皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表&鬱悪化のフローチャートも併せてどうぞ。では、前回の記事「 外を歩きながら、深夜アニメの事を考え、その興奮を消化する(2008年4月頃・32歳) 」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、31歳の自分が深夜アニメにハマりまくっており、その感動と興奮で眠り辛くなっていた、という話でした。ですから当時の自分は、その感動と興奮を消化する方法を切実に探していました。自分はその感動と興奮を言語化し、それをSNSにアップしたりもしましたが、それでもその感動を消化する事が出来ません。そして、アニメグッズを買う方法も自分にはいまいちでした。自分は消化し切れなかった感動と興奮によって、さらに睡眠が取り辛い状態に追い込まれていったのです。
ただでさえ当時の自分は病的(×18倍)な被害妄想を発症しており、それによって睡眠が致命的に取りづらい状態に陥っていました。当時の自分の睡眠時の致命的な精神的苦痛は以下の4つになります。
⑴家族に対する「殺しても殺し足りない」程の憎悪(自分が両親に対して憎しみを募らせていく過程はこのブログのトップ記事 「人生年表&鬱悪化のフローチャート 」参照)
⑵「もしベッドに入り寝てしまったら、その無防備な所を家族に襲われ、殺されてしまうかもしれない」という病的(×12倍)な被害妄想。(詳細は(「こちら」)
⑶引きこもり時期にも発症していた「寝付く際の周りの音」に対する病的(×12倍)な被害妄想。(詳しくは「 引きこもり期間中の9個の鬱の諸症状(過去編・2005年1月・29歳) 」の①)
⑷ベッドの中における「意識は覚醒しているのに、まぶたや身体が重くて動かない状態」(詳細はこちら)
( 引っ越し後の「極度の虚脱状態と放心状態」⑴〜⑻ 。から抜粋)
自分は上記⑴〜⑷の致命的な精神的苦痛によって睡眠を取る事が日々命懸けになっていました。その上さらに「深夜アニメの興奮」という睡眠妨害要素が加わってしまったのです。自分は深夜アニメの興奮を何とかして消化する必要に迫られていました。そこで出てきたのが「外を歩く」だったのです。
ここからは前回の記事を引用したいと思います。自分が「外を歩く」というアイデアに辿り着くまでの経緯になります。
『前回記事からの引用』
このように当時の自分は深夜アニメにハマりまくっており、その感動と興奮で眠り辛くなる事態が起こっていました。自分はその感動を言語化し、書いたものをSNSにアップする事で、それを消化しようとしましたが、消化し切れません。自分は困ってしまいました。そこで見つけたのが、「外を歩きながら、深夜アニメの事を考える」だったのでした。
自分がこのアイデアを思い付いた日の事は覚えています。話は10年前に遡ります。この頃に自分は1つ目の大学を中退しました。大学空手部で3年間過ごし、さらに1年間過ごした末の中退です。しかし、自分は大学中退後も半年に1度くらいのペースで1つ目の大学を見に行っていました。それは何故かと言いますと、1つ目の大学を見にいく事で心が安らぐ感覚があったからです。
そう、これまで書いていますように、自分はこの大学の空手部において、3年間死の恐怖に晒され続け、鬱を3倍に悪化させる事となりました。この3年間は死の恐怖と孤独に塗れた3年間であり、悪夢の3年間でした。しかし、自分はそんなトラウマしかない大学に中退後も足を向けていたのです。
その理由は「自分がもはや死の恐怖の渦中にいない事を感じられるから」です。当時の自分は中退後も1つ目の大学に赴き、そこで自分が空手部の恐怖にはもはや怯え無くても良い状況にある事を再確認していました。もちろん、この頃には空手部は引退していますから、それは分かりきった事ではありました。しかし、それでも自分は1つ目の大学に赴き、それを確認せずにはいられなかったのです。そして、大学に赴きそれを確認すると、自分の心の中に大きな大きな安堵感が広がりました。その時の気持ちはこんな感じです。
「そうか!自分はもう空手部は引退しているし、この大学も中退している。だからもう空手部の死の恐怖に怯え無くても良いのだ!!自分はあの3年間を殺されずに終わらす事が出来たのだ!!」
と。
さて、自分は深夜アニメ「Fate/Zero」という作品が大好きなのですが、その中に「生の愉悦」という言葉があります。自分がこの時感じていた気持ちは、これに似た気持ちなのではないかと思います。この作品の中で「愉悦」とは「他人が不幸になる事を楽しむ」という意味で使われています。そして、まさにこの時の自分は自分の過去の不幸と現在の自分を比較して楽しんでいたのです。
このように自分は1つ目の大学中退後も半年に1回ペースで1つ目の大学を見に行っていました。しかし、2004年〜2005年の1年間はそれをストップしています(28歳〜29歳)。何故ならこの時期の自分は社会生活と家族関係から完全に脱落し、自分の部屋に引きこもり続け、自分の28年間のトラウマ全てを言語化し続けていたからです。この期間に外出はほとんどありませんでした。そして、自分はここで大学空手部時代のトラウマも全て言語化したのでした。
『引用終わり』
このように自分は1つ目の大学を中退後もこの大学に足を運んでいました。そして、自分は28歳で部屋に引きこもり、学生時代のトラウマを全てノートに書き出しました。もちろん、1つ目の大学における空手部のトラウマも全てです。
1年後自分はノートを書き終え、再び外の世界に出れるようになりました。そこで真っ先に向かったのが、1つ目の大学です。自分はそれまでもこの大学を訪れていましたが、トラウマを全て言語化した後の訪問は意味が全く違っていました。前回の記事に書きましたように、それまでの訪問は「愉悦」の側面が大きかったのですが、ノート後の訪問は「慰霊」の側面がかなり大きくなっていました。
そう、トラウマを言語化し終えた後の訪問は、それまでの訪問と全く意味合いが違っていました。自分はトラウマを詳細にノートに書き続けた事で、自分が大学空手部の3年間においていかに心身を壊し続けたのか、その詳細を理解していました。その詳細を理解した上で1つ目の大学を訪れると、そこには当時の自分が孤独と恐怖にのたうち回る姿がありありと見えたのです。
そう、当時の自分は「空手部の稽古で殺されるのではないか」という恐怖に3年間のたうち回り続けたのですが、そんな当時の自分の残像を大学内のそこかしこに見る事が出来ました。
自分は大学内を歩き回りそんな当時の自分の残像に話しかけ、慰め、慰霊して回りました。そうする事で当時の自分の魂が少しでも慰められるような気がしたからです。
ですので、トラウマを言語し終えた後も自分は半年に1度くらいのペースで1つ目の大学を訪れ、当時の自分の魂を慰霊し続けていました。そして、2008年の5月頃、自分は1つ目の大学を訪れ、いつものように当時の自分の魂を慰霊して回りました。自分はその後その大学近辺をブラブラ歩いていたのですが、その時にふと思い付いたのです。「あれ?こうやって過去の自分の魂を慰霊する要領で、アニメの感動や興奮を消化する事は出来ないだろうか??」、と。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
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