皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 母親と自分と妹、3人の人生が家の闇に飲み込まれていった(2011年4月頃・35歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、自分が3年間に渡るトラウマ歩きを終え、妹と喋り始めた、という話でした。この時の自分の年齢は35歳で妹は32歳です。自分も妹も引きこもり状態にありました。
ここからしばらくは今回の記事の前提となる前フリ部分になります。いつもお読みの方は飛ばして下さい。
『今回記事の前フリ』
. 「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。
トラウマ歩きを開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間。1回で歩く距離は平均10km。この行為を続けていた期間は3年間です。自分がこの行為の中で感じていたポジティブな感情とネガティヴな感情は以下の通りです。
次に最近の記事で作った「深夜2時近辺の戦い」のフローチャート(短縮ver)のリンクを貼りたいと思います。
上記のリンクの経緯で「トラウマ歩き」の頃の自分は、妹に対して病的(×27 倍)な憎悪を感じていた、という事になります。(事件の詳細はこちら)そして、その憎悪をトラウマ歩きの中で思い出し、消化する事もありました。
また、トラウマ歩き2年目の2009年3月頃、この頃から自分は「向かいの車のドア音」にも苦しみ始めたのでした。そして、その音によってコントロール不能な暴力衝動が発生し、それを窓際の障子を殴る事で発散していた、という話になります。(この「向かいの車のドア音との戦い」の詳細はこちら)そして、上記の2つを含めた様々な致命的なストレスが重なり、当時の自分は「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥ってしまった、という話になります。
『前フリ終わり』
ここからは前回の記事をそのまま引用したいと思います。トラウマ歩き最終盤の2011年3月、自分が妹とのコミュニケーションを復活させた、という話になります。そして、その中で妹の高校時代以降の話を聞いていった、という話になります。
『前回記事からの引用』
なるほど〜。このように当時の自分は、トラウマ歩きの終盤に妹の人生を聞き始めたのでした。ただし、その時に感じた感想は、今回ブログに書いた感想とは大きく異なる印象です。そう、当時の自分は、今現在(2022年11月)の自分に比べると、妹の人生のほとんど感情移入出来ていませんでした。当時の自分とは今から11年前(2011年)の自分の事です。
そう、当時の自分は妹の人生を聞いても、そこにほとんど感情移入していなかった記憶です。なんだったら「嫉妬」していたくらいだったと思います。妹の人生は、自分の人生に比べて、人に恵まれていましたから、そこに対する嫉妬や劣等感を改めて感じていたような記憶です。
ただ全く感情移入していなかったかというとそういう訳でもなく、「妹の人生もまたままならないものだったのだな」、という淡々とした感想は抱いていた記憶です。
そして、現在の自分(2022年11月)は11年ぶりに妹の人生を詳細に思い出し、こうやってブログに書いてみました。すると、11年前とは違い、そこには明らかに感情移入が発生していました。あれは確か4回くらい前の記事を書いている時の事です。自分は妹の人生を書きながら、泣いていました。
具体的にその時の事を書いてみますと、妹が大学受験を2回失敗した後、アトピーが激化し、ガチの引きこもり状態が10年以上続いた、という話を書いている時に、かなりの感情移入が発生していました。自分の人生にも外出不能のガチの引きこもり期間はありましたが、それは記憶のサルベージの1年間のみです。その1年間だけでもかなりの絶望感があったのですが、妹の場合それがら10年間ですからね。
まぁ妹の場合は、両親とコミュニケーションが取れている状態での引きこもりですから、自分の1年間とは単純比較は出来ませんが、それでも絶望的な10年間であったろう事は容易に想像出来ます。なんというかカゴの中の鳥みたいな状況ですからね。しかも、そのうちの7〜8年間は、隣の部屋で兄である自分が妹に対して殺意を剥き出しにしていたのです。閉塞感と恐怖感を合わせたメンタルダメージの総量は、致命的なものがあったと思います。
さらにもっと激しく感情移入をした部分もありました。それは妹がアトピーによってメイクやファッションを楽しめなかった、という状況です。そう、妹は高校入学と同時にギャルデビューし、メイクやファッションを楽しんでいた事と思います。しかし、その期間は2〜3年しか続かなかった印象です。何故なら大学受験に失敗し、その挫折感によって、アトピーが悪化してしまったからです。妹は引きこもり状態に陥り、メイクやファッションどころでは無くなってしまいました。これは女性の妹からしてみれば、かなりの絶望感であった事だろうと思います。
そう、当時の妹の顔の皮膚は赤くただれ、かさぶたで白くガサガサになっていました。あのような状態でメイクやファッションを楽しむ事は困難であったと思います。ですから、妹は外出出来なくなり、引きこもり状態に陥ったのです。しかもその状態は21歳〜22歳、26歳〜37歳まで続く事になったのです。
そう、自分は上記のアトピーの話を書いている時に泣いていました。当時の妹がアトピーに感じたであろう絶望感や悲しみに、激しく感情移入していたのです。女性である妹にとって顔の皮膚の状態は命に等しいものだったと思います。しかも当時の妹は20代。いわゆる「青春時代」です。その時期に命に等しい肌に深刻なトラブルを抱えていた訳です。この感情移入は11年前に妹の話を聞いた時には全く起こらなかった反応でした。
どうして11年前に起こらなかった感情移入が今現在(2022年11月)には起こったのでしょう。それはこの11年間で自分がファッションを楽しむ感覚を覚えたからだと思います。特にここ4〜5年くらいは、自分は服にそれなりのお金を投じています。自分の好きな青系で、身体にフィットし、アメカジテイストな服を着るのが楽しくてたまりません。最初の頃は大衆的なお店であるユニクロやジーンズメイトに入るのだけでも緊張していましたが、今ではサンローランやモンクレールなどのハイブラの服を着るまでになっています。
このように自分はこの4〜5年でファッションを楽しむ感覚を知りました。だからこそ、妹がアトピーでメイクやファッションを全く楽しめなくなり、絶望した気持ちに激しく感情移入したのだろうと思います。
『引用終わり』
このように、現在の自分(2022年11月)は妹のアトピーについてこのブログに書いている時に、泣いてしまったのでした。ではここで、話を2011年3月に戻したいと思います。当時の自分はトラウマ歩きの終盤を迎えていました。そして、この時期に自分は妹とのコミュニケーションを復活させ、妹の人生を聞いていったのでした。
それから3ヶ月後の2011年6月、トラウマ歩きが終焉を迎えました。そして、それから2ヶ月後の2011年8月には妹の人生を聞く行為も終わった印象です。とりあえずこの頃の自分は、3年間のトラウマ歩きを終え、放心状態にあった記憶です。そもそも当時の自分はトラウマ歩きの目的を「トラウマを消化し、鬱を回復させる」としていました。しかし、3年間のトラウマ歩きを終えてみますと、鬱が回復した実感は全く得られていません。それどころか、当時の自分は気付いていませんでしたが、トラウマ歩きたよって鬱はさらに1.25倍悪化していたのです。それは放心状態にも陥るはずです。
加えて、トラウマ歩きの終盤では原発事故が起こり、それによりかなりの精神的ストレスを受ける事にもなりました。それを乗り越えてトラウマ歩きを終わらせたのですから、それは放心状態にも陥るはずです。
このようにトラウマ歩きが終わり、自分はかなりの放心状態にあった記憶です。ではここで当時の自分の気持ちを具体的に振り返ってみたいと思います。以前の記事でまとめたものです。
「トラウマ歩きの3年間を終えた後の自分の心境①〜⑤」
① トラウマ歩きからようやく解放された事で発生した、かなり嬉しさ。これからはもう 「トラウマ歩き」の最中のネガティヴな感情の❶〜❾ を感じなくても良い。
②「トラウマを消化した」という手応え。確かに当時の自分は「学生時代のトラウマ」から「悲しさや辛さ」の感情を消滅させる事に成功していた。
③週3回、1回平均4時間のトラウマ歩きから解放されるという嬉しさ。トラウマ歩きとは、1回平均4時間かかる行為だったが、それ以外にも時間を使う行為だった。外出前の準備時間も必要だったし、トラウマ歩きの起点までの移動時間も必要。そして、トラウマ歩き後は帰宅するまでにも時間がかかった。このようにトラウマ歩きという行為は、本体の4時間以外にも最低1〜2時間は必要な行為だった。故にトラウマ歩きをする日は、トラウマ歩きだけで1日は終わっていた。
当時の自分はこの行為を週3回行っていた。そして、トラウマ歩きの無い日には、昼の1〜2時に起き、母親と1〜2時間喋り、その後は部屋で疲労困憊状態でぐったりしているだけで1日が終わっていった。自分の3年間はトラウマ歩きに始まり、トラウマ歩きで終わっていったと言っても過言では無かった。
このように自分はこの3年間、トラウマ歩きに全ての時間を捧げてきたのだった。そして、ようやくトラウマ歩きから解放される日がやってきた。この事によって、かなりの時間が空く事になった。この「時間の解放感」はかなりのものがあった。
④ トラウマ歩きが終わるという事は、トラウマ歩きが原因の致命的な疲労感が消滅する、という事を意味していた。これは当時の自分にとって、かなりポジティブな変化だった。何せこの致命的な疲労感は、「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」の大きな原因の一つとなっていた。大きな原因の一つが消滅した事で、「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」が多少なりとも改善した可能性が考えられる。
⑤このトラウマ歩きという行為に膨大な時間とエネルギーと心身の健康を投入したにも関わらず、「鬱の回復」は全く実感出来なかった。自分の身体はトラウマ歩きの3年間で「自分で自分の身体を全くコントロールし切れない状態」に陥っており、日々の生活は致命的に辛くて辛くて仕方なかった。この事に対する膨大な虚しさ。
このようにトラウマ歩きを終えた後の自分の心の中には、①〜⑤の感情が発生していました。この中でポジティブな感情は①〜④で、ネガティヴな感情は⑤です。そして、ポジティブな感情とネガティヴな感情を差し引きしますとプラスマイナス0です。式にするとこんな感じです。
(①+②+③+④)-⑤=0
これはつまり、トラウマ歩きの終了によって、メンタル数値が動く事は無かった、という事です。言い換えますと、トラウマ歩きの終了によって、自己肯定感が上がる事も無かったし、下がる事も無かった、という事です。ただまぁ先程も書きましたように、「放心状態」にはなっていたと思います。何せ自分が膨大なコストをかけた行為が終わったのですからね。自分はこの行為に3年間という膨大な時間と、膨大なエネルギーと、心身の健康を投入してきました。そして、その行為がようやく終わったのです。
加えて、上記の⑤にありますように、この行為によって「鬱が回復した」という実感は全く得られませんでした。そりゃ、放心状態に陥るはずです。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
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