皆さんこんばんはスキッパーです!今日も見に来て下さりありがとうございますm(_ _)m今日も皆さんに自分の話を読んで頂けるかと思うと嬉しい気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事も併せてどうぞ。では、前回の記事「うすらぼんやりとした記憶の成れ果て(2004年10月頃・28歳)」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、自分が思い付いた記憶に関する仮説についての話でした。その仮説とは、「経験というものはただ経験しただけではうすらぼんやりとした記憶しか残らず、喋ったり、書いたり、言語化しないと血肉の通った経験にならないのでは?」というものです。この仮説は自分が28年間の人生を振り返る中から出てきた仮説でした。そう、自己表現が全く出来ず、それ故人間関係に失敗し続け、最後には部屋に引きこもる事になってしまった人生を振り返る中から出て来た仮説でした。そして、自分の人生に関してはこの仮説は100%当てはまると思いました。日々の経験というものは喋るなり、書くなりして言語化していかないと、脳の中に強く刻み込まれていかないのではないかと思ったのです。経験を言語化していく事で経験が脳に「焼き付いていく」ようなイメージです。自分はこの作業を幼い頃からほとんどしていかなかったから、学校生活において覚えている記憶が乏しいのだと思います。あ、記憶が乏しかったのは学校生活だけでなく、家庭生活においてもです。自分が小学生や中学生だった頃、我が家は夏休みや年末に伊豆や熱海に3泊4日くらいで家族旅行に行く事がよくあったのですが、ここでの旅行経験も自分はほとんど覚えていません。旅行先での経験というものは、いわゆる「非日常的で楽しい経験」であり、すごく記憶に残りやすい経験だと思うのですが、これに関しても自分はほとんど覚えていない。「あれを見て楽しかったなぁ」、とか、「あれで遊んで楽しかったなぁ」とか、そういう類いの記憶が一切無いのです。やはりこれも自分が経験を言語化していなかったのが一因ではないかと思われます。
何せ当時のうちの家族旅行と来たら、父親と母親が一触即発の空気の中の旅行でしたからね。旅行先に向かう2〜3時間の車中においても父親と母親の間には常に不穏で不機嫌な空気が満たされていましたし、ちょっとした事で喧嘩が始まると、2人の機嫌は地の底まで落ちてしまい、以後の車中は地獄のような空気になっていました。このような空気の中での旅行ではそもそも楽しい気持ちになりませんし、仮に楽しい気持ちになったとしてもそれを表現する気になんてさらさらなれません。ですから、我が家は10回以上家族旅行自体に行っているのですが、その中身を自分はほとんど覚えていないのです。覚えているのは車中での地獄のようないたたまれない空気のみ。折角お金と時間をかけて旅行したとしてもあんな旅行では全く意味がありません。あれは虚しい旅行でしたねぇ。
今日はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!m(_ _)m
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