⑥」を振り返ってみたいと思います。


「トラウマ歩きの最中に発生していたポジティブな感情①〜⑥(短縮ver)」


①過去のトラウマに対するかなりの懐かしさ(愛着)

②①によって発生する麻薬的な気持ち良さ

③歩く事による自己肯定感

④タイムスリップ感覚による非日常感

⑤観光気分による非日常感

⑥深夜アニメ絡みの楽しく嬉しい気持ち


このように当時の自分はトラウマ歩きの最中にポジティブな感情も感じていました。これは現在の自分(2022年10月)の仮説なのですが、トラウマ歩きの最中に発生していたこのポジティブな感情が、太ももの火照りを発生させる一要因になっていたような気がするのです。



これはホントに仮説なのですが、当時の自分は①〜⑥のポジティブな感情を半分くらいくらいしか言語化出来ていなかったような気がするのです。この頃の自分は母親と毎日1時間くらいは喋っていましたから、当然トラウマ歩きの話も毎日のようにしていました。しかし、今から考えますとその表現能力は浅く、半分くらいのポジティブな感情は消化しきれずに、自分の心の中に残ってしまった印象です。



そして、その消化出来なかったポジティブな感情が、いわゆる「躁鬱状態』の「躁状態」のように思えるのです。なんというか、無根拠にテンションが上がってしまう状態です。そして、その躁状態がトラウマ歩きによる足の疲労感と結びつき、太ももの火照りを発生させていた、そんな印象もあったりもします。



また、この仮説を時代を拡大して当てはめる事も出来ると思います。 自分はそれまでの人生の中で幾度となく運動を繰り返してきました。高校時代の自転車通学、1つ目の大学時代の空手部と自主練、空手部引退後の自主練、タップダンス、ロックダンスなどなど。今から考えるとそれらは「無意識の自傷行為」と呼べる不毛な行為でした。運動をしてもしても全く体力がついたという実感を得られず、逆に運動翌日には毎回体調をぶっ壊していたからです。



このように自分の人生における「運動」とは、ただひたすら不毛な行為でありました。しかし、そうは言っても運動後の自分の心の中には上記の「トラウマ歩きの最中に発生していたポジティブな感情③」にあるような「身体を動かす事での自己肯定感」、これも僅かながら発生していたような気もしなくもありません。



そして、もしかしたらこの僅かな自己肯定感は日々少しずつ溜まっていき、「躁状態」を作り上げ、それが太ももの火照りを発生させていたのではないか、と思えなくもありません。




まぁこれはホントに仮説中の仮説の話って感じです。




今日はここで失礼します。お読み頂きありがとうございました!




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