皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 家族に対する殺しても殺し足りない程の憎悪をトラウマ歩きの中で消化していく(2008年4月頃・32歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、32歳の自分が熱中していた「トラウマ歩き」、この「トラウマ歩き」の最中に母親や妹に対するストレスを考え、消化していた、という話でした。「トラウマ歩き」とは、歩きながら過去のトラウマを思い出す事で、それを消化する試みを指しています。自分はこの行為を2008年7月頃から始めました。この時の年齢は32歳です。今から14年前の話になります。
「トラウマ歩き」を開始してからというもの、自分は週に3回のペースで外を歩く事になりました。1回の歩き時間は平均4時間、平均移動距離は10km。この行為を続けていた期間は少なくとも1年以上です。
ではまずは、これまでの記事でまとめた「トラウマ歩き」の最中のポジティブな感覚とネガティヴな感覚を引用します。
ここまでの話をまとめますと、自分は「トラウマ歩き」の最中に、①〜⑥のポジティブな感覚と❶〜❽のネガティヴな感覚、両方を同時に感じていた、という事になります。なんというか凄まじく自己矛盾した状態で歩いていた、という感じです。
そして、この①〜⑥のポジティブな感覚と❶〜❽のネガティヴな感覚、これらをトータルで差し引きしますと、「プラス」という感じです。ただこれは「トラウマ歩き1年目」の評価であり、2年目以降はまだ評価出来ません。またこれは今現在(2022年8月)の評価です。今後変わる可能性もあります。
次に、「トラウマ歩き1年目」において自分がよく歩いていたルートを確認したいと思います。そのルートは以下の4つになります。
・東京都心ルート
・鉄道沿線ルート(2種類)
・駄菓子屋ルート
ここまでの話をまとめますと、当時の自分は「トラウマ歩き」の最中に、①〜⑥のポジティブな感覚と❶〜❽のネガティヴな感覚、両方を同時に感じていた、という事になります。なんというか凄まじく自己矛盾した状態で歩いていた、という感じです。
ここからは前回の記事をそのまま引用したいと思います。自分がトラウマ歩きの最中に母親や妹に対するストレスを考えていた、という話になります。
『前回記事からの引用』
さて、「トラウマ歩き」の1年目の話に関しては大分整理されてきたな、という感じです。素晴らしい。上記のような状態で、自分は2008年4月から2009年4月までの1年間をトラウマ歩きしていった、という話になります。
そして、2008年4月頃といえば、忘れてならないのは自分が母親とコミュニケーションを取り始めていた、という事です。正確には前年の2007年10月頃から母親とコミュニケーションを取り始めていました。その中で自分は自分の過去のトラウマを母親にひたすら聞かせていったのです。
しかし、この行為は当時の自分にとって三重の意味で気が狂っていました。その理由は以下の3つになります。以前の記事でまとめたものです。
①当時の自分は母親に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていた。
②そこで喋ろうというのは、「自分のトラウマまみれの31年間」。自分は小、中、高、大学と、人間関係に挫折し続け、鬱を悪化させていった。そんな全くもって思い出したくもないトラウマ全てをよりによって母親に喋るという事。
③ 自分の全てのトラウマを母親に喋って聞かせるという事は、膨大な時間がかかる事も容易に想像出来た。少なく見積もっても2〜3ヶ月はかかる。「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じている人間と膨大な時間を過ごすという事。
これは、自分が母親とコミュニケーションをとるなど絶対的にあり得ない状態でした。しかし、当時の自分は病的(×18倍)に被害妄想が悪化しており、近所の犬の鳴き声に首吊り寸前まで追い詰められていました。そこで自分はノートに自分の気持ちを書き殴り、「首吊り」or「母親と喋る」どちらを選ぶが考えました。そして、最終的には「母親と喋る」を選んだのです。
自分はこのようにして母親とコミュニケーションを取り始めたのですが、この行為は致命的な精神的ストレスを自分にもたらしました。そりゃそうです。当時の自分にとってこの選択肢は三重の意味で狂った選択肢なのですから。ですから自分は母親と喋っている最中に何度ブチ切れたか分かりませんし、母親と何度激しくぶつかったか分かりません。
ここまで書いて思い出したのですが、自分はこの母親とのコミュニケーションで発生した致命的なストレスを「トラウマ歩き」の中で消化していた記憶です。これまでの記事の中で、トラウマ歩きの歩き始めの40分くらいは深夜アニメの感想を思い出していた、という話を書いてきましたが、それ以外にもこの母親に対する凄まじいストレスも思い出して歩いていた記憶です。
そう、母親に対する凄まじいストレスを歩きながら思い出すと、それが消化されていく感覚がありました。他にも当時の自分は妹に対しても致命的なストレスを感じていたのですが、これも歩きながら思い出して、消化していた記憶です。
『引用終わり』
このように当時の自分はトラウマ歩きの中で母親や妹に対するストレスを消化していきました。今回の記事では当時の自分が妹に対してどのようなストレスを感じていたのか書いていきたいと思います。
そもそも当時の自分は両親と妹に対して等しく「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていました。ここからは自分の中の憎悪が増大していった経緯を振り返ってみます。
まず自分が最初に家族の中で憎悪を感じた相手は母親です。2003年頃の自分(27歳)は母親に対して「殺したい」程の憎しみを感じるようになっており、コミュニケーションが不可能な状態に陥っていました。(詳しい経緯は、このブログのトップ記事「「人生年表と鬱のフローチャート」をご覧下さい。)
一方、妹の方は母親と良好な関係を維持しており、それは当時の自分からすると、かなり腹立たしい事でした。これはつまり、「敵の味方も敵」という感じです。自分は母親と良好な関係を保つ妹に対しても憎悪を感じるようになっていったのです。
また、自分は学生時代に周りと全くコミュニケーションが取れず、孤独と挫折の連続で心身が壊れに壊れていきました。一方その間妹の方はというと、友達や彼氏に恵まれ続けていたのです。その中で当時の自分は妹に対して嫉妬の入り混じった憎悪も募らせていったのです。
そして、この憎悪は「2003年10月の尿管結石事件」と 「2006年6月の引っ越し及び東○荘事件」によってさらに激化しました。よってトラウマ歩きをしていた頃(2008年3月〜)の自分は、妹に対して「殺しても殺し足りない」「以上」の憎悪を感じていたのです。
ではここでトラウマ歩きをしていた頃の自分が陥っていた心身の状態を改めて確認しておきたいと思います。当時の自分は「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態に陥っており、以下の諸症状にのたうち回っていました。
引っ越し後の「極度の虚脱状態と放心状態」における8個の鬱の諸症状
⑴家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照)
⑵「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)
⑶引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×12倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)
⑷ベッドの中における「意識は覚醒しているのに、まぶたや身体が重くて動かない状態」(詳細はこちら)
⑸当時の自分の体調は、冷え性も病的に悪化しており、真夏日でも部屋の中でエアコンを付ける事が出来なかった。もしベッドで横になっている時にエアコンを付ければ、必ず寝冷えしてしまう。エアコンの設定温度を30度に設定したとしても、寝覚めると身体は氷のように凍え切っており、鼻水はダラダラ、身体は100kgの重りを背負っているかのよう。故に自分は真夏日でもエアコンや扇風機や窓を開けずに眠るしか無かった。(住んでいる場所は神奈川)
当時の睡眠時間は昼夜逆転していたので、自分は真夏日の昼間に室温50度くらいの中で汗をダラダラ流しながら、眠らざるを得ない。そして、2〜3時間寝れたとしても、意識が覚醒すると、⑷の状態に陥り、ベッドから身体を起こす事は出来ない。自分はそこからさらにダラダラ汗を流しながら、1〜2時間ベッドに磔状態。この時の虚脱感や消耗感や絶望感は致命的なものがあった。
(⑷、⑸の症状は、引っ越し前の引きこもり時期にも発症。)
⑹引っ越しによって発生した①〜⑥+1の致命的な精神的苦痛(詳細はこちら)
⑺上記の「極度の虚脱状態と放心状態」で、パチンコ稼業を再開出来るはずも無く、自分は引っ越してから1ヶ月後にパチンコ稼業からの撤退を決意した。これにより、自分の中に筆舌に尽くし難いほどの無力感が発生。これにより「極度の虚脱状態」はますます悪化していった。
⑻上記の7つの諸症状は耐え難い心身の苦痛を常に自分に発生させていた。故にこのような日々の唯一の心の支えが、「首吊り装置」という名の「最終安全装置」だった。この時の具体的な気持ちは以下の通り。
当時の自分は、余りの憎悪や被害妄想や肉体的苦痛に耐えられず、自我を失いそうになったら、さっさと首を吊ってこの世から離脱する事を決意していた。何故なら当時の自分が最も恐れていた事態は以下の事態。
自分の自我が憎悪と被害妄想に飲み込まれてしまい、正気を完全に失い、「自殺」という現実離脱手段すら使えなくなる事態。(具体的には、自分が気が狂った末に、精神病院の閉鎖病棟に隔離され、死ぬまでそこで苦しみ続けるような状態を想定)
まとめ:自分は引っ越し後、上記⑴〜⑻の致命的な精神的苦痛にのたうち回る生活を送り続る事となった。自分は仕事は一切せずにただただ食べて寝るを繰り返すだけの日々を過ごしていった。それは何の希望も展望もない日々であり、「自殺しないで生きる」だけで精一杯の日々だった。
そして、上記の諸症状は「ぎっくり腰事件」によってさらに1.5倍悪化しています。よって上記の⑴〜⑻の諸症状が1.5倍に悪化したものが「極度の虚脱状態と放心状態」×1.5倍状態という事になります。
ですから、トラウマ歩きをしていた頃の自分は上記の諸症状にものたうち回っていました。さらに⑴〜⑶の諸症状は隣の部屋に住む妹にも向けられていました。中でも強かったのは⑶ 『「寝付く際の周りの音」に対する病的(×18倍)な被害妄想』、です。これまでの記事に書いていますように、この被害妄想は2007年10月には近所の犬の鳴き声に向けられ、当時の自分は首吊り寸前に追い詰められる事態を引き起こしていました。
そして、この『「寝付く際の周りの音」に対する病的(×18倍)な被害妄想』は隣の部屋に住む妹にも向かいました。つまり、当時の自分は妹の出す「ドアの音」に対しても激しい憎悪と恐怖を感じ始めたのです。
今回の記事はここで失礼致します。お読み頂きありがとうございました!